例えば、手や脳の機能に不都合がある人がどんなに楽器を練習しても、そうでない人みたいに弾きこなすことは不可能だと思います。
(もちろん、障害など不都合な度合いにもよるとは思いますが…)
でも、その人にとっては、「曲を弾くこと」が目的ではなく、「楽器を弾くこと」を通じて、運動機能が向上したり、出来ることがちょっとずつ増えることで、何事にも前向きになったり、単純に音を聞いて楽しい気分になったりすることはあるわけですね。
そういう意味で、「結果」ではなく「過程」を大事にしたいという教え方、習い方もアリだと思います。
別の言い方をすれば、ある曲がちゃんと弾けることを結果としないということ。
しかしながら、発達障害のお子さんを指導したことのある先生がどこかに書いていましたが、その子の特性とペースに合わせて手ほどきして、生徒も喜んで通ってくるし、生徒といい関係は築けているのだけど、当然、定型発達のお子さんより進度が遅いので、「これだけのお金と時間を費やしているのに、まだこの曲が弾けないの?どうなってるの?」と見られてしまうのが辛いのだとか。
素朴な疑問なのですが、そもそも、演奏って、それを職業にしている人は別として、何で人になるべく完璧な形で聞かせることを前提としないといけないんだろ?
なんで大勢多数の人に気にいられるように弾かないといけないんだろ?
演奏家は別ですヨ!
不完全なものや演奏家の自己満足だけで意味分かんないものを見せたり聞かせられたりしたら、私はお金と時間を返せと思います。
ある先生(演奏家)とお話していた際、うっかり、失礼にも「先日の本番演奏中、調子悪そうでしたね、途中でアレッと思いました」と言ってしまったことがあって、その先生は調子の悪かった理由(言い訳?)を延々話してくださいました。
その話の中で「やっぱり、みんなにいいとこ見せたいわけじゃない?」というフレーズが飛び出して、私がポカンとしていたら「演奏家ってそう思うものなのよ」と笑ってました。
私なんて、人にいいとこ見せたいなんて思ったこともないなぁ…
ただ、叱られたり、文句言われたりしないように弾いておこうというのはあったりするけど。
基本的に他人が自分の感性を受け入れてくれるとか、自分に共感してくれるとはあまり思えないのよね(そういう経験に乏しいから)。
私自身、大勢多数の人みたいに、誰それさんの何とかっていう曲の演奏に感動したから習い始めたとかいう経験ってないのよね(^^;
誰それさんの、何とかっていう曲の何分何秒あたりの(或いは何小節目かの、もしくはどこそのこのフレーズの)音符の響き方がたまらなく好き、とかいうのは、よくあるんだけどね(笑)
私が弾き続けてきたのは「生きるため」でした。
少なくとも弾いてる間は「生きてるの辛い」「消えたい」とかいう衝動を抑えることができたからです。
今はそこまでひどい精神状態じゃないので、弾く必要もないのかもしれませんが、やっぱり好きだから弾いてます。
欲しい響きが手に入る前に死ぬわけにいかない…死ぬ前にあの音もう一回、再現したいなぁとか思います。
「知音」という言葉があるけど、本当に自分の音に共感してくれる人がいるって、凄いことだよねって思います。
技術的にうまく弾いたら無条件で誰かが共感してくれるわけじゃないし…。