モチベーションの維持

昨日、三味線のお稽古前に、後輩と約束してカラオケ屋さんで二人練習会をしてきました。久々に大笑いしました。
失敗しても前向きにゲラゲラと…

音楽をやったり、スポーツしたり、絵を書いたり等、一般的には「趣味」とひとくくりにされてしまうものですが、これらをやりはじめる動機は人それぞれでしょう。
皆さん、どうやってモチベーションを維持されているのでしょうね。
私の場合、年に一度の発表会は、誰かが見てくれていて、「よかったよ」ということもありませんから、人が喜んでくれるのが嬉しいから弾くという感覚を、味わったことがありません…
いてもいなくても、同じですからね。
私には、「大丈夫、大丈夫」とか「よかったよ」と声をかけてあげるべき弟子も後輩もいないし、「がんばろうね」と励まし合う兄弟弟子もいませんでしたから(私の兄弟弟子はほとんどが「先生」なので自分のお弟子さんの世話を焼くのに忙しかったり、会場のお仕事で忙しい)、孤独なもんです。
(じゃあ、なんで出演してたのって言われると、少しでも場数を踏めば、あがらなくなるんじゃないの~という期待もあり、あとは出る方が先生も嬉しいと思ってたから)

前にも書いたかもしれないけど、「三味線」がやりたいとか、「津軽」がやりたいと思ってやり始めたわけではなく、「先生みたいな綺麗な音が欲しかった」が動機なので、実際のところ、私のようなタイプは、どうしても目的が「ばくぜん」にしかならなくて、だから当然、虚しくなりがちですよね。
本当は、私、三味線も津軽も好きじゃないのかもなと思い、だったらやめてしまえとここ三年ぐらい躁鬱の波があって悩んでいました(いわゆる病気の躁鬱ではなく、どんよりとした落ち込みが周期的に襲ってきてやめたくなるという程度の意味です)。
でも、昨日、先生以外の別の誰かと狭いカラオケボックスで合奏したり、唄ってあげたりしたら、自分のリズムをとりの甘さとかがよく分かるなど、新しい発見があって、楽しかったんですよね。
もちろん、これまでも、流派を超えたサークルに顔を出してみたとか、いろいろ解決策を試みてはいたのですが、後から入っていって馴染むというのは、皆さんがどんなにいい人達でも、コワイというか、浮きたくない一心で気を張っているから疲れるというか、なんというか…初心者なので、どういう曲をやるか事前に知らずに、いきなりXXなら弾けるでしょって急に言われても、ところどころうろ覚えだったりすると、間違えて迷惑かけたくないから、弾きたくないというか…
でも、今回のように、やりようによっては、楽しく思えるなら、自分で、そういう機会を一生懸命作って、名取代をどぶに捨ててまで、止めることはないと思いました。

趣味だから楽しくやりたい、突き詰めれば、人とつながる、お喋りすることに喜びを見出している人、こういう人は、お仲間がいる限り、ずっと続くと思うし、世の中の先生方にとって、一番ありがたい生徒さんなのかもしれません。
そのことが大好きで、出来ればその道で飯を食いたいと思うけど、まだそれほどの実力がないから本業しながら、鍛錬している人、こういう人はいずれプロになれたり、或いは本業を定年退職後に先生になったりとしますから、私から見たら、お金も才能も環境も十分あって、羨ましい限りの人ですね。

私には、今、本業というものがありません。
若い頃、勉強したり、仕事としてやっていたことは、ちゃんとスキルアップしていると思っていたことが、結局、そのことを活かせる場所にとどまることができず、最終的にその知識はゴミになってしまいました。
歳くってから、慣れない分野のアルバイトしても、自律神経おかしくなりそうでやめちゃったり、いい年した人間なので、「努力」って「無駄」だと知ってるけど、現実に「努力の空回り」を何度も経験するのはしんどかったりします。

そんなこんななので、私は、前にも書いたけど、自分の「もう、死んじゃいたい」「消えたい」から逃れるために、あと少しいい音がするまで死ぬのは延期だと思って、弾いてきました。
芸道に終わりはありませんから、私が理想を追い続ける限り、死神の手から逃れられるという仕組みなのです。
しかしながら、朝から晩まで非生産的なこと(若くもないプロでもない人が朝から晩まで練習するようなことです)を続けていると、家族に言い訳が必要で、いつか人に教えるためと言ってきました。
もちろん、まったく嘘ではないのですが、現実には大して上手くない人から教わりたい人はいませんから、困りましたね。

多分、私は、出来ない人の気持ちがものすごく分かって、且つある程度、改善方法を教えてあげられますが、現実として、私の初期状態のように、ひどくて、どうしようもなく手のつけられないような不器用な人はそうそういませんし、いたとしても早々にやめますから、私の経験談は「普通のスペックの人」には必要とされてないかも…ですよね(ひきつり笑)
私はかつて、ある分野のある先生(三味線ではない)に「私があなただったら、多分、数日でやめているけど、やめないのはスゴイ」と言われたことがあります…(褒められてるんだか、呆れられているんだか)でも、この先生が根気よく私につきあってくださったことを考えれば、上記のセリフは、本当に思ったままを言っただけなのだと思います。

私はもともと、趣味だから楽しければ腕なんて上がらなくてもいいとは思えません。
おそらく、ある程度、出来るようになった人は、上手くならなければ楽しくもない、という状態になるんじゃないかと思うのですが…
ネットの書き込みなどを見ていても、「趣味」だと言いながらも、本当は真剣に上手くなりたいと思っている人は大勢います。
しかし、哀しいことに、そう簡単に上手くなれるもんでもないんですよね。
また、普通に育った凡人には、若いうちから才能や環境(子供の頃から師匠クラスの人が身近にいたとか)に恵まれてきた人たちの輪(身内感がすごすぎ)に入っていきづらいから、何かを教わる(あるいは技を盗む?)場から、余計に遠ざかっていくという矛盾…

最近、美大生が読むような本を何冊か読む機会がありました。
「ばくぜんと上手くなりたいと思っていても上手くならない」
「上手くなるための思考法」というものがあると説いていました。
音楽の世界も似たようなものかと思いますが(もちろん、幼少時によい先生に恵まれた方は別です)、沢山描けばいつか上手くなる的な根性論しか言わない人いますよね。
実際、何も書かなければ(練習しなければ)上手くなりませんが、根性だけで上手くなる人は特別な才能ある人だけだと思います。

目的をもって練習しないと努力は本当に無駄になります。
西洋楽器、あるいは伝統楽器と呼ばれるものでも、現在の中国の二胡(日本の二胡教育ではないですヨ)などはメソッドがある程度、確立しているので、その練習の目的がはっきりしています。
曲を最初から最後まで通して何度も弾くなんてことは、あまりしないと思います。
そして、メソッドが確立している分野では、自分はいま、どういう位置にいるのか、何を目指しているのかという全体像がある程度、見えます。
だから、迷いも不安も、ある程度は解消されるのでしょうね。

「明日は、今日より上手くなる」と素直に信じられるように、自分で工夫しないといけないんでしょうね。

虚しいの…

三味線のお稽古に行ってきました。
このところ、お稽古であがります。
練習してないから?
別に練習していないわけじゃないんですよ。
もちろん、プロの演奏家の練習の仕方に比べたら、量も質も悪すぎる練習の仕方なのでしょうけど、素人の趣味の人と比べたら、私は今、仕事なくて暇だし、面倒みなきゃいけない子供いないし、介護の必要な老人抱えてるわけでもないですから、相当、練習する時間はあります。

結局、どんなに練習したって、人前できちんと弾けなきゃ意味ないじゃないですか…
で、この問題、つきつめていくと、「何かに意味があるとか無いとかっていったい何?」「意味があるとかないとかって、つまり他人の評価?」ということにいきつきます。
でも、中には人からどんなに評価されていても虚しい人というのもいて、結局のところ、人が認めようが認めまいが、自己肯定できないと「意味がある」とは思えないだろうな。
そしてそれを突き詰めていくと、「生きること」にも、意味を求めはじめて、「自分には生きてる意味がない」となって自殺願望が出てくる人もいますよね。
かつて自分はそうでした。

弾いてないと、死にたくなるから、弾いてたのだけど、よく「弾かないと死んじゃう」という私の言葉を間に受けた友人が、私のことをよほどの音楽好きだと勘違いしてくれました(^_^;)
でも、人間、ある程度、歳くってくると、そもそも自分も含めたあらゆる人の人生そのものに意味なんてない、生きること自体、意味なんてないんだわなというところに落ち着くと思います。
神様がまだいいよって言わない以上、生きるしか仕方ないじゃないですか?

私は今晩、無性に虚しかったです。
もちろん、一人で練習してる時は楽しいけど、人前で弾くのは恐ろしく虚しい。
どーせ、上手く弾けないし、上手く弾けたとしても他人にとって何か意味あるわけじゃなし(^_^;)
自分にいつか晴れ舞台があるわけでもなし。
大多数の人は、音楽や書画などの創作物によって、人の心なんて動かせません…
いやはや、すごいアーティストの作品だって「これ、何が面白いんですかね?」ということは多々あります。
(実際、私も美術館で、隣にいた人、それもすごく教養ありそうな人がそうつぶやいた時に、良かった~私もそう思ってたのよね~と笑いをこらえたことがあります)

本人的にはそういうウツ状態で(先生も含めて)人前で弾くのは失礼だから、なんとかテンション上げて人前に出ようと思うのに、上手くいきませんでした。
せいぜい、ニコニコ笑うぐらい…(弾けてないのに笑うのは逆に不謹慎かもしれないけど、泣くわけにもいかず…)

私の身体的、あるいはメンタルなダメダメぶりも、「こういうやつもいる」と先生のデータベースに「蓄積されるという意味において、意味はあるのかもしれないけどね(笑)

そもそも時間芸術自体、私に向いてないのかもなぁ。
絵とかなら、失敗しても塗り直せるし、場合によっては破いて書き直して、一番いいものだけ人前に出せばいい。
でも、音楽は、どんなに影で弾いてきたたとしても、表で弾けなきゃ、=練習してない、と同じだし。

下手でも、ちまたの発表会みたいに本人が一生懸命で、ひたむきだったり、楽しそうに弾いていれば、それはそれで、見てる方も元気もらえたり、楽しい気分になれるかも分からないけど、私は弾いてる自分が虚しすぎて、多分、見た目も最悪。

もう、何もかもやめちゃった方がいいのかなって思ったけど、そうすると、明日からまた死にたくなるから、やめないと思うのでした。
つくづく、ネガティブな動機。

でも、日々日常が生きるのに大変な人や、お金がなくて朝から晩まで仕事して休む間もない人、病気で明日死ぬかもしれない人が、これ、聞いたら、あんたは暇だからそんなこと(虚しいとか)考える余裕あるんだと、言うだろうなと思うのでした。

天河石

tenga
天河石(てんがせき)、英語で言うとアマゾナイトという石が大好きで、見付けるとつい買ってしまいます。
パワーストーンとしての効果は、「希望の石」
夢を後押ししてくれる石だと言われています。

天河石には、産地がいろいろあって、同じ石でも産地によって、青から緑の間でいろんな色があります。
私の緑よりの色の天河石のブレスレットを見たある人が「それ、ヒスイ?」とおっしゃいましたが、「アマゾン・ジェイド」という言い方もあるくらい、天河石の中にはヒスイっぽいものもあります。
石って、よく見ないと別の石だということがあるのですよね。
意外と別の石が染められて、まことしやかに違う名前の石として売られていたりして…
そんなわけで、私の持っている天河石も、値段が安いものはおそらく、別の石なんじゃないかな。
クォーツァイト(珪岩)を染色したものが「アマゾナイト」として多く出回っているそうです。
ちなみに、ペンダントは中国で買ったものですが、かなり緑色をしているので、ロシア産だという答えを期待して、販売員のお姉さんに「新疆とかで採れたの?」と聞いたら、「いや、多分、南アメリカだったような…」と言われ、だったら普通はもっと青いでしょと内心思った記憶があります。
(まぁ、うんとまけてもらったから偽物でもいいかと…)

石とか、骨董とか、絵画とか、真贋を見極める方法というのが、いろいろあるわけだけど、結局のところ、本物をたくさん見てきた人は、なんとなく本物と違うと直感的に分かるんだろうな。
あとは、どこが本物と違うか分析していけばいいわけで…
もちろん、知識としてこういう偽物、ああいう偽物があるっていうことを、後でいっぱい勉強したら、それはそれで真贋を見極められるのだろうけど、直感で「なんか違うな」と最初に見当をつけるということはできなさそう。
前者は、すぐに結果が出るし、後者は、無理矢理結果が出せるかもしれないだけ。

でも、本物を幼い頃から身近に見てこられる人って、極めて少数の恵まれた人だよな…
極めて希少な匂いを知っている人、極めて希少な味を知っている人、極めて貴重な美術品をいつも見てきた人、極めて芸術的な音楽をいつも聴いてきた人…
ずるい、ずるいな~
後付けでいろんなこと覚えるのが、なんだか虚しいような気がしてしまう。

なんか、オチのない暗い話でごめんなさい。