間接的自己肯定

NHK教育に「ハートネットTV」というのがある。
どういう番組かというと、番組ホームページから、引用すると…

障害や病のある人、悩んでいる人、支える家族や共感する人。現代社会には、さまざまな「生きづらさ」と向き合っている人がいます。そんな「生きづらさ」を抱える全ての方々のために、ハートネットTVはスタートしました。“当事者の目線”を大切に、ほかのメディアやニュースとは違う視点で「生きづらさ」を掘り下げ、シリーズ化して放送しています。

昨日、大森靖子(おおもり せいこ)が出ていたので見てみた。
彼女は学生時代、周囲から浮きまくっていたらしい…
話を聞いていると、そりゃ、あんた、浮いて当然やわと思う…
私自身、全然知らない人だったし、若くもない私にとって別に音楽的に共感できそうなシンガーソングライターでもないんだけど、以前、夫が「私が好きそうな子」だと教えてくれた人。
時々、夫は新聞や深夜ラジオで、ちょっと変わった音楽や美術、舞踊の人が出てくると、後で、なぜか「私の好きそうな人」だよと教えてくれる(笑)。

大森靖子の音楽はよくわからないけど、一点、ものすごーく共感できたことがある。
彼女は、いつもクマのぬいぐるみナナちゃんを持ち歩いている。
絶対的に自分を肯定してくれる「誰か」がナナちゃんらしい。
人間には「絶対的に自分を肯定してくれる誰か」を期待できないわけで、「絶対的に自分を肯定してくれる誰か」を自分で作り上げなきゃ生きていけない人いるんだよ。
(多分、大多数の人は自分で自分を直接的に肯定できるので、間接的に肯定するというまどろっこしいことはしない)
その気持ち、よく分かる。

なんども死にたいって思ったらしいけど、自殺は殺されるのと同じだから、悔しいからしなかったそうだ(^_^;)
↑ここは私と違う…私はオバさんなので、放っておいてもあと数年で死ねるので、あえて死のうと思わなくなった…歳とるとだんだん、いい加減になる(笑)

しかし、生きづらさを抱えていない人はいないと思うんだよね。
ただ、大多数の人が感じる生きづらさとは違う生きづらさを抱えている少数派がいるわけで、そういう人たちの中で才能ある人がアーティストと呼ばれるようになっていくような気がする。
少数派の生きづらさを感じていても、大多数の人の感性や常識に無理して迎合できる人や、才能ない凡人の少数派は、どうやって生きてったらいいんでしょうねぇと、私なんかはよく思うのである。

私の最近のお気に入りは、ウサギの奏(カナ)ちゃん。
kana

鏡と私の深い仲

kagami
先日、楽器の練習用に大きな鏡を買いました。
実は、私は自分がこう動くと実際にどう動いているように見えるのかとかいうことを予測する空間把握、立体把握が弱いので、鏡は本来的に必需品なのですが、高いし持ち運びに不便なので、今まで持ってませんでした。

大きな鏡は割れると危険ですが、フィルムミラーというのは割れないし軽いので便利ですね。
強く押さえたりしてヨレないようにするという注意は必要ですが…

鏡は自分を客観的に見られる便利な道具です。
自分では真っ直ぐに弓を引いているつもりでも、余分な力がかかるとか、ボーッとした際に必要な力まで抜けすぎるとかの理由で、まっすぐでないとか、残酷なくらい、自分の欠点を映し出します。
昔、演劇専攻の子が使用する鏡張りの教室で弾いた時、自分の醜さにショックを受けて、一週間ほど食欲不振でした(^^;;

もう、技術的視点から見たら、私の演奏の動きって、ロボットよね…
人間とは思えない(T ^ T)

技術以外の問題では、自分の演奏中の顔を鏡で見ると、ゲロゲロと思います。
ホント、普通に練習しているときの顔って、不愉快そうに弾いてるか無表情か、どっちか。
(あ、音外した、リズムぶれたとか、そういうことばかり考えていて実際、不愉快なので、そういう顔になるのでしょう…無表情なのは自分を表現したいとこれっぽちも思ってないというか、むしろ自分を否定しているからなのだと思います。)
つくづく、この仏頂面を先生はいつも見てるんだなぁと思って申し訳ない…

ちなみに練習ではなくて、心から自由に好き勝手楽しく弾いている時の自分を録画してみたら、基本的に眼は閉じてて、頭がグラグラ動きすぎです。
自分は楽しいからさすがに仏頂面ではありませんが、人が見たら鬱陶しいので、人前では絶対にできない…

顔以外だと、脚も問題だなぁ。
一番、安定する姿勢をとると、膝の間が少し開いちゃうんですよね。
男性はそれでいいかもしれないけど、女性はみっともないよなぁ。
人前では、着物着てるか、ロングスカートはくしかないわよね(^^;;
もちろん、気をつければ膝を閉じていられるけど、それだと余分な力が必要で疲れる…

実は、ワタクシ、ちょいと変な癖があって、子供の頃から、泣くときは、必ず鏡を見にいき、ずっと自分の表情を見ながら、泣いてます…
鏡見て、自分は悲しいんだなって、自覚するのですが、なぜ、そんなことするのか、自分でも謎です…。

役者や演奏家になれる器ではないので、そんなに自分を鏡に映す必要もないのに、子供の頃からつい、鏡で自分を見ちゃうんですよね。
街中の車のガラスや、お店のガラスに映る自分もよく見ます…

で、オシャレなのかというと、その逆で、子供の頃なんて似顔絵がいつも寝癖…
髪のはねた自分を鏡で見ながら、あ、はねてるな〜と思ってただけ。
大人になってからは、ずっとロングヘアにしているのは髪のハネを隠すためでもあります(笑)

自分の姿形を遠くから見ることで、自分がこの世に存在していることを再確認してるということなのかもしれません。

さるやんごとなきお方の御所望

8月下旬から落語の怪談のCDを聞くことにハマっております。
CDは図書館で借りて来ます。
毎年、夏になると、怪談、聞きに行きたいなぁと思うのですが、私は実は怖いの苦手。
だから、本当に怖い話は大嫌いですが、落語のように笑いあり、昔話の風情漂うものがいいんです。
新内のお師匠さんが出て来たりとか、風流だ〜

さて、先日聞いたのは「耳なし芳一」でした。
さるやんごとなきお方が、お忍びで近くまで来ていらっしゃって、あなたの弾唱を御所望だから、私について来いと言われ、着いて行って琵琶を弾く芳一…

ふと、家の近所の小さな墓地の入り口の門が最近開きっぱなしなことを思い出しました。
この辺、おそらく昔は畑とかだったのかもしれず、うちへ続く近道は私道ばかりで、その墓地も個人宅の敷地に昔からあるものと思われ、猫の額ほどのスペースに古びた墓石がちまちま並ぶ光景。
ううむ、今晩、鎧を来た人が、家の前で、
「さるやんごとなきお方があなたの三味線を是非…」と言ったらどうします?

しかし…私は未だにこの物語のどこが怖いのか分からない…
だって、本当にやんごとなきお方が真剣に演奏を聞いてくれて、喜んで涙流して、ちゃんとお礼までくれるんだよ?
耳を取られたのは、鎧の人には、お経を書き忘れた耳しか見えなかったからで、それも、わざとじゃなくて、自分の主に「耳しか居ませんでした、これが証拠です」という言い訳のために取って行っただけだし。
結果として、芳一さんはますます名声を得て、その後もお仕事いっぱいで、不自由なくお過ごしになったとか…

余談ですが、うちから遠くないところに、「怪談乳房榎」(三遊亭圓朝によって創作された怪談噺)のモデルの一つとされる古木もあったりします。
ちなみに乳房榎は特にこの一本がという特定のモデルがあったわけではないので、某地区のあちこちで祀られているみたいですが(笑)