ネガティブの効用

サラリーマン辞めたいのに、やめられない、
たばこやめたいのに、やめられない、
甘いものやめたいのに、やめられない
そんな、あなたに…

自己啓発系のセミナーの広告を見て、
「生きるのやめたいのに、やめられない(−_−;)」
と、ふと思ってしまいました。

自分、絶不調なので、こんなブラックな冗談、思いつくのでしょう。
不快に思われた人、ごめんなさい。
やめたくない人は、それが、有害にせよ無害にせよ、健全にせよ不健全にせよ、今、精神的に必要だからやめられないんだよ?
無理にポジティブに生きなくてもいいじゃん…
ということで、私は、ネガティブに生きることを続行中。
ご心配なく。

若い頃は自己啓発系の本もいっぱい読んだけど、結局のところ、ほとんどは著者と遺伝子や環境まで一緒じゃないと役に立たないのだ〜
自己啓発系の本のほとんどは、他人を成功させるためのものというより、著者の自慢話で、著者の成功をもっとサポートしてあげてるだけだったりして…(^^;;
もっとも、著者のファンなら、芸能人の私服写真みて、同じコーディネイトするのと同じ意味で、楽しいのかもしれない…。

人は一体、何に心を動かされているのか?

「感動」とは、
美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。
― スーパー大辞林

脳科学的に、どうしたら、ヒトが感動するのかというメカニズムは分かっていないようです。
そりゃそうですよね。それが完璧に分かれば、クリエーターは苦労しないわな~
芸術にかかわる仕事をしたい人は、医学部に行けって(笑)話になる…訳ないだろ。
私の脳に関して言えば、経験的にある程度、分かっているのは次のようなことです。


1、全く未知のものには感動しない。

これは、反論があるかもしれないなぁ。
これまで見たこともない、聞いたことがない美しさ、新鮮さ→感動した~っていうのは、皆がよくいうセリフだよね。
でも、本当に今まで見たことも聞いたこともなかったのだろうか?
それは実際に見たことも聞いたこともなかっただけで、自分の頭の中にはすでにあったのではないだろうか?
私は、そうよ、これよ、これっていう運命の出会いなのだと思います。
ちょっと、デリケートな話になるかもしれませんが、もともと目が見えなかったり(見え方に問題がある場合もあるでしょう)、聞こえなかったりする場合(聞こえ方に問題がある場合もあるでしょう)、大勢多数の人と違う感じ方をしている筈です。
見えたままではなく、光の具合で判断しているとか、聞こえたままではなく、音の振動の具合とかで判断しているとか…
皆がいいって言ってるからいいと思うというのは、共感であって、感動じゃないと思うんですが…もちろん人と共感することで感動を得るというタイプの人もいると思うんですけど。
もっとも、私の尊敬している人、大好きな人が「XXに感動した」と言えば、その気持ちを知りたくて共感しようとするという恋心に似た原理が働くことはあると思います。


2、いかにいいラベルが貼られていても、ラッピングが綺麗でも分からないものは分からない~

最近、音楽関係でゴーストライター問題とかありましたが…思ったのは、結局、商業的に売れるものって、そのものより、それをラッピングしている物語に人々は動かされるんだなぁということ。
よほど才能がない、時間がない、金がないというのではない限り、ある程度の年月やお金をかければ、普通の人でもある程度の創作は可能なのだと思うんですヨ。
もちろん、何でもかんでもできる天才は、本当はそこらへんにゴロゴロいるわけでもないんで、商業的な創作の場では、皆が得意なことを分担するチーム体制で行っていると思います。
それで一定の質の創作物が継続的に出来あがるわけですよね。
でも、それじゃあ、誰だってできちゃうのよね(ある意味、いいとこどりだから)。
誰にでもできることじゃあ、ドラマにならないから、変なこと思いつく人もいるんだろうか…。
そこまで、故意に嘘をつくのはいけないけど、そこまで悪意なくとも、いい(と思われている)大学に行きたがることや、プロフィールによく分かんないコンクールの受賞歴を並べたりするのも、そういう信用や共感を得るためだったりするわけよね。
でも、しょうがないよね。
これだけ創作の場で素人が簡単に絵を描いたり、小説書いたり、動画撮ったり、演奏したりして、なおかつ無償で提供していて、しかも、クオリティは素人目にはさほど劣っているわけでもないという情報過多の社会では、何かドラマがないとそもそも、人の目に留まらないのだから。
タダでも手に入ることに、わざわざお金出す人もいないもん。

人が芸術にお金を出す場合、純粋にその作品に惚れている場合はもちろんだけど、作品そのものに惚れているって言うより、クリエーターやパフォーマー(の人柄?)に惚れてて、その人たちの将来に期待して出しているんだろうなと思います。

昔、東京のとある美術館で、よく分からない芸術に触れて、「う~ん、よく分からねぇ」と思っていたら、傍にいた人が「これってどこが面白いんでしょうか?」って私に真顔で普通の音量で聞くので、「さぁ~?私もよく分からない」と言って大笑いしたことがありました。
日本人なら、普通は、つい、分かったような顔しちゃうんでしょうね。

ゴールデンルールは私に通用しない

黄金律(おうごんりつ、英: Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/黄金律

子供の頃、「他人にしてもらいたいと思うことを、自分が先にしなさい」と言われたけど、このゴールデンルールは非常に難しいと思ったものです…
だって、これ、その社会における大多数の人と自分が同じ文化背景を持っていて、大多数の人と同じ思考パターンを共有してないと、成り立たないのですね。
自分はこうされたら嬉しいと思うことをしても、相手のニーズに全く合ってないということが多々あったので、その都度、学習してこういう時はこうするみたいなデータベースを構築してきました。
生活年齢が上がるにつれて、データベースの量も増え、おかげで叱られることも減りましたが、でも、やっぱり、やらかしちゃうことあります。

外国にいる方が私にとって楽なのは、中国とか米国だと日本よりは異文化が混ざっているので、割とダイレクトに要求を出してくれるということと(言わなくても分かるでしょ!というのがない)、こちらが不適切な行為をしても、外国人だからしょうがないわねと大目に見てもらえるからなのだと思います。

また、私はストレートに「何で?」って聞くことがありますが、本当に分からないから聞いているだけで、反抗(反対)してるわけじゃないんですよね…
決して、私の「何で?」は「何であなたはそうなの?私はそういうのについていけない」っていう意味ではありません。
もちろん、本当に価値観が違いすぎてついていけない場合もあるでしょうが…そういう時は、ついていけない理由を事細かく並べた上で、ハッキリそう言います。
そうでない以上、その価値観を尊重するためにも、「何で?」って聞いてるだけだったりして。

外見的にフツーの日本人で正常な私は、フツーのことがフツーにできて当たり前なはず(と他人はフツーにそう思う)ので、とんでもなくびっくりさせたり、気分を害したりさせてしまって、自分もどーんと落ち込みます。
(ちなみに、私は日本国籍の日本人で日本育ちで、両親も日本人です)

そういえば、最初の大学時代、中国政治学の加々美光行先生が、中国人と日本人って見た目似てるし、実際、文化も共通部分があるから、うっかり、同じ考え方を持っていると勘違いしたまま交流するので、誤解が生じて、関係がこじれるというようなことをおっしゃってました。
これが欧米人相手なら、最初から、違う世界の人だと構えて話してるから、期待を裏切られたとか思うこともないんですよね。

ちなみに、私はたまに留学生仲間にアンケートに協力してとか頼まれますが、政治的なものに関してだけは一律、断っています。
よほど個人的に親しい仲であれば、政治が絡む話も相手がふれば、話に将来性があるのでしないこともないけど…
普通は、相互理解というよりは、相手はこちらを説得したいだけだもんね。
なんか、相手の国の言語や文化を知らない人同士が、自分の思い込みで相手を避難してるだけで、逆に相手の国の言葉も文化もある程度わかる人は、相手のホームグラウンドで話をしても無意味とわかっているので、そういう問題に触れたくないというか…私はそういう気がします。

ゴールデンルール、ってその社会の多数派のルールなのよね。
でも、誰だって、厳密には、他人と自分の価値観が完全に一致することは皆無のはずだから、合わせて生きてるんですよね。
ただ、合わせなくてはならない部分がとても少ない極めてフツーの人や、そもそも合わせる必要を感じない才能ある人(他人が合わせてくれる)は、本当に羨ましいですね。

私は、自分が楽に生きるためにも、他人に迷惑をかけないためにも、その社会の大多数の人が何を求めているのか、これからもデータベースを更新していかねばなりません。