脱力と触覚の関係

「なぜ、最初に脱力と指先の触覚の大切さを教えてくれなかったのか」と世の中の楽器の先生を恨む今日この頃です。
私は半世紀近く生きてきて、いろんな楽器を少しずつかじりましたが、やっとある先生に出会えて、楽器を弾く際の「脱力」ってこういうものなんだということが分かりかけてきました。
力を抜いて弾くと(というより、最低限の力で如何に合理的に弾くか)、音も変わります。
たまに「正しい(とその業界で思われている)音」が出た時は、思いっきり褒めて、その音がした時の、指先の重みや、腕や指の角度を身体に記憶させてやる助けにしてやるためにクドクド言ってくれる先生は、少ないと思います。

確かにどの先生も「脱力」の大切さを説くものの、じゃあ、どうやったらいいのっていうことを素人に上手に教えられませんよね。
過去の私の先生の中には、脱力を説いているものの、先生の言うとおりに弾くと力を入れないと絶対弾けないという矛盾甚だしい方法を教えてくださる人もいました。
大人の私が彼の言うとおりに何年も弾き続けたら、多分、身体を壊していたと思います。
先生というものは往々にして才能や身体能力に恵まれた人がやっているせいもあって、本人は幼い頃、知らないうちに身に付けたから教えようがないということもあるんでしょうね。
あるいは、努力型の先生でも、長くやっているうちに何となくできるようになったから、他人もそのうちできるとタカをくくっているのか?
凡人以上の人であればできるようになるのかもしれないけど、凡人以下はどうしたらいい?(普通は、そういう私みたいな人は習わないのよね…)
あるいは「プロになるわけでもあるまいし」と、ウザいこと言って嫌われないようにしてるという町の先生もいるかもしれない。
先生方にも、いろいろ、仕方のない事情があると思うので、恨んでもしょうがないんですが、行き場のない怒りみたいなもんが、私の心の中で渦をまいてます。
私は今まで10の力で弾いていたとすると、今は半分の力で同じように(むしろ、もっとマシな音で)弾けます。力を節約できた分、脳みそを他のことへ回せます。
おそらく、極めれば、かつての力の10分の1の力で弾ける筈です。

昔は、演奏家が楽器は身体の一部だと言うのが、全然分かりませんでした。
言葉のあやだろとさえ思っていました。
でも、本当だと思います。
ちゃんと合理的に弾いてさえいれば、腕や手の重みが爪先にかかりますので、弦の触感がよく分かります。
余分な力が入っていれば、弦に触れた時、あまり触感が分からないでしょう。
爪先に重さを感じていない状態で弦を弾くなとクドクド言われました。
二胡だって、合理的に弾いていれば、弓先は自分の指先と一体化して感じられます。
変な話、上手く弾けている時は、指先で自分のお腹を掻いている変な感じがします。
つまるところ、指が弓先まで伸びて一体化して、弦の振動がお腹あたりで響くのが分かるので、まるで、ポリポリとお腹を掻いているかのような錯覚すらするという…

ある人に、「三味線弾く時、つい、同じ撥先ばかり使ってしまう(三味線の撥はどちらの角で弾いてもいい)」と言ったら、「え、違いが分かるなんて(素人なのに)すごいね」と言われてちょっとムッとしました(笑)。
「触感」って、本来、初心者だからこそ、クドく注意を喚起してあげるべきことなんじゃないの?と思う次第です。
確かに、大人が一生懸命やったって、限界が見えているので、冥土の土産にたくさん曲を弾かせてあげればいいのかもしれないけど、別にお迎えがすぐそこまで来ているような人ばかりじゃないんだから…
上手くなれないと結局、楽しくないからやめざるを得ないわけで、演奏家にとっては当たり前のことでも、他人が真似出来るように教えてくれたらいいのにと思ったりするのです。

もしかすると、世の中にはアーティストとしてだけではご飯が食べられないから、食べる手段として教えているだけで、生徒がどうして弾けないのかに無関心な先生もいるのかもしれない(もしかすると、こういう先生の場合、生徒さんの方でもファンクラブのつもりで通っていて、技術の習得は二の次なのかも…)

もっとも、先生サイドでも、基礎をきちんとやろうとすると、ツマラナイ動作を延々やらせたり、難しい練習曲を淡々と弾かせることになるので、生徒さん(お客さん)が来ないっていう悩みがあるのも分からなくもないんですけどね。
あるいは、若い頃は一生懸命教えてたけど、一生懸命教えたにもかかわらず、生徒さんがあっけなく放り出してしまったりやめたりしたんで、教授に情熱がなくなった先生も少なくないのかもしれない。

つまるところ、初心者ほど、自分の習う目的をはっきり意識して先生を選んだほうがいいってことかしらん…と思います。

一度きりの実演と複製可能な実演

私は二胡の先生に完璧主義をやめろとたまに言われます。

私、自由奔放に生きているように思われてるので、えっ?て思う人もいますよね(^^;
私は着てるものとか自由気ままだし…(着物を着ていてもムートンブーツはいて街中へお出かけ)。
お部屋もぐちゃぐちゃ…(片づけ方が分からないのと集中力がない)。
料理させても、よく分からないので、なんでも、切っちゃえ、入れちゃえのノリで調理していつも予期できないものが出来てきたりして、周囲に不思議がられ…
おおよそ、几帳面な性格とはいえず、それで、なんで完璧主義?

こういうことです。

例をあげると、子供の頃、美術の授業で写生をしていて、見回りに来た先生に褒められました。
たまたま、父と見に行ったゴッホ展で、印象派の影響を受けた絵が気にいって、こういう描き方があるんだ~と、ものすごく感動してちょっと真似したら、ウケちゃっただけなんですが…
褒められると、周囲もどれどれ?って見に来ますよね。
子供なので、なんとなく周囲の意見を聞かなきゃと描いているうちに、なんか自分的にはすごく気に入らない絵に変わってしまいました。
最後は適当にごまかして描き上げて、いい成績はもらいましたが、その絵は最終的に破りました。

ちなみに、私と父はすごくよく似ていました。
父は精密な鉄道模型をつくるのが好きで、とても手の器用な人でした。
父が亡くなった後は、母は同じ趣味のいわゆるオタク友達に模型を差し上げましたが、「え?もらっちゃっていいの?きちんと出来てるから、材料費以上の値で売ろうと思えば売れるよ」とおっしゃったそうです。
でも、父は、晩年、木工に興味が移って、精密な船の模型を作って遊んでいたのですが、少しの狂いも許せないのです。
だから、いつも途中で自分の技術のなさに腹が立って、感情の高ぶりのあまり、出来かけの船を壁や床に放り投げていました。
(当然、壊れたりするので、修理するか、そこからやり直しになります…)
船は一隻も完成しませんでしたね(^^;

舞台演奏は、やり直しがききません(練習中は何度やりなおしてもいいですけど(笑))。
「やり直しは、家で細かくやることであって、私の前に来たら、私が止めない限り、あなたは舞台の上にいるつもりで、多少、音程やリズムが狂おうが最後まで弾きなさい。」
先生の言葉は、当然と言えば、当然ですよね。
「最近の子供や才能ある音大生なんかは、例えば、全然練習してきてないのに、先生の前ではいかにも練習してきましたという雰囲気をかもしだして、小手先のゴマカシで、親や先生を騙しにかかるのよね。先生は騙されないけど、普通の人は騙せちゃう。こういうナマケモノでズルイ態度は本当はいけないことだから、私は通常、生徒を叱るけど、あなたにはそれを真似するくらいのズルさを身につけてほしい」
とも言われています。

絵はどんなに破り捨てても、最終的に自分が納得した一枚だけを他人に見せればすみますが、音楽はそういうわけにはいかない。
そういうわけにいくとしたら、録音録画だけですよね。
実際、プロの演奏だって、CDやDVDは録音録画の編集技術、演出の技が効いていて、生とは別の意味で、裏方の編集・演出技術に感動しちゃうわけで…
CDやDVDは、演奏家や俳優の魅力より、裏方の苦労の賜物の占める割合の方が多いと私は思うけど、一般の人は、表に出ている演奏家や俳優の魅力のなせるワザと勘違いしてるだけのような気がする…

納得のいかないものを人前にさらしたくなかったら、あるいは観客の生の「アラさがし」な反応を感じたくなかったら、生の実演をしなきゃいいだけなのかもしれない。
確か、晩年、演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、コンサート活動やめて、録音と放送メディアに徹したピアニストいたよね?

お客さんって、実演してる側の舞台下の苦労なんて知る由もないから、特に舞台芸術の経験ない人は、残酷なことを平気で言う…。
ぼそっと言っても聞こえちゃうのよね。
そんでもって、自分が言われる側の苦労を知っていたら、自分も言わなきゃいいんだけど、自分がお金を払って見ている場合は、私は貧乏人なので、いわゆる“元がとれなかった”感がものすごく出てきて、そういうアラさがし的な発言がぼそっと出ちゃうことあるわけよね…ゴメン。
でも、本当に優秀なプロは、聞こえていても、それを教訓にして次に活かそう♪って頭が切り替えられるわけですよね。
…っていうかプロならお金を取ってるんだから、あまりにもひどい事を言われるような実演をしちゃダメなわけだけど、素人の場合、自分の成果を見てもらうためとか、自分のやってることの面白さを広めたいとかいう様々な理由で、表舞台に立っているだけだから、文句言っちゃいけないという意見もある一方、お金は取ってなくても人様の貴重な時間を奪うわけだから、あんまりひどければ、言われることがあっても仕方ないのだろうな…と思う人もいる。
でも、どんなに上手なプロでも、評論家にいろいろ言われちゃうこともあるんだよね?

今時は、実演も出版と同じで、才能ある特権階級だけが作品を発表できるわけではなく、ブログなんて評論の書き放題だし、YOUTUBEだって才能あろうが無かろうが(弾いてみました♪)をいくらやってもよいわけよ。
そして自分の好みに合わなければ見なければいい…
ちなみに、私がドラマを鑑賞する場合、実はストーリーそのものを追って、人物に共感したりして感動することは、あまりない…

例えば、映画とかドラマ見ていて、ある人物が非常にアヤシイ行動をとったとします。
「この人、多分、犯人じゃないよね、だって終了まであとXX分もあるし、ここで、こういうシーンを作ったのは、最後に意外なオチをもってくるための布石なんだろうな」と淡々と正直な感想を夫に言ったら「そういうことを淡々と考えながら映画やドラマを見る人、初めてだわ」と言われました…

うーん、私は気にいったドラマを何度もDVD等で見ることがありますが、当然スト―リは熟知しております。
何を見ているのかというと、確かこの次はこうなって、ああなってとストーリーのおさらいしながら、「あぁ、この人物が後でこういう境遇になるのを、このシーンですでに示唆していたんだ~」と一回目で気付かない部分です。
一回性の舞台だと、どんなに隅々まで見ても、あっという間で覚えてられないですよね。

どうでもいいけど、少女マンガの「ガラスの仮面」の北島マヤ、すごいよね、一度見た舞台のセリフ全部覚えていて、後で、一人芝居で子供相手に再現してあげられるその才能。
「のだめカンタービレ」の野田恵、初めて聞いたピアノコンチェルトを、オケ部分とピアノ部分を覚えていて、帰って来てピアノ一台で「こういう感じの楽しい曲だった」とお友達相手に再現してあげられるその才能。

私は繰り返し見聞きしないと、細部まで覚えてない凡人です(笑)
いや、別に覚える必要ないんだけど(笑)
ちなみに、私は別にドラマや芝居を作りたいとか思って勉強している人では全然なくて、これは、単に昔からの癖…

二胡LESSON127

「三門峡暢想曲」の引子と快板を除く部分の譜読みを何とかやったので、それをちょこっとやりました。
多くの人がブログでいろいろ書いていらっしゃる有名な曲ですが、皆さん、だいたい、こうおっしゃってますね…。

「習い始めの頃は他の人がこれを習っているとかブログで書こうものなら、『なに、自慢なわけ?私には一生無理、コイツ殺してやりたい』って思ってたけど、いざ、自分が習ってみると、ゆっくり弾く分には、別にさほど難しいとは思えない…」

ある意味、同感(^^;
でも、“譜面的に”さほど難しくない曲って、音色が綺麗じゃないとバカみたいに単調に聞こえるだけだから、本当は難しいんだと思うけど…
速く弾いてなんぼみたいな曲(例えば「賽馬」とか)は、速くさえ弾ければ、音が一つ抜けようが、音が何処かでかすれてようが、どこかで音程が多少狂おうが、素人目には「すご~い」ってなるから、下手でもいいんだろうけど。

しかし、これの快板の部分は、速すぎて、原曲のスピードで弾ける日はくるのだろうか(汗)

これをピアノと一緒に舞台で弾けたら、さぞや気持ちいだろうなぁ~と思いました。

「三門峡」って、黄河最大のダムのあるところですよね。
三門峡ダムの労働情景、人々の楽観向上精神を謳った曲のようで、1960年代に創られた比較的新しい曲。
だから、二胡っぽくないというか、西洋っぽいというか。
先日までやっていた「病中吟」の憂鬱な旋律とは大違い(笑)

さて、話は変わりますが、最近、ちょっと精神的にしんどいのですヨ。
歳をある程度とってから楽器を習った人なんて、真剣に上手くなりたいと思っていればいるほど、絶対、子供の頃からやってきた人を殺したいって思ったことありますよね(笑)。
六歳六カ月から今まで細々とずっとやってきましたって人、正直、大、大、大嫌い。。。

だって、まず、環境(お金の有無、時間の有無)が不公平…
同じ芸術と呼ばれるものでも、文学や美術等は、運動神経とはあまり関係ないので、何歳なって初めても問題ないし、音も出ないので真夜中にやってもなんら他人の迷惑にはならない…
多くの大人は、仕事しないと食えないから、そもそも飯の食えないことをやり続けるだけの環境がない(^^;
その点、子供の頃、たくさん時間のある時に、他人(多くは親)のお金で、ちゃんとした先生(場合によっては両親や祖父母)に基礎を教えてもらえた人って、本当に羨ましい…
100万回殴っても気が済まないくらい羨ましいですヨ。
基礎がきちんとしていれば、その上に何を積み上げても、くずれないし、何年かブランクがあっても、再開した時に、安定して積み上げられるから。
(だけど、そういう人達からしたら、趣味でやってんじゃねぇから辛いこともあったと言うかもしれない…)

しかし、抽象的にそういう人たちを憎んでも、自分の心が病むだけ…

ところで、スヌーピーの作者、シュルツさんの興味深い一節…
(彼はチョコチップクッキーが大好きだったのだそうな。)

「WHAT DO YOU DO WHEN YOU FEEL THAT LIFE IS TREATING YOU UNFAIRLY?」
「LEARN TO BAKE YOUR OWN COOKIES」
訳せば…
「人生って不公平だなぁって感じるとき、どうしたらいい?」
「自分のクッキーの焼き方を覚えなよ。」

そういうことなんだと思う…
私だけのクッキーってどう焼いたらいいんですかね…