二胡LESSON113

二胡LESSON113

課題曲 「春詩」

う~ん、確か、一年ぐらい前からやってなかったけ?
いまだに弾いてます(^^;
まぁ、並行していろんな曲をやっているので、ず~っとそればっか弾いてるわけでもないのですが。

本日も私の前のレッスンは、小学校3年生の前向きな例のお嬢さんでした。
ほんと、人懐こくて、明るい子なんです。
自分の練習見られたんだから(待っている都合上、私が傍でレッスン聴いちゃうのはどうしようもない)、私も游鯉姉ちゃんの練習見てから帰る~とか言うわけ。
うぇ~ん、私、緊張するのよ、ヒトが見てると。
でも、結局、逃げ切れず、小さなお客様に聴いていただきました。
手が震えるほどは緊張しなかったけど、やっぱり、思い通りには弾けませんね。
同じ先生に習っている者同士という「身内」意識があるので、わりと、大丈夫だったのだと思います。
他人に、「どうやったらあがらないか」とよく尋ねる私ですが…誰でも程度の差こそあれ、緊張するらしいです(プロの演奏家や先生でも、私が伺った限りでは、「全然あがらないよ~」なんて言ったヒトはいません)。

ヒトの評価を気にするなとかアドバイスくださる人もいらっしゃいます。
いや、私、別にこれで飯食ってるわけじゃないので、「金返せ」とか言われる心配しながら弾いているわけではありません。
また、コンクールでもあるまいし、他人との勝ち負けにこだわっているつもりもありません。

でも、ボランティアでも、あまりにヒドイ演奏をすれば、貴重なお時間を私のしょ~もない演奏で浪費させてしまってゴメンナサイという後悔の念でいっぱいになって、その日の夜眠れないということはあります。
昔は、弾くことは話すことと何ら変わらないので「自分のこと分かって欲しい」という思いで必死でしたが、最近は、身体的、技術的限界により、この先、何十年練習しても、自分の考えていることを100%表現できないだろうなと思うので、そういう取り越し苦労もしているつもりはないのですが…

私は、赤の他人が聴衆である場合、特にその存在というか、人間の塊(?)がコワイのです。
ある意味、日常生活においても、未知の人間がコワイと思っていただいていいかと思います。
好意的な人は、「恥ずかしがり屋さん」「人見知りさん」と私のことを解釈してくれるようですが…
でも、電車の中とかでもヒトの視線を感じてコワイとかおっしゃる精神疾患とか、ヒトと話す時、どもるとか赤面するという神経症の類とも違うようなのです。
プロのピアニストとか、知らない国で、他人のピアノで、初めて会ったお客さんの前で、いくら職業とはいえ、よくいつもどおりに弾けるよなぁと思います。

聴衆がよく知っているヒト(自分の先生とか)の場合、評価を気にして緊張するというのは多少あると思います。
よく思われたい、ほめられたい、カッコイイところを見せたいという評価ではなく「下手くそだと見捨てられるかも」という恐怖感ですね。
だって、見捨てられたら、教えてもらえなくなったら困ります。
付き合い長い先生だと、自分のおバカさ加減をよくご存じな筈なので、「見捨てるならもう、とっくの昔に見捨ててるだろう、だから大丈夫」と思えるので、そのうち平気になってくるというだけです(汗)

そういうわけで、最近は、もう目を閉じて弾いてしまおうか、と思わなくもありません。
オケで弾くことがなければ、指揮者を見る必要ないし、三味線などの大合奏は、相図は声だから聴こえてりゃ問題ないですしね~。
もちろん、見えなければ、恐怖の対象である人間を感じなくて済むのかというと、人の気配や音はしますから、やっぱりコワイわけですけど、半減はするような気がします。
盲人の音楽家が聴衆を無視して弾いてたのかと言うと、そんなことはなく、お客さんの反応を聴きとる、感じとってはいただろうと思いますので、別に支障はないかと…
でも、見えているのに、わざと見ないのは失礼なのかな???…うぇ~ん。

発表会で困ること

確かサザンの歌だったような気がしますが「恋人は美味なる多面体…」というちょっとエロティックな妄想が膨らむ歌詞がありましたね。
ところで、人間の顔って複雑な多面体だと思いませんか?
しかも喜怒哀楽があるので、一秒と同じ形状を維持してくれないし…
どうして、皆、人の顔をきちんと覚えていられるのか、私には不思議でなりません。

「相貌失認」という人の顔が覚えられない、見分けられない脳の機能障害があります。
先天的なものと事故等の後遺症として現れる場合があるらしいです。
私の場合、そこまでひどくありませんが、人の顔を覚えるのが超苦手で、そういう人の気持ち、半分くらい理解できると思います。
自閉症の人とかも、服装や髪形変わると同一認識できないといいます。
(大多数の人は、モノを見る時と人を見る時に使う脳の場所が違うらしいですが、自閉傾向の人はモノを見る時も人を見る時も同じらしいです)
ひどい人は家族の容貌もはっきりしないらしいですが、私はそこまでひどくないからね…

何が困るかって、皆、同じ紋付袴、着物などを着ている場合、誰が誰だったか顔と名前を一致させるのに苦労するということです。

う~ん、顔は、覚えようと思って多方向からジロジロ何十分も見ないと、覚えられません(多分、それも失礼な話でしょ?)
しかも覚えてもすぐ忘れるという…
普通は、顔を覚えようと思ってなくても、話を聞きながら、何となく顔も覚えてしまうのですよね?
私もマナーとして人の顔を見て話を聞かなくてはならないということは知っていますから、話し手の方を見ているとは思いますが、実を言うと、顔を一生懸命見れば、顔の筋肉の動きを逐一、追うことになり、話の内容が分からなくなってしまうので、話を真剣に聞いてる場合は、目の焦点が合ってない可能性大です…。
近しい人だと、何度も会うし、いろんな角度からその人を見ているし、喜怒哀楽いろんな顔を見ている筈なので、いちおう顔を覚えているということになるのでしょうね。

でも、年に数回しか会わない人の場合、声を聴けば、その人の声とか話し方の癖等で名前と一致させられますが、何が困るかって、相手が黙っていたら自分からは気付かないこと…

よく、お友達などが、空港やレストランで俳優に会ったとか言うことがありますが、私はそんな経験一度もないよ~
「さっきの人、女優のXXさんだよ」と人に言われて、初めてそうだったんだと気付くというか…その頃にはその女優の姿はナシ…
例えば、能年れなちゃんが東京駅にいたとしても、海女の恰好していてくれなきゃ気付かないでしょうね。
おそらく、年に何度も空港や劇場に行けば、絶対、知名度のある誰かを見ているんだろうけど、私は気付きようがないのです。
外国の俳優さんなんて、とりわけひどく、ほとんど同じに見えるし(笑)

そんなわけで、写真が手元にある場合は、事前に眺めるとかして「対策」をします。
でもFBなどでいつも写真を拝見していても、いざ、自分から声をかけようと思うと確信持てず、周囲のお弟子さんがXX先生って呼んでいるのを柱の陰からこっそり確認してたりして…

私は人間に対する関心が薄いのか、たんに視覚認知能力が弱いのか、本当によく分からないのです。
ちゃんと人の話は覚えていたりするんだから、人間に対して興味がないとかそんなことはないと思うのです。
でも、無視されちゃった人にしてみたら、「私のことどうでもいいと思ってるんでしょ」って、思うよね、やっぱり。

ちなみに、普段、知人に気付かなかった時などは、「視力悪くてごめんね~」と謝っていますが、本当は両目の裸眼で1.0見えていたりします。
実は、今は右だけ視力悪くてコンタクトを入れなければ0.1ぐらいしか見えてないこともありますが、通常は両目で見ているので、1.0が普通に見えている筈ですが、もしかすると「立体把握」がおかしいのかもと思わなくもないです(^^;

子供の頃は、もっと視力がよくて、普通に1.5の視力があるにもかかわらず、ものすごく目を近づけて本を読むので不思議がられていました(知らない大人は私のこと近視だと勘違いしていました)。
目の機能としては十分見えているのに、脳がうまく把握できなくて、顔を近づけちゃうんでしょうかね?
自分でもこの奇妙な現象は謎なのです。

というわけで、初めてじゃないのに「はじめまして」って言ったり、付き合い短くないのにこちらから気付かなかったら、本当にごめんなさい。

二胡LESSON112

この日は前の生徒さんのレッスンがまだ終わっていなくて、待ちながらレッスンを拝聴しておりました。
小学生のお譲さんで、初級レベルという感じ。
のびのびと楽しそうに弾いていて本当に羨ましかったです。
もちろん、たまに音程狂ったりするんですが、悪いところはすぐ直せばいい、レッスン中に直りきらなかったら、お家で次までに練習してこればいい、そういう前向きな感じ。
「天真爛漫」でしたね。
付添いのお母さんも、レッスン終わるとお嬢さんを「よかったわよ」って褒めてあげてて、なんかむっちゃ羨ましかったです。
正直、死ぬほど羨ましかったです。
この歳になっても、人のお母さんを羨ましがってどうするって感じですが…

実際には、人間なのだから、好いところ、悪いところ、いろんな側面があると思うのです(それが個性でもあります)。
ただ、私みたいな性格の人というのは、仮に99の長所があったとしても1つの欠点があれば、1つの欠点だけがフォーカスされて認識されてしまい、本人的には99の長所が見えなくなります。
しんどいですね。
うちの親って、今もそうだけど、どんなに頑張っても褒めてくれないんだよね。
いや、おそらく、正確には、たまには褒めてくれたのだと思うけど、褒めるというより、かなり客観的に(人と比べて)淡々と長所と短所を言うので、私の脳には短所=人より劣っているダメダメな私、長所=他人だってできるのだから出来て当たり前、っていう図式になるのかもしれない。
他の誰とも比べずに、手放しで「素敵だったよ」「出来るようになってよかったね」的なそういう発想、うちの家族にはなかったと思う…

あと、大人になってからは、「仕事」というのは、「学習」と違って、「結果」だけがすべてですから、どんなに自分が頑張ろうが、意味ないんですよね。
一枚の文書がどんなに論理的にきちんとしていても、一つでも単純な誤字脱字があれば、他人の眼には「こんなところに気付かないなんて、不注意だ、信用できない奴だ」となるわけですからね。
誰だって、一生懸命仕事していると思うけど、その過程なんて、他人にとっては、どうでもよく、結果が付いてこなければ、無意味な努力です。
逆に、棚からボタモチの結果が付いてくることもあるかもしれず、それでもオッケーなわけで、運も実力のうち。

私にとって音楽は生計の手段でもないし、将来の生計の手段にもなり得ないと思うので、単純に楽しくやればいいのだろうけど、子供の頃から身についてしまった「欠点だけが増幅される目と耳」は、日々の練習や本番にも顔を出します。

音楽は時間芸術ですよね。
レコーディングでもない限り、基本的に後で修正なんて出来ません。
先生方だって舞台の上でしくじることもあるけど、瞬時に誤魔化すか、立て直しを図るわけです。
よく、「一か所、マズイところがあっても、それであなたのすべての演奏がダメと言うわけではない」と、先生方はおっしゃいますが、それは先生の他の技術や人間的、音楽的な魅力がミスを覆い隠してくれるからであって、これが世間の他のお仕事だったら、一か所ミスったら、すべてがダメで、場合によっては、努力とは関係なしに人間性まで否定されますよね(私の経験ですが…)。
そこがある意味、芸術に関するお仕事と、他のお仕事の違いなのかなとも思います。

だから、私はいつまでたっても、自分の音が好きになれないんですよね。
でも、こういう性格の大人に向かって、好い所だけフォーカスして「よかったよ」って言ってあげればいいのかっていうとそうでもないわけで、自分が全然出来てないのを知っているだけに、余計、むなしくなるという…

ある先生がおっしゃってたのですが、弾き方を教えるということが大変だから疲れるということもあるけど、いろんな人の感情に向き合うことになるので、それも疲れの一因だと…
そうだと思います。
弾くことを単純に教えているだけなら、そうは疲れないと思いますが、生徒さんに楽しく練習させて、上達させて、将来、一人でもやっていけるようにしてあげるには、その人の本質的なことに触れてしまうので、ちまたの産業カウンセラーよりも、カウンセリング的なお仕事をしているような気がしてなりません。

多分、私の心のドロドロ、モヤモヤした嫌な部分を一番よくご存じなのが、器楽の先生です。
親兄弟親戚、仲のいい友達、その誰一人として知らない一番醜い私の姿を見てしまっているのが、赤の他人である先生というのも、本当に気の毒な話だと思います(^^;

ダメな部分があっても、それは「学習過程」なのだから、仕方がないと諦めて、その代わり、将来の音を信じて練習すればいいということに尽きるわけですけどね。
普通、私のようなネガティブな思考をする人は、器楽を勉強するのが長続きしない筈なのですが、それでも続いているのが奇蹟だったりします。
ある意味、そんなに辛い思いをしてまでも「手に入れたい音色」に対する執着がすごいということなのですが…

そもそも、ピアノなどと違って、音を出すこと自体、音程を取ること自体、非常に難しい二胡という楽器を、音楽的な才能がないのにここまで続けてこられて、ある程度弾けるというだけで、スゴイことだと思うんだけど…
これ、ナナ先生の私に対する正直な感想だったりします。