さまよえる中級者は環境が大切かも

「さまよえる中級者」
確か、大学時代に読んだ中国語の先生のエッセイにそんな言葉があったように記憶しています。
今はどうか知りませんけど、中級者向けのよい教材がないんだというような話でした。

習い始めは誰だって楽しいです。
これいくら?
これとこれください。
違う色はないのですか?

それでも、十分楽しい。
だんだんできるようになれば、もっと上を目指すようになります。
でも、訛ったネイティブの言葉が直感的に分かるほど、中国語ができるわけではない中級者は字幕抜きで映画やドラマ見て分かるかどうか…。
私なんぞは、中国長いので、別に字幕見なくても分かりますが、おおよそこういう意味なんだということが分かっていても、難しい言い回しや、ことわざ的言い回しを聞くと、とっさに字幕見て確認しちゃいますね(笑)
上級レベルの楽しいものを見聞きできないレベルの人で、簡単なものに飽き飽きしている人は、一体、何を見聞きしたら、レベルアップするのでしょうね。

会話とかになると、初級レベルの人は、周囲も外国人なので、がんばってるね~と簡単な会話の相手してくれますが、中級の下ぐらいのレベルだと、本人は言いたい事いろいろあっても、言葉にならないので、相手も分からないから、相手にできない…(というか、最初はいいけど、毎日だと恋人でもない限り相手するのが非常に疲れる)
自分の会話レベルが中の上ぐらいなら、その言いたいことのそのまんまの語彙がなくても、子供と同じで、「ああして、こうして、こういう感じのもの」というまどろっこしい言い方ではありますが、相手になんとか伝えられるので、相手も「こういうこと?」って簡単な言葉で言い直してくれるので、それを覚えていけばいいわけですね。
でも、中級の上レベルになると、実際話したのは、かなり変な言い回しであっても、相手は分かってしまえば、あえて、訂正してくれなくもなります。
中級者は上級者に移るには、とびきり才能あるか、かな~り親切な友達や先生が周りにいないと難しいんですよね。

私の場合、通訳はど下手ですが、翻訳なら報酬を頂けます。私は頭の回転が特段遅いので母語の日本語であっても人の話が分からなかったり、意図を読み違えたり、深く考えすぎてすぐに返事できなかったりするので、すぐに受け答えしないといけない通訳は苦手です。その手の訓練の講座に少し通ったこともありますが、諦めました。
私が専門性のキツイ書類の翻訳やチェックで、わずかながら報酬がいただけるのは、私の稚拙な中国語に付き合ってくれた前の大学院時代の指導教官のおかげです。
彼は日本語が全く分からない人で、私は彼に何が何でも自分の考えを分かって欲しくて喋り続けたし、書き続けました。
ただ、くだらない日常会話だったら彼だって聞く暇ないでしょうけど、私が話し続けたのは、彼がまぁ聞いてても苦にならない内容(つまり日本の法制度や最近の判例です)でした。
先生は本当に人当たりの良い方で、私は先生が怒ったりイライラ他人にやつあたりするのを見たことがありません…
私は自分のことがあるので、日本にいる中国人留学生には相手がどんなに訳の分からない日本語話してもできるだけ親切にしてあげようと思います。
それが先生への恩返しでもあると思うので。

さて、語学の勉強も楽器のお稽古もよく似てるところがあると言われますよね。
(完全に一緒にはできないけど、始めるのは年齢が若いにこしたことないとか、上達のグラフが直線ではなく階段状であるとかいうような類似性がある)。
入門レベルの本はいっぱいあっても、そこから、どうやってレベルアップするっていう素人向けの本ってないよね。
だいたい、才能ある人は、基本的な弾き方が分かったら、自分でどんどん先生や演奏家の真似して上手くなっていくだけだから、あえて、そんなもの必要ない。

初心者とか、子供とかが簡単な曲を弾いていれば、頑張ってるね、って周囲も応援してくれるけど、大の大人の中級者はどうだろう?
あなたぐらいのレベルなら、周囲は聞きあきてるし、あえて応援してあげる必要性も感じないし…
ある程度の曲が弾ければ、ボランティアや交流の場とかで人前で弾く機会はあると思うけど、これって先生と二人きりで勉強してる人には、多分、機会はない。
ついでにいうと、そういう場で弾く曲は、受けのいい簡単な曲に限られるので、弾いてるうちに、場数を踏むということ以外の意味はなくなってくる…

初心者には、皆で仲良くやれるお茶会や勉強会はけっこうあると思うし、上級者は上級者のマニアックな勉強会や報酬のもらえるレベルの高い経験が蓄積されてくるけど、もう少し難しいことにチャレンジしてみたいけど、かなり上手な人達の集まりには入って行けない素人の中級者はどうなんだろう?

才能ある人は、この中級レベルにいる期間が短くて済むからいいけど(というか、これがないか、あっても、あっという間ではなかろうか)、普通の人は、この段階で、もう飽きたと言って辞めるか、上を目指すのは諦めて、まったりとお茶飲みながら初級レベルを何十年も続けるか(それが楽しい人もいるので別にそれはそれで構わないと思う)。
でも、才能ないけどひたすら頑張る中級者は、いつか報われるのだろうか?

語学や器楽について、特別才能あるわけでもないのに、それで報酬がもらえる人の共通点…
これができないと死んじゃうという環境に長く置かれていたということ。
昔の芸人さんは、それできないと、一座においてもらえない、明日の舞台までにできなければ、養父母でもある座長から飯食わせてもらえないから、必死に覚える…(苦)
(文字通り、飢え死にの可能性あり…)
留学生が語学できるようになるのは、できなきゃ、生活できない、授業受けられない、卒業できない、これまで使ったお金と時間の言い訳が家族にできない、自分が払ってきた犠牲に見合うだけの収穫がないとムカつくという境地に追い込まれているからでもありますよね(笑)。

伝統の継承と文化交流

金曜日の夜、孔子学院設立十周年、日中大学生京劇公演というのを学内の大劇場で見てきました。
日本側は、桜美林大学孔子学院、中国側は孔子学院総部という組織が取り仕切っている公演です。

実は中国語で、「京劇を『見て』きました(原文:看戯)」という表現は、京劇初心者の使う言葉で、ツウな人は「京劇を『聴いて』きました(原文:聴戯)」というものなのです。

というのは、どの国であれ、昔も今も、芝居のストーリーなんて、こう言っては何ですが、大差ないんですよね。
どれもこれも、愛情、忠義などがテーマで、典型的なお話なら、誰だって内容を知っているわけです。
でも、歌は誰が歌うか、誰が伴奏しているかで違ってくるから、何度も足を運ぶというわけで、京劇は見るのではなく、聴くもの。
(もちろん「見せる」ための京劇もありますけどね)

しかしながら、こういう文化交流を目的とした公演は、京劇を「聴かせる」のはもともと無理ですから、いかに演出を上手くやって、皆さんを楽しませるかが鍵となるのです。

ところどころ、「ありがと」「何ィ?」「さよなら」という誰でも知っている日本語を混ぜてコミカルに演じて、中国人のお客様を笑わせていました。
他には、演目的に、セリフや歌がほとんどない武術系の「立ち回り」を演ずることで、目を楽しませてくれました。
交流としては、素敵な公演でした。

最初に京劇を指導している先生も舞台挨拶でおっしゃっていましたが、中国語が母語でない学生が本気で京劇を歌うのはキツイのです。
実際、もちろん悪気はないのですが、お客さまも、笑うところじゃないところで、ちょっとクスってなるところがあったりして…
もちろん、バカにしているわけじゃなくて、例えるなら、言葉を話し始めた幼い我が子のお喋りに「カワイイ」って思わず口元が緩むノリに近いと思います。

中国語の漢字一つの発音にはまず、声調という音の抑揚があって、京劇の京音と標準語は基本的に一致しています。
音に直すと以下の4つのメロディです。
単音を繋げるのではなく、二胡などの弦楽器で、音を滑らせてそのまま滑らかに音程を移動させるイメージです。

1,ソーーー
2,ミーソー
3,レドファー
4,ソードー

つまり、「マー」をソソの音程で言えば、「媽(お母さん)」、ミソの音程なら「麻」、レドファの音程なら「馬」、ソドの音程なら「罵る」という漢字が思い浮かびます。

日本語の単語にも音の高低がありますが、それは、橋と箸の違いのように、三味線で一音ずつ弾く音程みたいなもので、その音程の幅は狭く、中国語みたいに、一つの意味の塊の発音が滑らかに5度も離れるとかはありません。

そういう意味では、そもそも、中国語というのは、短い日常会話であったとしても、外国人が話すと、すんごい音痴なのです。
その点、外国人の話す日本語の日常会話を日本人が聞いても、音痴(音程が狂っている)だとは、あまり思いませんよね。

京劇の歌というのは、本来、歌のメロディと漢字の発音の調子が統一されていて、それが一致しないことを「倒字」と言い、ご法度とされています。
なぜなら、そうなると、聴衆には聴いても分からないという現象が起こるから。
現代の人は、ツウでもない限り、字幕を見ないと歌の意味が分からないと言いますが、昔の人は「倒字」でなければ、分かったということなんですね。

最近では、若い世代にも分かりやすい現代語で芝居を創ろうとか、外国人に分かるように、英語で芝居を創ろうとか、新たな試みも盛んです。
でも、「倒字」をきちんと分かっていない人が創作すると、京劇の味が消えることになります。
それで、分かりやすいならまだしも、中国人のツウな人でも字幕なしでは何言ってるのか分からないという変な作品ができることも…恐ろしや

昔の作品の味を大切にしながらも、現代人や外国人にも分かってもらうというのは、本当に大変なことなのです。
分かってもらう必要もない、という考え方もあるかもしれませんが、古いものをただ守り通すだけでは、いつか化石になっちゃうし、それでいいの?
だから、文化交流とか普及とかのために、古いものも変容せざるを得ないのだけれども、本質を変えずに、変化させて、お客様にも喜んでもらう…そういう演出というのは、とても大変なお仕事だと思うのです。

台湾著作権法逐条解説第四版序文

先ほど、台湾著作権法逐条解説の第四版の序文の翻訳を終えました。
別サイトはこっち↓
tw.commentaries.asia
この翻訳はボランティアです。
2006年頃、ネット上で知り合った台湾の章忠信先生(当時、主務官庁の公務員という実務家でいらっしゃいました)と意気投合して、勉強のついでに翻訳させてもらい、今でもお互いにネットで公開し続けています。
ちなみに、私は章先生に一度、東京でお会いしたことがあるだけです。
こういうのってネット友達って言うんでしょうか?
ちょっと違うかも^_^;
京王プラザホテルのラウンジでアイスクリームをご馳走になりました。
あ、それから歌舞伎町で夜中まで営業してる喫茶店でコーヒー一緒に飲んだなぁ(何故?ただ単に章先生が好奇心から歌舞伎町歩きたいって言ったから、探検してたんだよん)

無償の翻訳でも責任は大いにあるので契約書を交わしてます。
(自分で中国語と日本語の契約書を作成して、友人の弁護士にチェックいれてもらいました。)
あの頃は、お互い大学院生でした(って、あんたはまた学生やってるだろ…)。
本当に自分一人で、翻訳もチェックもするので、まぁ、間違いや誤字脱字あるかも。
でも、利害抜きで、独りでやっていると、こだわりのある訳語とか、誰にも相談する必要ないし、楽は楽ですね。
今思えば、自分の考えにこだわらず、もっと日本の著作権法の用語と同じ言葉を使う方が親切だったかもと思ったりもします。
これって、芸術作品の創作や実演にも言えることだけど、大衆ウケを狙う必要なく、好きなことを好きなようにやるって楽しい。
ただ、それには、大赤字がつきものなんですが(笑)

月日が経つのは早いもので、第四版だって〜。
ちなみに日本語版の紙の出版物は需要がないので、初版しか存在しません。
そもそも初版は私が製作費用を負担しております。
ネットで公開してるだけだと、「どうせ、何処の馬の骨とも分からん小娘がテキトーにやってんだろ」と思われたり、テキトーにコピーされたりしたら、嫌だから出版社、自分で何のツテもなく探しました。

この辺の動機の基になっている負の感情は、十代の終わり頃、職場でよく、「あんたじゃ話にならない、男の人に代わって」と自分よりよく分かっていない大卒の男の人の方が信用があることが悔しくて仕方なかったことに由来します。
30歳過ぎても、そんな昔のことをよく覚えていたんですよ^_^;
若かったんだなぁ、今は別に「女だから」と言われても何とも思わないけどね〜
むしろ、特に外国では、男の人は女の人に親切だし…得することもありますよね。

あれから、何年経ったのかしら〜
少しは私も大人になったでしょ♪
(小柳ルミ子さんの歌だっけ?)