子供の身体能力と大人の頭脳

子供の身体能力と大人の頭脳があったらコワイものなしだと思う…

先日、二胡のレッスンに行った時、何らかの事情で前のレッスンが終わってなくて、40分くらい待つことになりました。
私の前の生徒さんは二人の子供(別々の家族)。
多分、先生が小学校等で教えている子の補講(?)か個人特訓(?)だったのだと思います。
今までも小中学生の生徒さんに遭遇し、チラとレッスンを拝見したことはありましたが、だいたい芸術関係の学校を目指してる子とかだったので、上手だったのですが、この子たちは、本当に素人でした。

うわ~

私、初めて聞きました。ちょっと冷や汗が出る雑音というやつを…
よくバイオリンや二胡を習い始めの人の雑音を、漫画などでは、ノコギリとか、豚や鳥を絞めた叫び声とか言いますが…
実を言うと、私、そこまでスゴイ音に遭遇したことがないんです。
自分が習いたての頃でも、力さえ抜けば、そうはならないというか…

もっとも、私の初心者の頃は余分な力を別の余分な力で抑制しているだけで(例えるなら、「アクセル踏みながらブレーキ掛けて、適度な速度にしている状態」)、本来、目指すべきの「余分な力を入れず、最小限の力だけ、必要な方向に循環させている状態」ではなかったですけど。
まぁ、今も余分な力が入っているけど、少なくとも、あ、余分な力入ってるわという自覚はできるようになりました。

後で、先生と雑談してる時に、先生は、子供は子供のメリット(身体能力、変な思いこみがないので正確な動作を最初から教えてあげれば吸収がいい)があるけど、頭を使って練習しないので、結局、上達するかどうかは、保護者にかかっているところが大きいと言ってました。
普通の小さな子供は、先生の言った通りに練習してきていないというか…、気の向くまま、メロデイ弾いてお終いというか…
最後に先生がちょっと厳しめに「いい加減にただメロディが弾ければそれでヨシにするか、その辺の子たちより上手くなりたいのか、自分で決めなさい」と言ってましたが…
ちなみに私の二胡の先生は、音大受けるような生徒さん以外の人に対しても、「どうせ趣味なんだから教え方も適当に楽しければそれでいい」「真剣に教えてもこっちが疲れるだけ」というスタンスではないので、非常にキビシイ…(中国三弦の先生も同じです)
教えることは一緒にしておいて、結果として、その人の精神と身体の限界まで、実現できるところまで実現できたらいいと先生は思っているんでしょうね。
そういうことなので、先生にとって私という高齢の生徒は、「人間、やる気と時間と適切な指導があれば、天性の身体能力と音感に欠けていても、二胡ぐらいある程度弾けるようになる」という実例になっているようです(笑)
まぁ、日本には、金銭的余裕のある人が多いし、努力家が多いのか、「大人」になってからゼロから始めた人でも、ある程度なら二胡弾ける人はかなりいると思うけど…
中国人はみっともない努力して自分がマスターしても何の得にもならないけど、子供の芸事に使えば有益だと考えるのかもしれない。

大人は言葉でいろいろ教えてあげれば、きちんと自分で練習できるけど、結局、仕事の合間にやる趣味だから、練習時間が足りなかったり、子供の頃なんらかの楽器や舞踊などをやっていたかどうかや、年齢によって差はあるでしょうが、関節の柔軟性に難があったり、指と脳神経の繋がりが悪かったりとデメリットがありますよね。
中国の大部分の親御さん(別に子供が音大目指している訳ではない)は、自分が出来ないことを子供にやらせているので、自分に芸事の上達の経験ないから、X時間練習したからOKみたいに練習させるだけみたいです。

私の母も私が習いたいと言えば、ピアノ程度の月謝の習いごとは普通にさせてくれましたが、私以上に不器用な人なので、私ができなくても叱りもしないけど、練習をみてくれるわけではありませんでした。
もっとも、音楽でご飯を食べている多くの人は、子供の頃、親が練習を傍でずっと監視しているので、相当嫌だったとは思いますが…
「あなたぐらいの熱心さがあったら、子供の頃からやっていれば、そこそこ上手くなったのにね。逆に天賦の才能ある子でも、ちょっと練習すれば、親を騙す程度の演技が出来ちゃうから、努力せずに一生過ごす人もいたりして、もったいないケースも多い」と二胡の先生に言われたことがあります。

そうなんですよね、私もそう思います、目標が高くなければ、才能なくても、適切な指導に基づいて、適切な練習をちょっとの時間やれば、誰でも上手くなるものだと思います。
人間誰でも得意分野っていうのがあると思いますが、適切な時期に誰かがその優れた部分に気付いてあげて、よい先生に巡り合えて環境に恵まれていた人は幸せだと思います。

もし、タイムスリップできるなら、30年前に戻って、小さな自分の練習を傍で見てあげたいよ。

道具は人それぞれ

yumi先日、大勢多数の人が弾きやすいとおっしゃっている弓を試し弾きました。
感想は、「悪くないけど、さほど目から鱗が落ちるほど弾きやすいとは思わなかった」。
一体、私と人はどこがどう違うのだろうとちょっと悩んでしまいました。
その場に居合わせた方には、「普段いい弓をお使いなんですよきっと〜」と慰めていただきましたが、私としては、多分、「初心者ほど力が入ってないけど、プロほど力が抜けていない中途半端な技術レベルなので分かりにくいか、もともと鈍感なんだろう」と思わざるを得ないというか(笑)
その弓をお借りしてこなかったので(写真は私の手持ちの弓なので誤解なきよう)同時に試せないのですが、他の弓が手元にあるのでそれらと自分が通常使っている弓を比べてみると、細くて少し軽いんですよね。
毛があるので正確な重さを測るのは難しいですが、毛を持って竹の重さを測ると、5グラムくらい軽いんです。
一番下のが私の通常の弓です。
一般論として、ある程度の重さがないと力を余分に使ってしまうので弾きにくいはずなんです。
私の弓は軽めなのだろうか?

私の先生は4歳から二胡を始めて音大出て、オケ演奏や小中学校のオケ指導や個人レッスンで飯を食ってる人ですから、彼女の周囲の人間は一定程度、このような弓でフツーに職業として弾いている人がいるわけですが、何がどう違うんだろうなぁ(^^;;

ちなみに私の三味線の撥はめっちゃ重いです…
先生も「重っ‼︎男でもキツくないか、これっ」と言いました。
だから、私が軽めのものしか受け付けないわけでもないんですよ。
これはこれで、スタンダードから外れた撥です。
何せ、大女ですから、力持ち〜なんです(^^;;

結局のところ、自分が長期間使ってきたものに、身体が慣れてしまってそれが一番弾きやすく感じるっていうだけのことなんでしょうかね。

いずれにせよ、自分の思った通りの音が出せれば、なんだっていいんですけどね。

「演」とはどういうことだろう?

「演」という字を見て、思いつく言葉といえば「演劇」「演奏」。
「演」ってどういう意味なんだろうと中国語の辞書を引くと
「発展変化すること」
「押し広げる、展開する」
「演じる」
「(一定の法式によって)練習する、計算する」
と出てきます。
「演劇」「演奏」の演は、「演ずる」という意味なのでしょうね。
とは言うものの、そもそも「演ずる」ってどういうことだろうね?

一般の人は、よい俳優さんは、完全にその役になりきっていると思うかもしれないですが、実際は違います。
熱く演じながらも、頭はかなり冷静な部分を残している筈です。
私が本で読んだり、周囲の俳優さんが言ってたことをまとめると、おおよそこういうことです。
まず、俳優は往々にして「役」「俳優自身」「観客」の3つの立場から物事を見ています。
初心者だろうがベテランであろうが、俳優は、この役なら、こう考えたから、こう言った/こう動いたに違いないというようなことを考えながら脚本を分析したり、演技計画を立てています。
これが「役」の視点。
初心者は、「この時、この役はこのように感じている」を脚本から推測しただけで終わり。
経験が長くなるにつれ、「それでは、そのように感じているように演技するにはどうしたらいいか」を考える時間が増えていくのだそうな。
そして、もっと経験が長くなると「自分がこのように動くと、観客からどう見えるか」をきちんと把握できるようになり、更に経験が長くなると「劇全体の中で自分がどう見えているのか」もきちんと見えるようになるんだとか。
まぁ、確かに初心者の演技って、往々にして、観客を置き去りにした独りよがりの気持ち悪さがありますわね(汗)

この法則を「演奏」に照らし合わせてみるとどうだろう?
実際、心理学者などが実験しているのだけど、ベテランほど自分の演奏をまるで初めて聞く観客のごとく、客観的に聴き、自分の意図するように聞こえているかを考えながら自分の演奏を調節しているのだそうです。

私自身はどうだろう?
実は、私、自分が弾く場合、あえて「演奏」という言葉を避ける傾向があります。
だって、私、今まで、いろんな楽器を習ってきたけど、まともに「演奏」できたことないんだもの。
はい、私の基準によると、習った曲は「弾ける」けど、一曲もまともに「演奏」できません。

上記の演劇人の法則に照らすと、私は「役」の視点をすっ飛ばして、何かを表現しようとは思わずに(むしろ否定しながら)「自分自身」の視点に立っている時間が長いのです。
つまり、いちおう譜面は読んでいるので、「ここはこう弾くべき、こうすべき」という手順だけは分かっているつもりです。
だから、私の頭は、次はこの音がくるから、早々にポジション移動して、このくらいのスピードで、という指示はしているつもりです。
でも、技術が伴わないので、(例えば速く弾くべきところ、間に合っていない等)思った通りに音が出ていないこともよくあります。
そして、音程のズレが気持ち悪いので、自分の音に嫌気がさします…
ちなみに、実際、チューナー見ても、数値的にさほど狂ってなくても、20セント程度の狂いであっても前後の音と上手くバランスが取れてなかったら、めちゃくちゃウンザリします。
先生に言わせると、多くの子供はそういう事に無頓着だけど、あなたは気にし過ぎなのだそうです。

演奏は、演劇みたいにはっきりとストーリーがあるわけではありませんが、少なくとも作曲者の意図は楽譜にヒントが書いてある筈です。
私なんぞは、ただ音符を拾っているだけで、これはこういう情景を表現したいのだろうから、こう弾いたらいいんじゃないかということに頭が回りません…。
大昔から先生に言われていることですが、「話すように弾け」というのは、先生はせめて作曲者の意向は汲みながら弾いてほしいということなのかもなと思ったりする今日この頃です。
しかしながら、こう弾いたらこう聞こえるだろう、という視点に立つのは難しいですね。それって、手が自由自在に弾けてないと大脳は「きちんと弾く」ことに注意を傾けないといけないので、それどころじゃない。
ついでに言うと、楽器に一番近いところにいる自分としては、正直、自分の音がウルサイ…というか鬱陶しいんですよね。
(初心者ではないので大きな音が出せるのでウルサイというのもあるのでしょうが…)
多分、皆さん、好きで習っているし、続けていらっしゃるし、練習するのだろうから、自分の音がウザかったらとっくにやめてる筈で、ウザいのにやめない私はかなり変なのかもしれません。

最後に「観客」の視点ですが、これは、もう何十年も先にならないと見えないでしょうね。
技術上の問題もありますが、心の問題もあるので。
そもそも古琴などの芸術にみられるように、大昔は自分の音というものは、本当に仲いい人だけが知ってればよかったものなんですよ。
だから、自分の理解者のことを「知音」というんです。
なにも、大勢多数の人に認めてもらう必要なかったわけで…
だいたい、私、子供の頃から、ちょっと人と感じ方が違うところがあって、大勢多数に合わせるということは自分を裏切ってズタズタにして殺すことになるのです。

でも、演奏を生業にする人はそんなこといったらダメだし、演奏活動を生業にしなくても、町のお師匠さんみたく教授活動する人は、少なくとも自分の生徒さんには素晴らしいと思ってもらう必要があるわけですよね…。
趣味でやってる人は、「観客」の視点で考えてもいいし、考えなくてもいい…だって趣味じゃん。自分が楽しければそれでいい(お金もらってるわけじゃないんだから…)

で、生業でも趣味でもない私はどうすべきか。

私としては、せめて死ぬまでには、この曲はこういう情景を表現したいのかも、こういう風に弾くことが期待されているのかも、というのを考えて、そしてその考え通りの音を自分自身が感じられるように弾けたら、いいなとは思っています。

付けたしですが「演奏」と「伴奏」は、私は違うと思っていて、伴奏は、演者である唄い手や踊り手に合わせないといけないという点で難しい技術を要求されますが、自分自身は演ずる必要はないという点では、楽かもと思います(もちろん、演者をひきたててあげなくてはならないという別の重大責任を背負わないといけないですが…)