二胡LESSON105

私はどうも、「たーたた たた」というリズムを弾く時に、よほど気をつけていないと、「たーたた たった」になってしまうらしい…
このリズムパターンは、ご存じ「賽馬」によく出てくるリズムですね。
みーみみ らど そーそそ そみ どーどど どーれど らーらら らら
(もっとも後ろの八分音符は頓弓だから、タッタと書き言葉で表す方が自然かもしれないですが、私がここで言いたいのは、明らかに前の音が短くて後ろの音が長くなることなので、あえてタタとタッタにしときました)

最初は弓の推し方に問題があるのだと思ってました。
でも、開放弦なら、ちゃんと弾けます。
では、ナナ先生の言うように、左手が加わることによって注意がそれるから、左手が右手に影響を与えているのかな?
確かにそういう部分はあると思います。
左手のポジション移動や音程に気を取られていれば、右手のことなんて構っていられない。

しかしながら、一番大きな原因は、どうも私が心の中で歌うメロディにあるらしいと、最近自分で気づきました(汗)
正直に言います。
「たーたた たった」の方が私にとっては自然なんですヨ。
困ったなぁ…
つい、そう、歌っちゃうから、それに手はつられるでしょう?
差別用語になるので、文字としてここにはっきり書けませんが、楽器の先生がよくおっしゃるように、足の不自由な方が歩く時の足音っぽい感じの方が私にはしっくりくるのです。
(もっとも、「たーたた たった」というリズムで人前で弾く人もいらっしゃいますから、譜面をちゃんと見ることのない人は、そういう曲だと思ってる人もいるかも…)

逆に、津軽三味線を弾いている時は、足を引きずるようなリズムが求められることが多々あります。
いわゆる譜面に厳格に忠実に(西洋音楽の譜面の規則どおりに)弾いてなかったりして(笑)
譜面を書いている師匠ご自身がおっしゃるには、こういうものはもともと口伝だったもので、あんまり厳密に譜面を書くと、ご年配の方や民謡の人なんかがついてこれない、譜面が見づらくなる、というようなことらしいです。
だからか、西洋音楽にどっぷり浸かっていらした人(特に西洋クラシック系の習い事が長かった人)が、知らない民謡を独学で譜面を真に受けて弾くと、すごく気持ち悪いメロデイになるという…

私はどうも、譜面に書きにくい、足が不自由な感じのメロディの方が好きな傾向にあって、「じょんから旧節」(いわゆる小山流の簡単な方ではないやつ)なんて、すごく好き。
使われている音自体は、全然難しくないのに、ちゃんと弾こうと思うとリズムが難しい曲なわけで…
でも、師匠は私を止めることなく、弾きたいなら弾いてみりゃいいよ、と教えてくださいました…う~ん、この世界、ピアノやフルートやバイオリンの教則本みたいなのがないので、先生にもよるのかもしれないけど、いったいどういう風に山を登って行くのか、さっぱり見当が付かないです。
師匠は一度も私がやりたいと言いだした曲を「無理なんじゃない?」とか「止めとけ」って言ったことがないのです…。

では、足を引きずるようなメロディというやつは、時には許されて(むしろ歓迎されて)、時には、まったく受け入れてもらえないわけですが、どこまでの足の引きずりなら、許容範囲なんだろうなぁ。
それはジャンルにもよるのかな?

二胡LESSON104

さて、今回のレッスンは30分くらい、長弓と音階を弾いていたでしょうか。
あはは、私ぐらいの年月習っていて、ある程度簡単な曲は弾ける人がこればかりやるって、日本の教室ではあまりないことかもしれないですね。
いや、中国でも、中央音大のXX先生はこんな簡単なことばかり何度もやらせて、時間の無駄だったというような話はあるようです。
じゃあ、無駄なことしてたの?先生が手を抜いてたの?
むしろ、逆ですよね。

今回のポイントは触角…ちゃうちゃう、「触覚」です。
人間って、いちいち沢山のことに注意を払えないんですよね。
音階を弾く時、私は通常、音程に気を取られて、他の大事なことに注意を払っていません。

子どもの頃、よく騙されませんでしたか?
「バスに3人乗りました。次の駅で2人降りました。次の駅で5人乗りました…」
ときたら、普通考えられる質問は「今、バスに何人いる?」ですが、「バス停何個あった?」とやられると、誰も気にしていなかったので、「あれれ?騙されたよ~」となります。

「スカート穿いてる通行人を数えていてね」と子どもに言えば、普通はちゃんと数えていますが、後で「どんな色が多かった?」「どんな柄が多かった?」と聞いたって、特にお洒落に興味ない子は覚えちゃいないですヨ。こういうことは、予告しておかないと、誰も注意を向けません。

同じですね。素人が音階弾く時、普通は音程の狂いに最大限の注意を払っていますから、誰もそれぞれの音の「振動」「共鳴」が同じかに注意払ってますでしょうか…

言われちゃいました。
私が何気に音階弾くと、それぞれの音の共鳴に、ばらつきがあるのです。
音程はだいたい合っていますから、普通はハイ、OKで過ぎちゃうところですが、盲点ですよね。
どうやって、均一にするか。
それはもう、耳(音量や音質みたいなもの)と指が感じる「振動」の感覚なのですヨ。
心をまっさらにして、音程なんてだいたい合ってりゃいいからというつもりで、指だけに集中すると、弦ってこんなに震えてたんだなぁ、ということに気付かされます。
もっと言えば、楽器って全体が震えてますからねぇ。

ナナ先生の提案は、「夜に真っ暗な部屋で、音階弾きなさい」
まぁ、日頃、目をつぶってても同じことですが、出来れば静かな方がいいからでしょうね。
ちなみに、私は三弦系の楽器を弾く時は、つい棹を見ることがあるので、真っ暗は怖いかもしれないです。棹を見るのもよし悪しで、この前なんてぼけ~っと弾いてたら、高音域で師匠と全然音が合わない。
あれ、押さえてるところはそんなにズレてないと思うけどなぁと思ってたら、糸そのものが緩んでたという…途中で、聴覚で気付いて糸まけよって感じですね(汗)

二胡になりますと、そもそも弦を見たって、そんな音程の微妙な距離なんて視覚でコントロールできる範囲じゃないですから、全然、見ません。
別に暗かろうが、明るかろうが、よそ見してても、第三ポジションくらいまでなら、音程狂わず弾けますよね、普通。
そういう視覚OFF状態であるにもかかわらず、耳は音の高さだけに集中していたので、弦が最大限に振動しているかなんて気にとめていなかったのです。
人差し指で押さえる時、中指で押さえる時、薬指で押さえる時、その弦の振動している感じにばらつきがあるので、綺麗な音が均一に出ていないのです。
例えば、D調なら、暗闇で、薬指でファの音を出して、その振動感覚と同じにように鳴るように、同じ音を今度は人差し指で弾いてみる。
同じ音を違う指で弾いていって、均一かどうかに注意を払ってみる。
そういう練習を一回5時間ぐらいしたら、1日くらい練習せずほったらかして、1日後にまた楽器をさわってみると、あら、前より指の感度が良くなったような気がするよ…
ということがあったりするのだそうです。

まるで少女漫画「ガラスの仮面」の北島マヤがヘレンケラーを演じる前の特訓みたい…
(余談ですが、あれ、まだ終わってないんですね…70年代から連載!?…実写ドラマでマヤを安達祐実さんが演じておられたのがついこの間のような気が…そんな彼女も今は立派な大人…)

目の見えない音楽家の聴覚もさることながら、触覚というものも、目の見える人とは比べ物にならないくらい敏感なのだと思います。
そもそも、目の見える演奏者にとって、目って、譜面を見るということと演出効果以外に何ら役に立ちませんから、練習する時なんて、そもそも目を開けている必要なかったんだよね(笑)。

音楽の言語性

【話の前提】
今から書くことは、二胡や筝で現代曲を弾く時には、当てはまらないと思います。特に、三弦系の一昔前の民間曲などの話と思ってください。

民族楽器で、その楽器の良さが最大限に引き出せる昔の曲を弾くとすると…ややもすると、聴衆は超タイクツということが起こり得ます。

なぜでしょうね?

「音楽をどう区切り、どう抑揚をつけるかは、その国の言語と密接にかかわっている。つまり音楽にもまた「お国訛り」というものが存在しているというわけだ。」岡田暁生著「音楽の聴き方」中公新書95頁。

私はこう考えてみるといいと思います。
私たちは、どこの国の人か分からない人が、何やら、喋っていても、何が言いたいのか本当には分かりません。
ただ、音の抑揚や、長さなどから、何か困ってるらしいな、とか、嬉しくてはしゃいでるのか、とか、怒って文句を言ってるに違いないと推測はできます。
単に雰囲気だけで判断できる部分もたくさんあります。
でも、その人の言ってることを本当に知りたければ、その言語の文法知識や語彙を知らなくてはなりません。
もっと言えば、言葉が一字一句分かっても、その土地で暮らして文化を知らなければ、その人が何故、そのように思考をするのか理解困難です。

音楽なんて、聴いて気分がよくなればそれでいいという考え方もあります。
音楽なんて分かる必要ない、感じればいいんだ、というのも一理あります。
人それぞれですから、それはそれでいいと思います。
でも、ある音楽を本当にマスターしたいと思う人は、幼い頃からその土地の音楽を聴いて育っていない場合、ちょいと「勉強」する必要がでてきますよね。

もっとも、ある音楽を習いたい人にとって、どの程度、出来るようになりたいかには人それぞれですから、その「勉強」を先生がこれから習う人に無理強いするのがいいことかは、いろいろご意見があるのでしょうね。

外国音楽に限らず、国内の音楽であっても、伝統芸能やちょい前の民間芸能は分かりづらくてしょうがない。
だいたい、そういうものの音楽には、唄や踊りが付いていて、本来、変なところで区切るとおかしなことになります。
でも、唄も踊りも知らずに、指定された拍子に従って強弱つけて譜面通りに弾くことはある程度、楽器が弾ける人なら誰でも可能です。
ただ、その筋のプロから見たら、そういうのは本当に滑稽なんだろうなと思います。

私が弾く二胡も、私が弾く三弦も、私が弾く三味線も可笑しいのは、しっかりそのお国訛りが分かっていない、身についていないからです。
そもそも、一年や二年で身につくもんでもないですし。

中国人の先生はけっこう、なんで、そんな風に弾くのかなぁ、外国人だからかなって無邪気におっしゃいます。
やはり、私の弾き方には、日本人特有の訛りが出るんだと思います。
民族器楽専攻の音大一年生ぐらいだと、やっぱり、自分の出身地に近い地方の曲は上手で、それ以外はダメダメな人もいるという話を聞いたことがあります。
原型が分かっている上で、日本語訛りが出るのであって、それが自分のものになっていれば、滑稽ではなく、ある意味、個性と言ってもらえるのかもしれません。

津軽三味線に関しては、師匠は優しすぎるし、私はまだ、そこまでどうこう言う領域に達していないので、叱られませんが、師匠はだいたい新しい曲をやる前は、「こういう風に、譜面通りに弾いちゃいけないよ」とワザとダメ版を弾いてくださることがあり、すっごく面白い…いえ、参考になります(^^;。
だって、そういう風に弾く若い子、ホント多いし…
だいたい、二拍子で譜面が書いてあっても、それは便宜上のもので、ここからは三拍子風にするといいとか、ここからここまでは実質一拍子だとかっていう話は、西洋音楽しか習ったことない人には、理解が難しいのかもしれません。
普通は、「一拍子、何それ」ですよね(笑)
自分が師匠の真似出来るかどうかは別として、一応、師匠の通常版とダメ版の違いが分かる程度の耳はあります。(いわゆる西洋音楽の規則に則った譜面通りという意味であって、師匠が間違いだらけの譜面を書いているわけでも、譜面を逸脱した演奏をしているわけでもないので、念のため)

でも、そういう知識のない人が聴衆である場合、十分、感情や気分に上手に訴えかけてさえいれば、西洋音楽の譜面通りに弾いても、津軽風音楽や中国風音楽になっていて、ウケるんだとは思います。
実際は、根本が変わり過ぎてしまえば、別ジャンルの音楽になっていると言えなくもない…ですが。

でも、別ジャンルに変容してしまったものしか弾けない人が多くなって、そちらが主流になれば、分からない外国語を喋っているような弾き方の方がもしかすると、廃れてしまうのかもしれない…(問題発言かなぁ!?)

お国訛りとグローバル化って相反するものなのね。
にもかかわらず、私たちは、音楽のお国訛りを大事にしなきゃと言いながら、聴く人がいてナンボだから普及させなきゃとも思い、矛盾することを同時進行させているんでしょうか?

お国を越えた楽器、世代を越えた楽器が、昔の曲を弾く時、変容せざるを得ないし、それはそれで異文化交流にとって仕方のないことだけど、ある程度弾ける人は、やっぱり元の型を知っててくれると嬉しいなぁと、私は思います。
私自身は、昔の曲をきちんと弾きたいので、当分、たんたんと「勉強」しようと思います。
でも、「勉強」って、それなりの先生のところに行かないと、教えてもらえないので、お金もかかるのよね。

そして、仮にそうまでして苦労してマスターできたとしても、凡人には、披露するところがないのだよ(がびーん)
凡人のお国訛りの演奏は聴いてくれる人がいないでしょうからねぇ。
上手い人には、それに応えられる聴衆(つまり、私のような「勉強」したいコアなファン)が聴いてくれるけど、そうでない人はどうしたらいいのよ~
中途半端なお国訛りは、つまらなさすぎて誰にもウケない…
何故って、こういう音楽は一般の聴衆との相性がよくないから。

相性が純粋に個人的なものであることは、一般に思われているほど多くはない。生理的かつ個人的な相性や嗜好と見えるものの多くは、実はその人の履歴であり、しかも集団的に規定されている。そして集団が違えば、価値体系はまったく異なってくる。「よかった」や「悪かった」は常に、「彼ら/彼女らにとってはよかった/悪かった」なのである。岡田暁生著「音楽の聴き方」中公新書19頁。

だから、一般的ではない音楽の社会というのは、どんどん閉鎖的になっちゃわざるを得ないんでしょうか。

私はリズムに関しては、さほど耳が悪い方じゃないと思うのですが(音程の精度は甘すぎですが…)、演奏の腕が足りなさすぎで、伝えたいことが伝えられません。
楽器はただサウンドを発するだけで、何も語ってくれないのです。
腕の足りない部分を言葉で説明しようにも、普通の人には、鬱陶しいだけということがよく分かっているので、したくないのですが、腕を補うために、喋って説明するしかないんでしょうね。

音だけで人を振り向かせるのは、一流のプロでも難しいんですってね。
ある実験で、すごい有名な演奏家に顔を隠して路上演奏してもらったところ、そんなにすごい腕の持ち主でも、都会の人はほとんど立ち止まらないのだそうです。
都会の人は、忙しすぎて他者を理解したいとは、思わないのでしょう。
まぁ、日々、テレビやオーディオ機材から垂れ流されるBGMに囲まれていれば、あえて他者(演奏者とその背景にある文化)を理解したいという発想が出てこないのかもね。

すごい演奏技術をお持ちで、外国語スキルなどの異文化コミュニケーションに長けてて、経済的環境に恵まれている方々、もっとがんばってね、と思います。
なかなか、三拍子揃う人っていないかもね。

追伸
民族楽器などで、今風の新しい曲を創作したり、西洋楽器とのコラボを否定する気は全くありません。私、そういうのも好きですし、現に若い子が三味線でいろいろやってるCD、あれこれ持ってるし~。
実際、そういう若い子って、ちゃんと「勉強」してるんだよね。

追伸2
推敲をしたつもりですが、ブログ記事というのは、不特定多数の方が見ていて、こちらの意図と違った解釈をされることがあるので、本当に難しいです。
だから、ここはコメントクローズです。
FB経由でも、リアルでよく存じ上げない方からのコメントにお返事しないこともあります。ごめんなさい。