口伝心授

先日、「伝統文化と音楽パフォーマンス芸術フォーラム」っていう学術研究会を傍聴してきました。

そこで、最近は録先生が大人気という話になりました。
録先生って、要するに録音録画教材のことです。
録先生の真似すりゃ、誰でもある程度、できるようになりますよね。
でもね…
録先生は一方的に教えてくれるだけで、あなたのことなんて考えてくれないんだよね。
しかも、自分はそっくり真似ているつもりでも、本当に真似できているか分かったものではないんですね。

そして、困ったことに、例えば京劇なんて、西洋音楽のリズムではないし、現代標準語のイントネーションで歌ったりしないんですよね。
どうしても、先生が経験を語ったり、その場で動作を修正してあげる必要があります。
伝統芸能の一般的な教授法、つまり、一対一の口伝及び心のコミュニケーションーこれを中国語で口伝心授といいますが、どうしても必要になります。

京劇でなくとも、楽器なんかもそうですよね。
本当にうまくなりたい場合、口伝心授のレッスンしかあり得ないと私は思います。

録先生と生先生、違いを思いつくまま、書くと…

実は、楽器がある程度できる人は、譜面や録音があれば、テキトーなら弾けちゃいますよね。

でも、音の困ったところって、録音と生音違いますよね。

科学的に測れるものでいえば、身体に感じる音の振動が違う。
弦楽器なら、試しに先生の楽器と同じようにきちんと調律した楽器を持ったまま、先生に模範演奏を目の前で弾いてもらった場合、弾いてない自分の楽器も同時に歌い始めます。
歌うとかいう比喩が嫌いな人のために、事実だけ述べれば、開放弦で明らかに、自分の楽器の弦も振動するのが分かるということです。
ちなみに耳の不自由な方の中には身体で振動を感じて、音の違いを感じている人もいると聞きます。

さて、民族音楽などの場合は、リズムやアクセントをいわゆる西洋音楽の譜面どおりに読んじゃいけないわけですが、一緒に弾いた時、聴覚で自分の音程、間の取り方が判断できるという点は、録先生も生先生も同じです。

でも、実は生先生の場合、たまには間違うことあります。
通しで弾いてる時などは、こちらが止まらない限り、とても上手に誤魔化されます。
誤魔化し方も学習できます(笑)

非科学的な面をいえば、録先生の音も素晴らしいけど、生先生の周囲は空気の流れがすごい…
一緒に弾くと、自分も飲み込まれて、上手くなったような気がします。
いわゆる、つられるという現象が起こりますが、つられるって悪いことみたいだけど、うまい人につられるなら、その時の感覚を自分一人の時にも再現できるよう頑張ってみればいいんですよね。

ついでにいうと、譜面は違っていることもあります。
生先生は、譜面のミスプリを教えてくれます。
でも、意外と素人の私の方が譜面のミスによく気づきます。
先生はもう頭で覚えていないので、譜面が見たいように見えてしまうという、玄人ならではの習性があるようです。

ところで、若い先生が生徒の興味をひくために民族楽器を使って西洋音楽を弾くことを全く否定しないけど、西洋音楽のリズムで、東洋の古い曲を教えるのってどうなのかなとたまに思います。
その一方で、世間一般の人に理解し難いリズムと言葉を守ることに意味あるのかいな、と悲観的になる若い先生の気持ちも分からなくもない…そんなことやってたら、同年代の友達できないし、飯食えないからね。
それとも、生徒のリズムやアクセントが西洋流になっていて、「それ直しなさい」と注意して、もうお稽古辞めたいとか、音楽が大嫌いになられちゃうのも、本末転倒?な感じで哀しいから、そのまま、放っておいてるだけなのかな。

卵焼きに始まり卵焼きに終わる

「料理は、卵焼きに始まり、卵焼きに終わる」そうですが、演奏は脱力に始まり脱力に終わると感じた一日でした。
この度、訳あって中国三弦の弾き方を根底から変えることにしました。
(まぁ、了解を得て別の先生に教えてもらったんです)
楽器の持ち方から、左手、右手のフォームまですべて、今までの癖を捨てることにしました。
楽器の持ち方って本当に大事ですよね。
実は、私、楽器を持つ段階からすでに脱力できてなかったんです。
その状態で弦を押さえたり、ポジション移動してたわけですから、身体にかかる負担は重いでしょう。
苦労している割に下手だったから、本当に苦しかった…
いや、今までの方法を完全否定している訳ではなく、それで脱力できる人はそれでいいんですよ、ただ、万人にそれが向いているとは思えないってことです。

楽器の持ち方や弾き方が自分にとって合理的じゃないと、結局、上手にはなれないし、無理やり続けると身体壊します…
もっとも、趣味程度なら、無理やりのフォームでも弾けてしまうし、弾ける曲数が増えればそれでいいというなら、どんな弾きかたしたっていいわけです。
また、ほんの遊びなら練習時間も大したことないので、身体壊すに至りませんが、練習時間が多い人は、超初心者の頃から、気をつけるべきですよね。

弾き方の習慣を変えるのは、それを続けた期間の倍はかかると言います。
私はしばらく何も弾けないでしょうねぇ。
楽器を持つだけのレッスン一時間経過…
普通の人なら、飽きちゃうでしょうね。
弾き方を変えて、今までより綺麗な音が楽に出せるようになった人を知ってるから、自分も変える踏ん切りがついたんだけどね。
いつか、身体と楽器が一体化してると感じられるように弾けたなら、時間とお金は費やした意味があるんだけどなぁ。

ちなみに、私は三味線も二胡もガチガチの状態で淡々と弾いてます。
楽器が歌っている、喋っていると感じたことは一度もないんですよ。
頭と手と心がバラバラ状態。
ただ弾いてるだけと、演奏しているというのは、根本的に違うと思うんです。
人前で弾いた時は、いつもの十倍、ガチガチだから、手が棹を滑ってくれなくて、終わると、いつも一晩、眠れないでいます。

私のレッスン前は、よく知っている人のレッスンでしたが、舞台でのあがりについて先生と雑談していました。
舞台上ではどんな上手い人でも、いくらか場数踏んだ人でも、ある程度、緊張して、いつもより手のコントロールがきかなくなるものです。
(ちなみに、まったく緊張しない人もいますが、それはそれで大失敗…例えば、リラックスしすぎて、コンクールで時間オーバーする等、やらかすので、よくないわけですが…)
でも、普段、本当に自由自在に弾けているのであれば、舞台上で多少、手が不自由になっても、まだコントロールが及ぶと言うか、何とかなるものだそうです。
あがるのは、練習が足りないからだと、人のこと何も知らない人に言われムカついたり、心の問題が大きいかとも思ってましたが、初めて一理あると思いました。
思うに、舞台の下で私が普通に上手く弾ける状態って、先生方が多少緊張して舞台上で弾いてるような状態だったわけですよ。
そんな私が舞台に上がったら(レッスンで先生の前で弾くことも含まれます)、ド素人同然にガチガチで手がいうこときくわけないじゃないねぇ…加えて、心理的な焦りが追い討ちかけるわけだし。
舞台下で正しい練習してこなかった、そういうことですね。

生まれて初めて、弦が軽いと思いましたよ。
そして、棹の上をこんなに速く手が楽に滑るもんだというのも、一瞬でしたが感じました。
その自由な軽い感覚が、一秒以上、できるだけ長く続くように、これから練習すればいいわけよね。
最低300秒連続で続けば、一曲が弾けるわけよ。
津軽三味線とかなら、一曲が短いから、その軽く感じた一瞬が連続180秒ぐらいでいいわけよね。

結局、すぐ上達する人や才能あふれる人は、「慣れれば、脱力できる」とか何とかぬかすけど、凡人は脱力できる前に、身体壊すんじゃなかろうか…
あるいは、上達しない自分に嫌気がさす。
で、泣く泣くやめざるを得ない…
二胡が広く普及するのも、楽器本体が軽いせいと、弓も軽いせいで、どんなにガチガチで弾いても、身体壊すに至らないから、根気のある人やお友達が多い人は長続きして、そのうち、ちまたで天才肌の先生が言うように「慣れれば、脱力できる」に至るのではなかろうか、と思わなくもないんですよね。
大きい或いは重い楽器は、不器用な人が無理すると、身体壊す…
私が相当ひどい状態だったにもかかわらず、完全に身体壊す前に何とかここまで毎日、長時間弾いていたのも、単に身体的に恵まれていただけなんだなぁと、思う次第です。

もし、将来、自分が教えることがあったら、本気で上手くなりたい人には、傍から見てそこそこ弾けていても、本当に本人が無理してないかどうか、気にしてあげたいです。

二胡LESSON101

ずいぶん間があいてしまいました。
久しぶりのレッスンです。
実は二週間程前にすでに北京に戻っているにも関わらず、ナナ先生に連絡してませんでした。
理由は、「全然練習してないから」あわせる顔がない…

正直、「もうやめようかな」と思って、レッスンに出かけました。
目標がないっていうか…
目標の立てようがない…

せめて初心者に教えてあげられるようになろう、それが当初の目標でした。
世の中には、自分が上手く弾けても、教えるのが下手な人もいますしね。
不器用な私としては、ちゃんとした先生に教えてもらって、ちゃんと真面目に練習しているのに、いつまでたってもまともに弾けない人の気持ち、痛いほどわかりますしね。
自分がこの歳で、やっとの思いで出来たことなら、同じように不器用な人の参考になるんじゃないの、みたいな、そういう気持ちありました。

でも、出来ないにも程ってもんがあるよね、と最近思います。

もっとも、芸事の進歩ってやつは、他人と比べはじめたら、苦しくてしようがない。
ちなみに、ナナ先生は「私みたいに5歳から弾き始めて、それなりの先生について、それなりの練習積めば、誰でも中央音大に入れるわよ」っておっしゃってます。
私もそう思います。
そこまでなら、多分、条件さえそろっていれば、誰でも可能じゃないかと思います。
(芸で飯が食えるかとか、自分の芸が何かしら世の中の役に立つかどうかは別として。)
でも、誰も時間を幼少時まで巻き戻せないし、子どもの頃の環境は自分では選べません。
自分が今、おかれた環境で、どこまで、できるようになれるか、それは自分次第なわけですよね。
私も、100年まともに努力したって、ナナ先生みたいになれるとは思っちゃいませんよ、もちろん。
「じゃあ、どこを目指せばいいの?」ってところが、本当に分かんなくなって…

もしかすると、普通の人は、好きで好きで二胡やってるだけで、そんなこと考えもしないのか…

結局「やめたい」と言いだすことができず、なんだか励まされて帰ってきちゃいました。
「全然練習してないわりに、そのレベルは維持できてるんだから、そこまでの技術は消化できてるってことよ、それを固めて、次の段階へ行こう」みたいな。

そういえば、音大生がよく言ってるらしいですが、2,3日練習せず、次の日に練習したら急に上手くなったということがあるのは何故だろうってね。
私も例にもれず、何だか、いつもより音程がしっかりしているよと言われました。
おそらく、毎日何時間も練習していると、耳が慣れてしまうことと、嫌んなって、流されるままに練習しているだけなんだけど、たまに、何らかの事情で、数日、楽器に触れずにいると、神経が冴えるということが起こるらしい。
自分をより客観的に見られるというか、いつもより聴覚や指の感覚を研ぎ澄まさせるのでしょうね。
しばらくまともに練習していなかったということは、ある意味、そういう新鮮な感覚で練習出来るいいチャンスよ~みたいなことも言われました。

まぁ、「やめたい」と言わなくてよかったかも。
別に、練習が嫌で嫌で仕方ない、苦痛だとか、二胡を見るのも嫌だとか、そういうわけではないのだから。
ただ、上手くもならないのに、何で時間とお金無駄にしてるかな、っていう…憂鬱っていうでんすか、気持が晴れません。