幼児向けアプリは楽しすぎ〜

珍しく、ゲームにはまってしまいました。
実を言うと私はゲームは大の苦手で、子供の頃からほとんどやりません。
何故なら、頭悪すぎて、ルールが理解できないから^^;
本当の話です…
碁や将棋、チェスもルールを覚えてみたものの、本当に弱すぎて、自己嫌悪に陥るので精神衛生上やりません(たかがゲームにさほど落ち込まんでもええがねと言われますが、頭悪すぎを再三自覚するのが辛い…)
ルールが簡単でも、例えば、車の運転、スポーツのシュミレーションゲームとかいうのは、視覚的に怖すぎて、ちっとも面白くないのでやりません。

そんなゲーム嫌いの私がハマったのが幼児向け学習アプリ…
「コビトの音感♪レストラン」
要するに、幼児の音感トレーニングアプリですね。
和音ごとに果物や野菜が割り振られていまして、例えば、ドミソは苺、シレソは蜜柑、ミ♭ソシ♭は大根、ラド♯ミは胡瓜という具合です。
レストランにウサギちゃんが座っていて、注文すると和音が鳴ります。
それで、聴こえた和音と同じ果物又は野菜をウサギちゃんに食べさせるのです。
当たれば、ウサギちゃんは美味しいって顔するし、間違うとウゲェって顔になります。
(ウサギちゃんは無料ですが、キャラ(楽器)を増やすオプションは200円とかかかります。タヌキとか欲しいなぁ)
テスト終了後は、成績表に花マルとか、ガンバッタネとかいうスタンプを押してもらえるのです。
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
ルール簡単すぎで、スゴイ楽しいぞ!
わーい。

実際の三味線や二胡のお稽古でも「よく出来ました」スタンプ押してくれると嬉しいのになぁ。

さて、聴音といえば、子供の頃、ピアノ教室の聴音で、ドミソとかシレソとかやりましたね。
成績良くも悪くもなかったけど、和音のイメージを苺とか胡瓜の匂いや味で覚えちゃうと案外、間違えないものですねぇ。
私の場合、無味乾燥な文字のドとか、ソとか考えているうちに、短期記憶が薄れちゃって、一回しか聴けないテスト問題の和音が脳裏から消えちゃうけど、匂いやイメージって残りやすいものですね。
なんでだろう?

そういえば、色聴と言って、絶対音感保持者の中には、音に色がつくという感覚の持ち主がいます(イメージとして色を連想するのではなく、マジで色が脳裏をかすめるのだそうです)。
曲の調性によって色彩が見える人もいます。
共感覚といって、耳は音、目は色、鼻は匂いなどと分業化されずに、どれかとどれかが同時に感じちゃうみたいです。
そういう人は疲れていたりすると、音聴くだけで色がチラチラして疲れんだろうなぁ。
でも、良い曲に会うと、すっごい綺麗な色がまるで絵画のごとく脳裏に浮かぶこともあるんだそうですよ。

ふと、このまま、このアプリで遊びすぎると、和音と味、匂いが結びつきすぎちゃって、交響曲なんか聴いた日には、創作料理が脳のテーブルに並ぶんだろうか…(笑)
あはは、昼過ぎにダウンロードして日が暮れるまでハマりました。
こんなの初めて。
でも、アップルストアのソフトウェアのレビューみると、結構、面白くないと書いている人もいたので(書いているのは大人)、何というか、おそらく、小学校入学前の子供本人以外は、面白くも何ともないアプリなのかもなぁ。
こんな単純なアプリで半日遊べる私って単純すぎか?

弾く、描く、書く=話す

「よく“障害者でもピアノが弾ける”と演奏会などの宣伝文句に使われるけど、“障害者だからピアノを弾く”“障害者だからピアノが必要だ”、っていうのが本当は正しい感じがすると思う」
これは、広汎性発達障害者のピアニスト野田あすかさんの言葉。
すいません、一字一句覚えていませんが、だいたい、こういう意味だったと思います。
(こうはんせいはったつしょうがい、PDD, pervasive developmental disordersとは、社会性の獲得やコミュニケーション能力の獲得といった、人間の基本的な機能の発達遅滞を特徴とする「発達障害における一領域」―ウィキペディアより引用)

この気持ち、なんか、分かるなぁ。
すべての障害者や心の病を患っている人がそうとは言えないと思うし、心身健康な健常者でも、ある意味、自己表現、他人とのコミュニケーションに欲求不満を抱えている人は、楽器を弾かざるを得ない、絵を描かざるを得ない、文章を書かざるを得ないのだと思うんですよね。
もちろん、健全(?)に、趣味や職業として、弾く、描く、書く人もいるんでしょうけどね。
私にはむしろ健全に弾く、描く、書く人の気持ちは分からないかも。

ちなみに、私は人がコワイです(お友達は除く)
傍からそうは見えないかもしれませんが、本人的には、あまり面識のない大勢の人前で話さなくてはいけない時とか、初対面の人はコワイと思って身構えています。
その証拠に、18歳で就職して以降、鎮痛剤が常備薬で、いつも持ち歩いています。
初めて会う人ばかりの接客業や電話の問い合わせに答えるような仕事はフラフラになります。
初対面の人に会う時とか、会議の前には予め、気休めとして、半分の量とか、少なめに飲んだりもします(結局、頭痛がするので、残りの半分を飲む羽目になることもありますが)。
一番向いていない仕事をしていた時なんかは、薬局のオバちゃんが心配して、あんた薬の飲み過ぎはダメよ、薬飲む前にコーヒーとか飲んで代替してみたら?と注意してくれました。
今は大丈夫ですけどね〜学生兼バイトみたいな生活だから周囲は優しいもの。
子供の頃は、引っ込み思案なのね、内気なのね、恥ずかしがり屋なのね、ってよく言われましたが、違うと思うんだよね(笑)
誰も分かってくれないみたいだけど…
他人の意図が分からないのがコワイ、意図したように伝わらないのがコワイ、よって何か失敗やらかすのがコワイ、人に誤解されるのがコワイ、後で怒られるのがコワイ、結果として人もコワイ(汗)
こんなに、文章だらだら書いてアップするんだから、それはないでしょうと思うかもしれないけど、これは顔が見えないから、平気なのです。
万が一、思ったように伝わらなかったり、誤解されて伝わっても、相手が言わない限り私は知らないし、相手から、お叱りが来たとしても、リアルタイムのやり取りではないので、私のようなワーキングメモリ不足の頭でも、瞬時に返答する必要はなく、じっくり考えて、後で字だけのやり取りで誤解を解けばすむからです。

よく、文章が苦手、書くのは面倒という人が、「書こうと思うと身構えて、なかなか書けない」とおっしゃいますが、それはおそらく、リアルの生活がとても充実していらして、自分をその都度、きちんと表現出来て、周囲の人と共感できているから、そもそも、書く必要がないからなのだと思います。
私なんて、そもそも、「書こう」と意気込んだことなんて一度もなく、むしろ書きすぎるとウザいから削ったり、アップするのを我慢したりします。
パソコンをこうして打っている間にも、書ききれなかったことが頭を通り過ぎていくので、脳にケーブル繋いで、直接、パソコンに入力、出力できたらいいのにと思います。

そんなわけで、私の、書く、描く、弾くという行為も、多分、普通の人の「趣味」とは少し違うような気がします。
好きな曲を適度に上手に弾けたら満足できるというものじゃないんだよねぇ…
(もちろん、そういう一面もありますが…)
書く、描く、弾く、それをしないと死ぬしかないから、やってるんです。
大げさな、と思うかもしれませんが、多分、障害や病気もちの人には何となく分かる気持ちだと思うのですが…
だって、内側にたまっているものは、出さないと、爆発しちゃいますよ。
岡本太郎さんではありませんが、芸術はバクハツだ~~~

弾くことはコミュニケーション手段です。
だから、正直に言うと、私は大合奏はあまり好きではありません。
だって、別に誰も一人一人の音を聴いてないし…冗談抜きで300人レベルの合奏だと、人のこと言えませんが、音程やリズムのズレは避けられないので、人とお話しているのとは違います。
一番好きなのは、三味線の師匠とお稽古してる時かもなぁ。
私が弾いて師匠が替手を弾いている時が一番楽しい。
三味線の場合は、昔は口伝だったせいか、他の楽器と違って、先生が看てくださるというよりは、ほとんど一緒に弾いてくださるわけで、師匠はプロだから私がどんなに音程や速度やリズムが狂っても合わせてくれますしね…
弾くという会話が成り立つので、とても楽しいわけです。
(後で録音聞くと、よく、こんなデタラメに合わせてくれたなぁと思います…)
そういう意味で、私は二重奏、三重奏、ぐらいがとても好きです。
嫌いなのは、多重録音…同じ人が同じ楽器で違う旋律を弾いて多重録音すると、一人の人が何十本の指で弾いているようにしか聴こえないので、ものすごく気持ち悪いし、同じ音色しか見えないのでツマラナイ。
大合奏は会話なんてないので、弾く側としてはあまり好きではないけど、舞台に立つよい訓練になるので、機会があれば、淡々とやらせていただこうと思います。
(↑師匠がたまにご覧になっているので敢えて書いておかないと…)

ある種の人達は、野田あすかさんの言葉を借りれば「誰も私の言うことは聞いてくれないけど、ピアノだったら聴いてくれるから、ちゃんと伝えたい、だから頑張って練習する」わけですね。

私は、子供の頃、絵を描くとたまに褒められたけど、自分が納得していなければ、破りました。
私の心の中で思い描いているのと、全然、違えば、意味ないですから。
自分の心の中と、アウトプットされて出てきたものが、ほぼ、同じものであって、且つ、他人も喜んでくれるっていうのが一番いいわけですが、飛びぬけた才能や技術がないとそうはいかないのが辛いところ。
書くことは、手があれば誰だって書けるから(いまやパソコンがあるので手すら要らないですね)、訓練なんて要りません。
だから、一番楽ちんな表現方法です。
直線や曲線を描く、色を付けるのは、ある種の人にとっては訓練がいるのかもしれないし、余計にストレスになるのかもしれないけど、私は別にさほど苦になりません。
音楽はね、知識いっぱいいいるし、結局のところ、運動能力がどうしても必要だから思うようにならないのが悔しいですよね。
思うようにならないので、今のところ、ただ、淡々と技術の向上のためだけに弾いていたりします。

だから、こんなことを書いているわりには、私の演奏は、超ツマンナイ、というわけなのです(汗)。
でも、人とおしゃべりしたいから、下手でも弾かずにはいられない…(すごい矛盾)
私の場合、病んでいるから弾かずにはいられないのです。

音程と振動による感覚

三下りの調弦が分からない…
もちろん、GCF ADG BEAのように、それぞれの弦の間が4度の音程を取ればいいと、頭では分かってます。
以下、感覚の話です。

私の場合、中国三弦が一般的にGDG(三味線で言うところの二上り)で調弦するので、これが私にとってのスタンダードなのです。
そんな訳で、私の中では、三味線の本調子は、「二下がり」で、三味線の三下りは「一下がり」なんですよね。

私は十代の頃、ほんの少しだけバイオリンを習ったことがあるのですが、あれはすべて5度ずつ離れていて、ものすごくピタッと綺麗に調弦できますよね。
隣り合う弦の和音を弾いて調弦します。
ピアノみたいに濁った音色ではないので、和音を弾くと振動が重なるのが分かるんです。
いわゆる完全五度の響きは、超気持ちいい。
雲一つない青空です。

三味線の二上りの場合、一の糸と三の糸はオクターブの関係なので、濁らず綺麗、当然調弦しやすい。
一の糸と二の糸は完全五度なので、これも濁らず合わせやすい。
三味線は、さわりがつきますよね。

本調子も一の糸と三の糸はオクターブの関係なので、濁らず綺麗、当然調弦しやすい。
今度は二の糸と三の糸が完全五度で、濁らず合わせやすい。

で、三下りは?
一の糸と二の糸の間は4度、二の糸と三の糸の間も4度。
合わせにくい〜
いつも、二上りにしてから、一の糸を一音下げて調弦します。

4度って、物理的には完全協和音ですよね?
ふつう、楽典には協和音に分類されているし…
でも、よく対位法的には、あるいは音楽的には不協和音と説明されてますよね?

そもそも協和音って「溶け合う」感じとか「安定」した感じだと言いますよね?
もっとも、感覚なんて、人それぞれだからアテにはならんのでしょうが。
私は、4度ってピタッと溶ける感じがしないので、ダイレクトに4度を正確にさがせないよう〜
もちろん、有る程度なら、ダイレクトに4度に調弦できますが、誤差が出ちゃいます。
だって「蛍の光」の出だしだよね?
ほたぁるの…って歌えば、「ほ」と「たぁるの」の間は4度だからね。
何十年も毎年歌ってるもんねぇ。

ところで、ピアノで2度の和音を弾くと、不協和音なのでめっちゃ気分悪いけど、何で、三味線で弾くと綺麗に聞こえるの?
え?
そう思ってるの私だけじゃないよね?
二上り調弦の三味線で、師匠が一の糸四のツボと二の糸の開放弦を同時に弾くと、あまりの美しさに、私はめっちゃテンションが上がります。
例えが適切かどうか分からないけど、美人な妖怪のお姉さんの吐息みたい。
美人なんだけど、とっても危うい感じで、艶かしいんですが…
ちなみに自分で弾いても上手く響かないんだけど、何でだろう?

三味線て、いわゆる不協和音がどえりゃ〜(名古屋訛り)美しいんですわ。
だから、三下りなんていう調弦もありなんでしょうね。

皆様は、4度をどうやって調弦しているのでしょうか?
4度にどんな感覚を抱くものなんでしょうか?
私の中では、4度は、別れ、哀愁、季節なら秋、色ならセピア色かな。