音楽の言語性

【話の前提】
今から書くことは、二胡や筝で現代曲を弾く時には、当てはまらないと思います。特に、三弦系の一昔前の民間曲などの話と思ってください。

民族楽器で、その楽器の良さが最大限に引き出せる昔の曲を弾くとすると…ややもすると、聴衆は超タイクツということが起こり得ます。

なぜでしょうね?

「音楽をどう区切り、どう抑揚をつけるかは、その国の言語と密接にかかわっている。つまり音楽にもまた「お国訛り」というものが存在しているというわけだ。」岡田暁生著「音楽の聴き方」中公新書95頁。

私はこう考えてみるといいと思います。
私たちは、どこの国の人か分からない人が、何やら、喋っていても、何が言いたいのか本当には分かりません。
ただ、音の抑揚や、長さなどから、何か困ってるらしいな、とか、嬉しくてはしゃいでるのか、とか、怒って文句を言ってるに違いないと推測はできます。
単に雰囲気だけで判断できる部分もたくさんあります。
でも、その人の言ってることを本当に知りたければ、その言語の文法知識や語彙を知らなくてはなりません。
もっと言えば、言葉が一字一句分かっても、その土地で暮らして文化を知らなければ、その人が何故、そのように思考をするのか理解困難です。

音楽なんて、聴いて気分がよくなればそれでいいという考え方もあります。
音楽なんて分かる必要ない、感じればいいんだ、というのも一理あります。
人それぞれですから、それはそれでいいと思います。
でも、ある音楽を本当にマスターしたいと思う人は、幼い頃からその土地の音楽を聴いて育っていない場合、ちょいと「勉強」する必要がでてきますよね。

もっとも、ある音楽を習いたい人にとって、どの程度、出来るようになりたいかには人それぞれですから、その「勉強」を先生がこれから習う人に無理強いするのがいいことかは、いろいろご意見があるのでしょうね。

外国音楽に限らず、国内の音楽であっても、伝統芸能やちょい前の民間芸能は分かりづらくてしょうがない。
だいたい、そういうものの音楽には、唄や踊りが付いていて、本来、変なところで区切るとおかしなことになります。
でも、唄も踊りも知らずに、指定された拍子に従って強弱つけて譜面通りに弾くことはある程度、楽器が弾ける人なら誰でも可能です。
ただ、その筋のプロから見たら、そういうのは本当に滑稽なんだろうなと思います。

私が弾く二胡も、私が弾く三弦も、私が弾く三味線も可笑しいのは、しっかりそのお国訛りが分かっていない、身についていないからです。
そもそも、一年や二年で身につくもんでもないですし。

中国人の先生はけっこう、なんで、そんな風に弾くのかなぁ、外国人だからかなって無邪気におっしゃいます。
やはり、私の弾き方には、日本人特有の訛りが出るんだと思います。
民族器楽専攻の音大一年生ぐらいだと、やっぱり、自分の出身地に近い地方の曲は上手で、それ以外はダメダメな人もいるという話を聞いたことがあります。
原型が分かっている上で、日本語訛りが出るのであって、それが自分のものになっていれば、滑稽ではなく、ある意味、個性と言ってもらえるのかもしれません。

津軽三味線に関しては、師匠は優しすぎるし、私はまだ、そこまでどうこう言う領域に達していないので、叱られませんが、師匠はだいたい新しい曲をやる前は、「こういう風に、譜面通りに弾いちゃいけないよ」とワザとダメ版を弾いてくださることがあり、すっごく面白い…いえ、参考になります(^^;。
だって、そういう風に弾く若い子、ホント多いし…
だいたい、二拍子で譜面が書いてあっても、それは便宜上のもので、ここからは三拍子風にするといいとか、ここからここまでは実質一拍子だとかっていう話は、西洋音楽しか習ったことない人には、理解が難しいのかもしれません。
普通は、「一拍子、何それ」ですよね(笑)
自分が師匠の真似出来るかどうかは別として、一応、師匠の通常版とダメ版の違いが分かる程度の耳はあります。(いわゆる西洋音楽の規則に則った譜面通りという意味であって、師匠が間違いだらけの譜面を書いているわけでも、譜面を逸脱した演奏をしているわけでもないので、念のため)

でも、そういう知識のない人が聴衆である場合、十分、感情や気分に上手に訴えかけてさえいれば、西洋音楽の譜面通りに弾いても、津軽風音楽や中国風音楽になっていて、ウケるんだとは思います。
実際は、根本が変わり過ぎてしまえば、別ジャンルの音楽になっていると言えなくもない…ですが。

でも、別ジャンルに変容してしまったものしか弾けない人が多くなって、そちらが主流になれば、分からない外国語を喋っているような弾き方の方がもしかすると、廃れてしまうのかもしれない…(問題発言かなぁ!?)

お国訛りとグローバル化って相反するものなのね。
にもかかわらず、私たちは、音楽のお国訛りを大事にしなきゃと言いながら、聴く人がいてナンボだから普及させなきゃとも思い、矛盾することを同時進行させているんでしょうか?

お国を越えた楽器、世代を越えた楽器が、昔の曲を弾く時、変容せざるを得ないし、それはそれで異文化交流にとって仕方のないことだけど、ある程度弾ける人は、やっぱり元の型を知っててくれると嬉しいなぁと、私は思います。
私自身は、昔の曲をきちんと弾きたいので、当分、たんたんと「勉強」しようと思います。
でも、「勉強」って、それなりの先生のところに行かないと、教えてもらえないので、お金もかかるのよね。

そして、仮にそうまでして苦労してマスターできたとしても、凡人には、披露するところがないのだよ(がびーん)
凡人のお国訛りの演奏は聴いてくれる人がいないでしょうからねぇ。
上手い人には、それに応えられる聴衆(つまり、私のような「勉強」したいコアなファン)が聴いてくれるけど、そうでない人はどうしたらいいのよ~
中途半端なお国訛りは、つまらなさすぎて誰にもウケない…
何故って、こういう音楽は一般の聴衆との相性がよくないから。

相性が純粋に個人的なものであることは、一般に思われているほど多くはない。生理的かつ個人的な相性や嗜好と見えるものの多くは、実はその人の履歴であり、しかも集団的に規定されている。そして集団が違えば、価値体系はまったく異なってくる。「よかった」や「悪かった」は常に、「彼ら/彼女らにとってはよかった/悪かった」なのである。岡田暁生著「音楽の聴き方」中公新書19頁。

だから、一般的ではない音楽の社会というのは、どんどん閉鎖的になっちゃわざるを得ないんでしょうか。

私はリズムに関しては、さほど耳が悪い方じゃないと思うのですが(音程の精度は甘すぎですが…)、演奏の腕が足りなさすぎで、伝えたいことが伝えられません。
楽器はただサウンドを発するだけで、何も語ってくれないのです。
腕の足りない部分を言葉で説明しようにも、普通の人には、鬱陶しいだけということがよく分かっているので、したくないのですが、腕を補うために、喋って説明するしかないんでしょうね。

音だけで人を振り向かせるのは、一流のプロでも難しいんですってね。
ある実験で、すごい有名な演奏家に顔を隠して路上演奏してもらったところ、そんなにすごい腕の持ち主でも、都会の人はほとんど立ち止まらないのだそうです。
都会の人は、忙しすぎて他者を理解したいとは、思わないのでしょう。
まぁ、日々、テレビやオーディオ機材から垂れ流されるBGMに囲まれていれば、あえて他者(演奏者とその背景にある文化)を理解したいという発想が出てこないのかもね。

すごい演奏技術をお持ちで、外国語スキルなどの異文化コミュニケーションに長けてて、経済的環境に恵まれている方々、もっとがんばってね、と思います。
なかなか、三拍子揃う人っていないかもね。

追伸
民族楽器などで、今風の新しい曲を創作したり、西洋楽器とのコラボを否定する気は全くありません。私、そういうのも好きですし、現に若い子が三味線でいろいろやってるCD、あれこれ持ってるし~。
実際、そういう若い子って、ちゃんと「勉強」してるんだよね。

追伸2
推敲をしたつもりですが、ブログ記事というのは、不特定多数の方が見ていて、こちらの意図と違った解釈をされることがあるので、本当に難しいです。
だから、ここはコメントクローズです。
FB経由でも、リアルでよく存じ上げない方からのコメントにお返事しないこともあります。ごめんなさい。

口伝心授

先日、「伝統文化と音楽パフォーマンス芸術フォーラム」っていう学術研究会を傍聴してきました。

そこで、最近は録先生が大人気という話になりました。
録先生って、要するに録音録画教材のことです。
録先生の真似すりゃ、誰でもある程度、できるようになりますよね。
でもね…
録先生は一方的に教えてくれるだけで、あなたのことなんて考えてくれないんだよね。
しかも、自分はそっくり真似ているつもりでも、本当に真似できているか分かったものではないんですね。

そして、困ったことに、例えば京劇なんて、西洋音楽のリズムではないし、現代標準語のイントネーションで歌ったりしないんですよね。
どうしても、先生が経験を語ったり、その場で動作を修正してあげる必要があります。
伝統芸能の一般的な教授法、つまり、一対一の口伝及び心のコミュニケーションーこれを中国語で口伝心授といいますが、どうしても必要になります。

京劇でなくとも、楽器なんかもそうですよね。
本当にうまくなりたい場合、口伝心授のレッスンしかあり得ないと私は思います。

録先生と生先生、違いを思いつくまま、書くと…

実は、楽器がある程度できる人は、譜面や録音があれば、テキトーなら弾けちゃいますよね。

でも、音の困ったところって、録音と生音違いますよね。

科学的に測れるものでいえば、身体に感じる音の振動が違う。
弦楽器なら、試しに先生の楽器と同じようにきちんと調律した楽器を持ったまま、先生に模範演奏を目の前で弾いてもらった場合、弾いてない自分の楽器も同時に歌い始めます。
歌うとかいう比喩が嫌いな人のために、事実だけ述べれば、開放弦で明らかに、自分の楽器の弦も振動するのが分かるということです。
ちなみに耳の不自由な方の中には身体で振動を感じて、音の違いを感じている人もいると聞きます。

さて、民族音楽などの場合は、リズムやアクセントをいわゆる西洋音楽の譜面どおりに読んじゃいけないわけですが、一緒に弾いた時、聴覚で自分の音程、間の取り方が判断できるという点は、録先生も生先生も同じです。

でも、実は生先生の場合、たまには間違うことあります。
通しで弾いてる時などは、こちらが止まらない限り、とても上手に誤魔化されます。
誤魔化し方も学習できます(笑)

非科学的な面をいえば、録先生の音も素晴らしいけど、生先生の周囲は空気の流れがすごい…
一緒に弾くと、自分も飲み込まれて、上手くなったような気がします。
いわゆる、つられるという現象が起こりますが、つられるって悪いことみたいだけど、うまい人につられるなら、その時の感覚を自分一人の時にも再現できるよう頑張ってみればいいんですよね。

ついでにいうと、譜面は違っていることもあります。
生先生は、譜面のミスプリを教えてくれます。
でも、意外と素人の私の方が譜面のミスによく気づきます。
先生はもう頭で覚えていないので、譜面が見たいように見えてしまうという、玄人ならではの習性があるようです。

ところで、若い先生が生徒の興味をひくために民族楽器を使って西洋音楽を弾くことを全く否定しないけど、西洋音楽のリズムで、東洋の古い曲を教えるのってどうなのかなとたまに思います。
その一方で、世間一般の人に理解し難いリズムと言葉を守ることに意味あるのかいな、と悲観的になる若い先生の気持ちも分からなくもない…そんなことやってたら、同年代の友達できないし、飯食えないからね。
それとも、生徒のリズムやアクセントが西洋流になっていて、「それ直しなさい」と注意して、もうお稽古辞めたいとか、音楽が大嫌いになられちゃうのも、本末転倒?な感じで哀しいから、そのまま、放っておいてるだけなのかな。

器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ

「器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ」

というのは、中央音大の周海宏先生の先生が言った言葉だそう。
どこの医者が患者に向かって「何でお前病気なんだよ」と怒鳴るだろうか。
往々にして先生というのは、生徒が出来ないのは、生徒がおバカだからとか、才能ないからだとか、練習怠けてるに違いないだろうと疑うけど、
世の中におバカな生徒はいない、いるのは教えられないおバカな先生だけなんだよって。

もちろん、これは理想であって、現実には不器用な生徒もいるんだけどね、って周先生も付け足したけど…
医者にどうしても治せない病があるように、先生にだって、どうしても上手く弾けるようにしてあげられない子はいるかもしれない。
でも、最初から見捨てる医者がいていいわけがないだろう、って。

中央音大って音楽の最高学府だからね。
生徒の資質がよすぎちゃって、教えなくたって、出来る人は出来るわけで…
いい先生になろうと思ったら、不器用な生徒をいっぱい見なさい、というのが周先生の提案だったりします。

資質がよすぎちゃう人が往々にして先生になるわけだから、出来ない人の気持ちが本当に分かる先生って、ある意味、極めて少ないと思う。
上手く弾けない人は、弾けない人の気持ちがよく分かっても、上手く弾けない先生に習いたい生徒がいないのも事実で…天賦の才能なんてなく、かつて上手く弾けなかったけど、何らかのきっかけで、そこそこ上手く弾けるようになった先生、というのが、ちまたのお稽古ごとの先生に本当に向いているのだと思うけど、そんな人、ほとんどいないだろうね…

ちなみに、周先生はもともとピアノ専攻で、本人曰く、腕が大したことなかったから作曲に転向して(本人大したことないって言っても音大附属出てますからね(笑い))、それも創造力に限界感じて、最終的に理論学問(音楽心理学など)に転向したそうです。
自分が身体的に恵まれていて(手が大きくて、器用だった)、日頃、音楽的感性がないわけでもなく、日々練習をきちんとして、ちゃんと弾けるのにもかかわらず、いったん、通してピアノを弾き始めると本当に面白くない演奏しかできないのは何故だろうと、ずっと思っていたことから、実際の手の動作と心理動作の関係を深く知りたいと思うに至ったのだとか。