ちなみに、私は子どもの頃から、演劇とか朗読するのは好きです。
コスプレとかも恥ずかしいとは思わない類の人間です。
普段あまり喋らないので(なついている人には別)、大人しそうで真面目そうに見える(らしい)けど、本当は言いたい事(表現したい事)いっぱいあったりします。
時々、ぼーっとしているのは、考え事(空想)しているからで、一日に何本か脚本みたいなものが頭の中で流れているからです(わはは…)
ドラマ見ながら、勝手に番外編を脳内で創り始めるのもしょっちゅうです(おいおい)
だから、演奏技術がない私としては、自分の演奏と空想(演じたいもの)があまりにもかけ離れているので、かなり凹みます。
理想は、例えば、もともと古典劇や語り物の前奏曲や前座で弾かれた曲であれば、そもそも曲自体にストーリーや特定の場面があるので、聴衆には、私自身がその役者に見えてほしいです。
そういう特殊なストーリーを含んだ曲ではない場合、単に「春」とかをイメージしただけの曲であれば、少なくとも私の脳内には、独自のストーリー(例えば、今日はXXさんと一緒に○○公園で花見しながらルンルン、小鳥ちゃんも出てきて合唱だぁ~)とがありますから、そのように感じていただければ幸いです。
でも、実際は私の脳内なんて他人には見えませんし、同じ会話でも人によって受け取り方が違うのと一緒で、勘違いもあると思いますので、少なくとも「春」を弾いて「冬」を感じなければいいと思います(^^;
だから、超絶技巧だけの演奏って、個人的にはあんまり好きじゃないんだぁ…。
単に手先が器用だったり、速いっていう基準は分かりやすいし、すごいとは思うんだけどね。
でも、それって、若い頃はともかく、歳とったらできないし…
そもそも、手先が不器用で速く弾けない人間の言い訳か…(^^;
過去記事で書いたような気がしますが、私の演奏は演劇なら棒読みに近いこと、しょっちゅうです。
手が自動化されていないので、脳内に必要なメモリが確保できず、中途半端な感情移入や演技は出来ない性質で、アガリが加わると更に、いっそ何にも加味しない方へ行ってしまうのです。
理想と現実の差が激しいので、いっそ楽な棒読みを始めてしてしまうんですな。
これが脚本や朗読なら棒読みする方が難しいよね?え?そうでもない?
ナナ先生には、理想があるなら、理想がない人間よりいいし(何かを表現したいとそもそも思わない手先だけが器用な音大生もいるらしい)、無理に心を空っぽにする必要ないって言われますが…
そう言えば、日本の先生は見た目の悪さ、演劇で言えば演技力の無さをほとんど口にしませんね。
そう思わないのか、思ってても生徒=お客さんで、遠慮して言わないだけなのか…
私が接してきた中国の先生方が、人前に立つことを前提とした人に教授している人たちだから、特にそうなだけなのかもしれませんが「難看」ってよく言うよな…
「難看」って、見た目が悪いことを意味してて、カッコ悪いとか、不格好とか、みっともないという意味ですが…「不好看」よりも、「もう見たくもないわ」「気分悪っ!」的な意味もあるんじゃないかと思うほど、日本人的にはキツイ言葉です~
例えるなら、「可愛くない」じゃなくて「ブス!」って言われているようなもん?
でも、後で聴衆にコッソリ裏で言われるより、レッスンで面と向かって言われておいた方が、ずいぶんマシだけどな。
っていうか…多分、プロを育てるのと趣味の人を育てるのは別物だから、甘くなるというのは分かるけど、趣味の人だってボランティア演奏とかするわけでしょう?
だったら、先生は言ってあげる方が親切なんじゃ…(^^;
でも、聴衆の層というのもあって、若い人はこう感じるとか、年配の人はこういう表現の仕方は嫌いとか、外国人はこういうの好きとかみたいに、あるグループじゃこういうのがOK(むしろ歓迎)でも、別のグループじゃそういうの絶対にNGってあるな…
演ずるのも楽じゃないね~。
だから、ステージに立つプロは、お客さんがお金払ってくれるんだろうね(笑)。