マイナス地点から学ぶレッスン

語学や器楽の教材本のタイトルで「ゼロから始める…」「一から習う…」というのがありますが、本当に「ゼロ」から初めて上手くなる人ばかりではないと思います。
ある種の人々(具体的事例は大多数の演奏家や先生方)は、そもそも、スタート地点が凡人よりも優遇された先の方にあり、ある種の人々のスタート地点は、凡人が立っているゼロ地点より、ハンデを背負ったマイナス地点です。
ただ、マイナス地点に立っている人というのは、一般的には「私は、才能ないから…」という感じで、人よりも出来ないことを無理して一生懸命やりませんから、マイナスから教えてくれる先生というのは、かなり稀だと思います。
私もこの歳になるまでそんなことを教えてくれる先生に会ったこともなかったです。

楽器の演奏というのは単純な動きではなく、複雑な運動の組み合わせだと思うので、そもそも身体のバランス感覚が悪くて、子供の頃よく転んだとか、協調性運動が苦手で、縄跳びを覚えるのに苦労した、ハサミが上手く使えなかった、字や絵を描く際に、まっすぐに線が引けなかった、車の運転が苦手なタイプの人は、凡人ではないので、スタート地点が違います。
人の倍、努力しないと、右手と左手が上手くバラバラに動いてくれなくて、しんどいかもしれませんよね。

ちなみに、私は、車の運転を覚えた時は、死ぬほど辛くて…。
なぜなら、同時に注意しないといけないことが多すぎるからなのです。
前だけ見てりゃいいわけじゃない、足も手も使わないといけない、前方の空間と車の大きさ等を客観的に想像できないといけない…
(ちなみに、私は見えない部分の空間を推測したり把握したりする能力が知能検査すると、人より劣っています…)
車を運転しながら、隣の人と話すなんてもってのほか、車から降りて、安心感のあまりぶっ倒れたこともあります。
まぁ、こういうタイプの人でも、努力すれば免許は取れますし、人によっては、こういう複雑な動きを上手くパターン化することに成功し、難なく運転される方もいますが、こういうタイプの人で、日々、車に乗っている人というのは、往々にして何らかの理由があって(あるいは生計を維持するのに必要とか切羽詰まっている)、自分なりの工夫をされて、一生懸命、技術を習得したのだと思います。
でないと、こんなにつらい思いをしてまで車を運転したいとは思わないので、私はペーパードライバーです。

おっと、話がずれてきたな…
言いたかったのは、「はい、やってみて!」といってすぐに真似できるのが才能ある人、ちょっと練習すればコツがつかめて、自分で練習できるようになるのが凡人。
かなり模索しないと「練習の仕方」が分からないのがマイナスの人(^^;

私みたいな不器用な人というのは、自分の身体でありながら、自分の身体の使い方が分からない人が多く、これは私の三弦の先生が非常に丁寧に教えてくださいました。
そもそも、不器用な人というのは、楽器に限らず、何かをしようと思った時、余分な力が入っていることに気付いてないんですよね。
一年以上、どこに力が入っているのか、XXが先に動くべきところ、XXが先に動いた、こう動くべきところ、そうしないでXXという代替行為をしたかということを指摘され続けて、最近、やっと、自分が今、どこに余分な力が入っているため、その部分が硬直して、そのため、正常な運動が妨げられているのだということが、自覚できるようになりました。
ある意味、指先で音が感じられるようになりました。
やっと、凡人が習い始める状態になれたというわけなのです。
ぶっちゃけ、二胡や三味線ぐらいの軽くて棹が短い楽器は、腕などに余分な力が入っていても、腕などを動かす距離が短いので、無理していても簡単な曲は、弾けちゃうんですよね。
無理矢理弾いていても、ある程度のスピードを出せる器用な人もいるので、それで何とかなる人はいいけど、何ともならなくて、いつまでも速く弾けない人もいる…
もともと身体の作りが丈夫ではない人で、真面目な人ほど、力抜けてないまま、必死に練習するから、腕や手首を壊す…

多分、多くの先生方は、やってるうちに脱力できるという戦法をお取りになるのだと思いますが、これ、生徒が天才か凡人である場合、問題ないでしょうが、極端に不器用な人には、最初にどこに余分な力が入っているのか、嫌われるぐらいクドク言ってあげた方が、後後、本人のためによいと思うのですが。
でも、普通の先生は、嫌われたり、泣かれたくないですよね…
そこまで言われると、やめちゃう人もいるし…
指摘されて余計に力が入る人もいるから、言い方も工夫しないといけないか…
ついでに言うと、こういうことを教えるのには骨が折れ、10倍は疲れると思うので、通常のレッスン代ぐらいじゃ、割に合わないでしょうね。
仮に割高のレッスン料頂いて教えるとしても、一時間で二小節しか進まなかったということもありうるので、皆んなと楽しく多くの曲が弾けるようになれればいいと思っている人には、向かない教え方ですよね。

次に、音感の問題。
天才は幼少の頃から、教えられずとも、ドレミを知ってます(本当です)。
天才にかなり近い人は、幼児教育等で、かなり正確な相対音感を身につけてらっしゃいます。
私は一応、なんとなくドレミ…は分かっているけど正確性に欠ける人で、しかも途中で何かの拍子に、基準音がズレるため、客観的にみると半音移調していることにすら気付かないことがある人ですね。
だから、開放弦聞くまで、音がズレていることに気付かないことも多い。
そして、音のズレが分かっているときでも、どのくらい高いか低いか判断つかず(二胡等の弦楽器は数ミリ単位の微分音ですからねぇ)、もともと不器用なので、手の修正が追いつかないという…
音程感覚が鈍い人になると、ピアノでドとレを聞かせて、どちらが高いか分からない人もいるとのことですが、こういう方には、本当にピアノ弾きながら、まずは歌ってもらう練習しないとゼロからは教えられませんよね。

おそらくですが、音の高さの判断の仕方というのは、多分、人によって違うんじゃないかと思うのです。
絶対音感をお持ちの方は、音を聞くと同時に色がついて感じられる色聴の人もいるとききます。音に色がついているのだから、容易に判断が付きますよね。
こういう人は稀ですが、大多数の凡人は、どうやって音高を判断しているのでしょうね?
私は多分ですが「響き」の要素で音程を判断している部分が大きいのかと…
なぜ、そう思うかというと、私は純音だとかなり低い音が聞こえなかったりするのですが(これは身体的な障害といえなくもないけど、普通は聞こえなくても日常生活に何ら支障はありません)、楽器の音だと判断がつくからです。
つまり倍音の構成要素で、聞こえない筈の基の音を脳が判断できるのです(^^;そして、たまにオクターブ違う音をスパッと間違えます…

ちなみに、通常のアップライトピアノの左の方の低音が聞こえない障害者の方がおっしゃってましたが、弾けば、指先の振動が違うので分かるそうですから、人によっては、身体に感じる響きで音高の判断が多少つくひともいるのかもしれないですよね。

私は昔からいろんな楽器の先生に不思議がられてきました。
普通は私みたいな人は、早々にやめちゃうんだそうです。
そりゃそうでしょう、普通の人にできることがすぐにできないし、理解が遅いので、普通の人は何も弾けない期間が長ければ長いほど、楽しくないもんね。
ある意味、私は何かが弾けることが楽しいとは思ってないからなのでしょうね。
テキトーに一曲弾けても楽しくもなんともない(そんなもん弾けるぐらいでは、家族は誰も褒めてくれなかったので、生まれてこの方、褒めてもらったためしがないし…発表会やボランティア等人前で弾いて、誰かが喜んでくれるのが自分も嬉しかったという共感もできない…)
私は、多分、曲を弾くのは、二の次でいいんだよね(笑)
長くやっていく以上、曲が弾けないと恥ずかしいし、これだけのお金と時間使って、こんな曲も弾けないの?って思われるのは困るから、とりあえず弾くみたいなね…
うーん、時々、「うわ~この響き、綺麗だなぁ」という音に出会って、それが再現出来たらいいなぁって思って、そういう音が出た時、すごく嬉しいし、楽しいし、面白いからやってる。
多分、十代の終わりに知り合ったバイオリンの先生が、5度ずつ違うバイオリンの調弦作業を丁寧に何度も聞かせてくれたせいかもしれません。
私は音に色なんて感じませんが、音程には明度のようなものを意識することはよくあります。
当然ですが、8度(オクターブ)と5度の響きのクリアな感じは気持ちいいです。
でも三味線の2度で好きなタイプの音の組合せがありまして(俗に不協和音と言われてますけど)、その妙な濁りがたまらず、先生に「もう一回、弾いて、もう一回~、もう一回~」とお手本をねだって、「誰が弾いても同じとおもうけど~」と呆れさせてしまい、反省してます…
(ピアノの2度ではこの濁りはでませんし、筝などでも無理です…そしておそらく、人によってビブラートのかけ方や滑り方に誤差があるので、私の好きなドンピシャの音が出せるまでにあと、何年かかるんだろう?)
そういえば、子供音楽教室とかで、音程を教えてくれる時に「これは綺麗じゃない」とか、「響きとして不完全」だとか、「暗い感じ」だとか、「5度は明るい」とか最初からラベリングして教えるのはどうなのかな~とたまに思います。
いや~だって、大多数の人がそう感じるのだという傾向を知っておくことは大事だと思うけど、皆が皆、そう感じるとは限らず、そう感じれらないマイノリティにとっては、覚えにくいよ~(笑)
自分が音程に感じる感覚、それが色であれ、明度であれ、振動感覚であれ、別の方法であれ、自分の感じ方で記憶するのが近道だと思うんだよね。
天才でも凡人でもない子には、先に自分がどう感じたのか、喋らせた方がいいんじゃないかと思うのです。

凡人以下の、ひどく不器用な人の参考になれば幸いです。
素人だからこんなものか、と最初から諦めて全然注意してくれない先生より、高いお金出して、いちいち身体の力の入り具合を指摘して直してくれる先生を捜してみてください。
ちなみに私だったら、割安で練習にお付き合いできると思うのですが(笑)いかんせん、本人が魅力的に曲が弾けるわけじゃないので、耳の肥えた方は、忍耐力ないと私の演奏に付き合いたくないですね(^^;;

二胡LESSON128,129,130,131,132

レッスン記録、ずっと書いてないなぁ(笑)

はい、相変わらずの三門峡です。
書くことないけど、記録のために書いておこうと思いつつ…
5回も書かなかったんだ(笑)

もう、書いても他人の参考にはならないと思うので(だって皆書いてるし)、これからは自分のためだけに淡々と記録だけ書いて、非公開投稿にしとくのもありかな…

虹色の弦

先日、ちょっと思うところあって、二胡の絹弦が欲しいなと思いました。
現在、中国の二胡はスチール弦を使うのが普通だと思いますが、日本人の中には絹弦のまろやかな音色を好まれる人もいるようです。
日本の三味線などの和楽器は、今でも弦に絹糸を使いますからお尋ねしたところ、「黄色ですけどいいですか?」と言われました。
和楽器に使う絹糸ってウコンで染めるので黄色いんですよね。
防虫効果あるとかないとか、聞いたことがあります。
あたしゃ、二胡も三弦も、弦なんて、ほとんど見ないので、別に何色だっていいんです(笑)

でも、ふと思ったのです。
筝(いわゆるお琴ですね)の弦が虹色に配置されていたらいいのになぁ~
そしたら、お稽古も続けられたかもなぁ。
ドが赤、レがオレンジ、ミが黄色、ファが黄緑、ソが青、ラが紫、シが赤紫

私は弦が四本以上ある弦楽器が苦手です。
俗に弦が多い楽器ほど最初のとっかかりが容易なので上達しやすいなどと言われていますが、私にとっては弦の数が多いということ自体、苦痛なのですよ~
ピアノもそうだけど、同じ色だと区別がつかん…
中国の古筝はオクターブごとに緑の弦が一応入っていて、見やすくなっているけど、21も弦があると、すぐにどこへ飛んだらいいか分からなくなる…
日本の筝だと、チョークとかで弦にさりげなく印を付ける人もおられるみたいですね。
やったことないけど、多分、楊琴とかもキツイだろうな。

多分、学習障害のお子さんとかいる人には何となく、気持が分かってもらえそうな気がするのですが、世の中には、視力も聴力も悪くない、知的障害もないのに何故か、読み書き計算等が困難な人っていうのがいるわけで、それに少しちょっと似てなくもないと思うのです。
私のは、単なる不器用ですが…
私は昔から視力はいいけど、本はそうとう顔に近づけないと読みづらい(笑)
大多数の先生は、私は目が悪いと勘違いしていらっしゃったみたい。
しかも、よほど慣れてているか、よほど集中している場合でないと、他のことが脳裏に浮かんでしまうので、すぐにどこを読んでいるのか分らなくなるという…(汗)

譜面も読みづらい…なぜなら、線がいっぱいあって、色がついてないから。
そしてフレットの多い楽器も、フレット自体がチラチラして、できれば視界に入って欲しくない。

かつて、筝の弦に色がついてないから見辛いって愚痴ったら、小学生に「お姉ちゃん、弦なんか見てるからダメなんだよ、身体で場所を覚えるんだよ~」と、もっともな事を言われました。
そこで、確かに、三味線などはフレットないから耳と手が覚えてるもんなと思い、身体で覚えようとしましたが、やっぱり辛い。
だって、筝って弦と弦の間の幅が等間隔なんだよな~、実際の音程と実際の弦と弦の間の距離が一致しないんだよな~。
というわけで気持ち悪いです。

え?三味線だって、三本の弦の間の距離は等間隔だけど、音程は五度離れてたり、四度だったり、異なるのに気持ち悪くないのかと問われれば、三本程度の弦なら、真中の弦を基準に左右の弦が何度ずつ離れているかは覚えていられるよ。
だから、筝の弦がとりあえず、弦と弦の幅を変えられないのなら、せめて、弦を虹色にしてくれたら、見やすくて便利なのに、と思ったのでした。
自分の不器用さを置いといて、変なこと考えるなよってか(^^;

もし、虹色の弦があったら、私のような人には便利ですが、普通の人、あるいは視覚過敏のある人には目がちらちらして不便なのでしょう(汗)
もちろん、私も不規則に音に色を付けたら、目がチラチラして酔いますが、きちんと規則正しく、虹色配列にしてくれたらグラデーションの法則で次の音が何か分かるので大丈夫というわけなのです。