お芝居の中の三味線音楽

昨日(8月7日)、世田谷パブリックシアターで「『春琴』―谷崎潤一郎「春琴抄」「陰翳礼讃」より」というお芝居を観てきました。
初演は2008年らしいですが、何度も再演されています。

宣伝文句から簡単に引用すると、こういうお話↓

「幼いころに失明しながらも、三味線の指導者となる春琴と、彼女の衣食住すべてを献身的に世話する奉公人・佐助との究極の愛を描いた物語に、「陰翳礼讃」で谷崎潤一郎が描いた“陰翳のあやに存在する日本の美学”が織り込まれています。」

なんだけども、これじゃあ、谷崎の変態っぽさが伝わらないよねぇ。
原作は、マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義とかなんとかって説明されることが多いのでは?
私は原作、何回か読んでいますが、句読点や改行を大胆に省略した独自の文体が特徴でして、それがいい感じなんです(笑)。
原作のあらすじをお知りになりたい方は、ウィキでもご覧になるといいでしょう。

実は、私は谷崎小説に出てくる女性が結構好き。
文句なしで可愛いんだもん。
私が男なら、コロッと言っている可能性大。
この春琴さん、嗜虐的な女性で、佐助さんを蹴るわ、殴るわ…
そういう愛の形もあるのですわねぇ。

一緒に見に行った夫は「俺にそういう気質はないから、分かんねぇ」と言っていました。
まぁ、私の個人的な意見ですが、盲目の美女で三味線の名手である女師匠が殴るから、いいんであって、容姿一般、三味線の腕も一般の私が男性を殴ったら、ただの暴力でしょ。
美人はいいよね。

谷崎さんは足フェチだったのかな?
「こいさん(「こいとさん」の略、関西地方で、主家の末のお嬢さんを呼ぶ語)の足は小っこーて、わしの手のひらに乗るぐらいじゃった」というセリフを晩年の佐助が何度も繰り返し言ってます。

で、肝心の演出の感想を書かなくっちゃ。
そもそも何度もいろんな人が舞台化、映画化しているにもかかわらず、「この舞台」がどうしても見たかった理由の一。
本篠秀太郎先生が舞台で三味線弾くから、です。
単にこの舞台のために作曲して、バックで三味線を弾くっていうんじゃなくて、本篠先生も役者の一人なのです。
演出家サイモンマクバニーは、三味線が分解できるというのを知って、こりゃあ、面白い、ぜひ、組み立てるところから、舞台上でやってほしい、ということになって、舞台にひき上げられてしまったそうです。
本篠先生の過去のインタビュー記事(http://performingarts.jp/J/art_interview/0901/1.html)によれば、何度も舞台上で三味線組み立てるから、三味線傷みやすいし、余計な説明しなきゃよかったって思ったらしいですけどね。

私が何度も何度も「三味線の音、良かったなぁ~」と帰り道に言っていたら、夫は「ああいう三味線って味があっていいよね~津軽とは違うよね~」というものだから、思わずムッとして「津軽だって、しっとりした曲ぐらい、弾けるわい」と言い返してしまいましたわ(^^;

ちなみに専門的なことにちょっと触れると、春琴の世界は地唄三味線の世界なのですが、本篠先生は、端唄、民謡、現代三味線の方ですからね、厳密に言えば、音がちょっと違うわけです。
その点については、本篠先生も、私でいいんですかとマクバニ-に言ったそうです。
まぁ、それはそれ、舞台は舞台ということで、私は別に舞台上で地唄の定番曲聴きたいと思ってるわけじゃないんで、気にもしませんけどね。

舞台装置ですが、畳の使い方がうまいです。
畳を並べ替えて、お座敷になったかと思えば、ある時は畳が道に見えたり、お師匠さまのお家の廊下に見えたりします。

二時間くらいの舞台ですが、飽きが来なかったなぁ。
というのも、二時間、ずっと春琴の話ばかりだったら、飽きる人もいるかもしれない。
飽きなかったのは、この舞台そのものが、ある中年女性が、スタジオでラジオドラマ(春琴)の収録をしているという場面設定になっていて、彼女は春琴のストーリーテーラーであり、そのわきで、春琴が上演されている、というつくりになっているからです。
時折、ドラマ収録に休憩が入って、その際に、親子ほど年の離れた年下の彼氏に電話しながら、思わずクスリと笑えるセリフが飛び出すんです。
観劇の合間に、一人芝居(漫才?)見ているような感覚とでもいえばいいのでしょうか。

お芝居が終わった後、劇場を出る際
「全然、分からなかった」と言っているお客さんもいましたけども…
もしかすると、単に主演の深津絵里さんのファンだからとかいう理由で来ちゃっただけで、ストーリーそのものを知らなかったのかな?
う~ん、原作読んでから行く方がいいかもね。

そんなこんなで、素敵なお芝居でしたよ♪
みんなテレビがツマンナイって思ってるなら、たまにはお芝居も、いいですよ。
でも、お金がかかるんだよなぁ(笑)