先日、友人と上野の東京都美術館で「エル・グレコ展」を見にいきました。
エル・グレコ(注:エル・グレコ(本名ドメニコス・テオトコプーロス、1541~1614年)は16世紀から17世紀にかけてのスペイン美術の黄金時代に活躍し、ベラスケス、ゴヤとともにスペイン三大画家の一人に数えられる)の絵は、確かに何かを語りかけてくるものがありますね。
私に好きな画家を一人だけ挙げろと言われれば、残念ながらエル・グレコではないのですが、何人か挙げていいというなら、エル・グレコもランクイン間違いなしです。
さて、エル・グレコのどこがいいんだということになりますと、「見えるものと見えないもの」と題された第一章の第3 セクションのコーナーです。
本当に目に見えるもの(実在した人物)と、本来は目に見えるはずのないもの(そこにあると想像されるもの)のバランスが絶妙にいい。
考えてみれば、どんな宗教を信仰するかという違いを抜きにしても、本当に見えるもの、と空想上の(とされる)ものは、この世の中でいっぱい共生していると思うんですよ。
そこに花が一輪あったとして、視覚的には「花一輪」ですけど、甘い香りは確かに存在するし、光や温度、空気(?)というようなものも、そこにはあるはずで、場合によっては、花の精みたいなもんもそこにいると思いませんか?
視覚的には見えないものなのに、そこに確かにある(いる)と人に信じさせることができる、キャンバスの中にその存在をおしこめることができる画家って本当にすごいと思います。
さて、視覚だけではなく、聴覚にもそういうことはあると思います。
私の中国三弦の先生は、私がミスって音を抜かした時にこう言いました。
「心で歌ってさえいれば、実際は音が消えても、聴衆には聴こえるものなのだから、歌うのをやめるな!」
いやぁ、そんな、実際にはない音を聴衆に聴かせるだなんて、そりゃいくらなんでも無理でっせ。
最初は、そう思って心の中で笑ってました。
どうしようもない精神論だと思ってたんです。
でも、最近は、聴こえるはずのない音を聴かせることは、人によっては可能なんじゃないかと思うようになりました。
まぁ、私の演奏は今のところ、こんな芸当は無理ですが、現に聴こえないはずの音を鳴らせる演奏家は何人かいらっしゃるんですよね…
もっとも、私自身、人の演奏を聴くときに、時と場合によりますが、心を開いて素直に聴けるようになったということもあるんでしょうけど。
もちろん、耳を「技術だけを聴くモード」で、減点法で他人の音楽を聴けば、ミスしか気になりませんから、間違いなく「本当に鳴っている音」しか聴こえませんけど、楽しんで聴く音楽は、楽器の音以外のものも聴こえますよね?
何が聴こえるかは、聴く人の知識量やコンディション、演奏者との関係にもよるでしょうけどね。
そこが、ミスはないのにツマラナイ演奏と、ミスってる(あるいは技術的に劣っている)けど味のある演奏の分かれ目なのかなとも思います。
往々にして前者は、その余裕のなさがこっちにまで伝わってきて、こっちも緊張して疲れます。
また、音楽を聴いて情景が見えるというような、音なのに「視覚的なもの」を感じることは、よくドラマなどで表現されることがあって、多くの人がそういう経験をしたことがあると思います。
私は鼻が利くので、音楽に対しても匂いを感じます(笑)
陽だまりの匂いとか、海や湖や川の水の匂い、動物や植物の匂いとか。
あ、ニオイって「臭い」じゃないからね~「匂い」の方です。