二胡LESSON112

この日は前の生徒さんのレッスンがまだ終わっていなくて、待ちながらレッスンを拝聴しておりました。
小学生のお譲さんで、初級レベルという感じ。
のびのびと楽しそうに弾いていて本当に羨ましかったです。
もちろん、たまに音程狂ったりするんですが、悪いところはすぐ直せばいい、レッスン中に直りきらなかったら、お家で次までに練習してこればいい、そういう前向きな感じ。
「天真爛漫」でしたね。
付添いのお母さんも、レッスン終わるとお嬢さんを「よかったわよ」って褒めてあげてて、なんかむっちゃ羨ましかったです。
正直、死ぬほど羨ましかったです。
この歳になっても、人のお母さんを羨ましがってどうするって感じですが…

実際には、人間なのだから、好いところ、悪いところ、いろんな側面があると思うのです(それが個性でもあります)。
ただ、私みたいな性格の人というのは、仮に99の長所があったとしても1つの欠点があれば、1つの欠点だけがフォーカスされて認識されてしまい、本人的には99の長所が見えなくなります。
しんどいですね。
うちの親って、今もそうだけど、どんなに頑張っても褒めてくれないんだよね。
いや、おそらく、正確には、たまには褒めてくれたのだと思うけど、褒めるというより、かなり客観的に(人と比べて)淡々と長所と短所を言うので、私の脳には短所=人より劣っているダメダメな私、長所=他人だってできるのだから出来て当たり前、っていう図式になるのかもしれない。
他の誰とも比べずに、手放しで「素敵だったよ」「出来るようになってよかったね」的なそういう発想、うちの家族にはなかったと思う…

あと、大人になってからは、「仕事」というのは、「学習」と違って、「結果」だけがすべてですから、どんなに自分が頑張ろうが、意味ないんですよね。
一枚の文書がどんなに論理的にきちんとしていても、一つでも単純な誤字脱字があれば、他人の眼には「こんなところに気付かないなんて、不注意だ、信用できない奴だ」となるわけですからね。
誰だって、一生懸命仕事していると思うけど、その過程なんて、他人にとっては、どうでもよく、結果が付いてこなければ、無意味な努力です。
逆に、棚からボタモチの結果が付いてくることもあるかもしれず、それでもオッケーなわけで、運も実力のうち。

私にとって音楽は生計の手段でもないし、将来の生計の手段にもなり得ないと思うので、単純に楽しくやればいいのだろうけど、子供の頃から身についてしまった「欠点だけが増幅される目と耳」は、日々の練習や本番にも顔を出します。

音楽は時間芸術ですよね。
レコーディングでもない限り、基本的に後で修正なんて出来ません。
先生方だって舞台の上でしくじることもあるけど、瞬時に誤魔化すか、立て直しを図るわけです。
よく、「一か所、マズイところがあっても、それであなたのすべての演奏がダメと言うわけではない」と、先生方はおっしゃいますが、それは先生の他の技術や人間的、音楽的な魅力がミスを覆い隠してくれるからであって、これが世間の他のお仕事だったら、一か所ミスったら、すべてがダメで、場合によっては、努力とは関係なしに人間性まで否定されますよね(私の経験ですが…)。
そこがある意味、芸術に関するお仕事と、他のお仕事の違いなのかなとも思います。

だから、私はいつまでたっても、自分の音が好きになれないんですよね。
でも、こういう性格の大人に向かって、好い所だけフォーカスして「よかったよ」って言ってあげればいいのかっていうとそうでもないわけで、自分が全然出来てないのを知っているだけに、余計、むなしくなるという…

ある先生がおっしゃってたのですが、弾き方を教えるということが大変だから疲れるということもあるけど、いろんな人の感情に向き合うことになるので、それも疲れの一因だと…
そうだと思います。
弾くことを単純に教えているだけなら、そうは疲れないと思いますが、生徒さんに楽しく練習させて、上達させて、将来、一人でもやっていけるようにしてあげるには、その人の本質的なことに触れてしまうので、ちまたの産業カウンセラーよりも、カウンセリング的なお仕事をしているような気がしてなりません。

多分、私の心のドロドロ、モヤモヤした嫌な部分を一番よくご存じなのが、器楽の先生です。
親兄弟親戚、仲のいい友達、その誰一人として知らない一番醜い私の姿を見てしまっているのが、赤の他人である先生というのも、本当に気の毒な話だと思います(^^;

ダメな部分があっても、それは「学習過程」なのだから、仕方がないと諦めて、その代わり、将来の音を信じて練習すればいいということに尽きるわけですけどね。
普通、私のようなネガティブな思考をする人は、器楽を勉強するのが長続きしない筈なのですが、それでも続いているのが奇蹟だったりします。
ある意味、そんなに辛い思いをしてまでも「手に入れたい音色」に対する執着がすごいということなのですが…

そもそも、ピアノなどと違って、音を出すこと自体、音程を取ること自体、非常に難しい二胡という楽器を、音楽的な才能がないのにここまで続けてこられて、ある程度弾けるというだけで、スゴイことだと思うんだけど…
これ、ナナ先生の私に対する正直な感想だったりします。

伝統の継承と文化交流

金曜日の夜、孔子学院設立十周年、日中大学生京劇公演というのを学内の大劇場で見てきました。
日本側は、桜美林大学孔子学院、中国側は孔子学院総部という組織が取り仕切っている公演です。

実は中国語で、「京劇を『見て』きました(原文:看戯)」という表現は、京劇初心者の使う言葉で、ツウな人は「京劇を『聴いて』きました(原文:聴戯)」というものなのです。

というのは、どの国であれ、昔も今も、芝居のストーリーなんて、こう言っては何ですが、大差ないんですよね。
どれもこれも、愛情、忠義などがテーマで、典型的なお話なら、誰だって内容を知っているわけです。
でも、歌は誰が歌うか、誰が伴奏しているかで違ってくるから、何度も足を運ぶというわけで、京劇は見るのではなく、聴くもの。
(もちろん「見せる」ための京劇もありますけどね)

しかしながら、こういう文化交流を目的とした公演は、京劇を「聴かせる」のはもともと無理ですから、いかに演出を上手くやって、皆さんを楽しませるかが鍵となるのです。

ところどころ、「ありがと」「何ィ?」「さよなら」という誰でも知っている日本語を混ぜてコミカルに演じて、中国人のお客様を笑わせていました。
他には、演目的に、セリフや歌がほとんどない武術系の「立ち回り」を演ずることで、目を楽しませてくれました。
交流としては、素敵な公演でした。

最初に京劇を指導している先生も舞台挨拶でおっしゃっていましたが、中国語が母語でない学生が本気で京劇を歌うのはキツイのです。
実際、もちろん悪気はないのですが、お客さまも、笑うところじゃないところで、ちょっとクスってなるところがあったりして…
もちろん、バカにしているわけじゃなくて、例えるなら、言葉を話し始めた幼い我が子のお喋りに「カワイイ」って思わず口元が緩むノリに近いと思います。

中国語の漢字一つの発音にはまず、声調という音の抑揚があって、京劇の京音と標準語は基本的に一致しています。
音に直すと以下の4つのメロディです。
単音を繋げるのではなく、二胡などの弦楽器で、音を滑らせてそのまま滑らかに音程を移動させるイメージです。

1,ソーーー
2,ミーソー
3,レドファー
4,ソードー

つまり、「マー」をソソの音程で言えば、「媽(お母さん)」、ミソの音程なら「麻」、レドファの音程なら「馬」、ソドの音程なら「罵る」という漢字が思い浮かびます。

日本語の単語にも音の高低がありますが、それは、橋と箸の違いのように、三味線で一音ずつ弾く音程みたいなもので、その音程の幅は狭く、中国語みたいに、一つの意味の塊の発音が滑らかに5度も離れるとかはありません。

そういう意味では、そもそも、中国語というのは、短い日常会話であったとしても、外国人が話すと、すんごい音痴なのです。
その点、外国人の話す日本語の日常会話を日本人が聞いても、音痴(音程が狂っている)だとは、あまり思いませんよね。

京劇の歌というのは、本来、歌のメロディと漢字の発音の調子が統一されていて、それが一致しないことを「倒字」と言い、ご法度とされています。
なぜなら、そうなると、聴衆には聴いても分からないという現象が起こるから。
現代の人は、ツウでもない限り、字幕を見ないと歌の意味が分からないと言いますが、昔の人は「倒字」でなければ、分かったということなんですね。

最近では、若い世代にも分かりやすい現代語で芝居を創ろうとか、外国人に分かるように、英語で芝居を創ろうとか、新たな試みも盛んです。
でも、「倒字」をきちんと分かっていない人が創作すると、京劇の味が消えることになります。
それで、分かりやすいならまだしも、中国人のツウな人でも字幕なしでは何言ってるのか分からないという変な作品ができることも…恐ろしや

昔の作品の味を大切にしながらも、現代人や外国人にも分かってもらうというのは、本当に大変なことなのです。
分かってもらう必要もない、という考え方もあるかもしれませんが、古いものをただ守り通すだけでは、いつか化石になっちゃうし、それでいいの?
だから、文化交流とか普及とかのために、古いものも変容せざるを得ないのだけれども、本質を変えずに、変化させて、お客様にも喜んでもらう…そういう演出というのは、とても大変なお仕事だと思うのです。

存在する筈の音を消せる

【前回からの続き】

私の脳は、物理的に存在する筈のない音まで補充してくれるのだったら(前回のミッシングファンダメンタル)、ある意味、脳はおりこうさんなんじゃないの?って言う方向に考えてくださる人もいるかと思います。
でも、私の脳は人の話し声をちゃんと聴きとってくれないことがあります…
ちなみに私は物理的な音が聴き取りづらい難聴ではありません。
年相応の周波数帯の音はきちんと聞こえています。

例えば、この音源
http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/a/bandLimitedSpeech/ja/index.html

このデモは、非常に狭い周波数帯域(1/3オクターブ幅)だけを残し、他の周波数成分を除去したものらしいです。
さらに、バックに弱い広帯域雑音を加えてあって、それぞれ、残した帯域の中心周波数が違うだけ。
「いずれも、内容は十分聞き取れるのではないか」と研究者は言っていますが、私は、全然、聴き取れないよ…
だから、外で携帯電話を受けると、片耳ふさいで、静かな所へ行かないと聴こえないわけだよね。
雑音が大きすぎ(泣)

次の音源はもともと、人工内耳装用者の聞こえ方を模擬するために開発されましたものらしいです。音声が劣化しているわけですが、私にはかなりキツイというか、分かんないですヨ。

http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/a/noise_vocodedSpeech/ja/index.html

私の耳は、音そのものは聴こえているし、ピッチを手掛かりにして聴こえない音まで想像できるくせに(ミッシングファンダメンタル)、雑音下では、音を意味のある「言語」として捉える能力が弱いのかも。
まぁ、パーティ会場で、隣にいる人以外と話すの苦手なのはそういうわけでしょう。

あ、でも、語学の試験のスコアは、試験会場が普通に静かであれば、リスニングが割といいんです。
HSKという英語でいうTOEFLみたいな試験があるのですが、今の試験はどうか知らないですけど、昔、レベルの高い試験を受けた際、アナウンサーみたいな会話のやり取りではなく、ワザと雑踏で普通の人にインタビューするというリスニング問題が一問ぐらいありました。
多少のなまりや、俗語みたいなのを聴きとって欲しいという意図は分かりますが、母語でも聴き取れないものが、聴こえるわけないだろ(怒!)
模擬試験を何度かやれば、回答者に何を答えさせたいのか、試験のパターンが分かるので、推測するしかないですよね。

よく入試会場で雑音や機械の不備で、やり直しが問題になりますが、この気持ちはちょっと分かりますね。
大多数の人が少しくらいの雑音なら言語の聴き取りに問題ないと思いますが、発達の仕方が大多数の子とちょっと異なるお子さんですと、特に入試などのヒッカケ問題があるような(日常的には想像しづらいようなワザと間違いを導くような言い回しが多い)リスニングの試験に雑音はキツイんじゃないかと想像するのであります。

大多数の人は、そこに存在する音(雑音)を無かったことにする能力に長けているということを自覚していません。
聴き取りづらい人は、生まれた時からそうなのだから、自分の耳が難聴だと勘違いしている可能性もあります。

ところで、私の場合、例外がありまして、私は集中していればどんな大きな音も聞えません…
もう、人から何て都合のいい耳なんだと言われても仕方ないんですけど、本当に集中して何かをしていると、電話が鳴っても知らないということは大いにあり得ます。
一心不乱に弾いてる時に、誰かが部屋に入ってくると、飛び上って驚きます…
もっとも、友達は、何度もノックしたとか、声かけたって言うので、その通りなのだと思います。
論文書いていた時に、「何で部屋にいるくせに電話に出ないの?」と友人に聞かれたことも。
もっとも、外のオフィスで仕事をすれば、普通に電話に出ると思うけど、ある意味、仕事を本気でしていないからできるのであります(いいんだか、悪いんだか?)
電話の呼び出し音の音量を上げると、天井まで飛び上るほどビックリする羽目になるし、かといって、心地よいメロディだと、集中しすぎている時は、背景の雑音と同じで、気付かないかも。

聴覚だけクローズアップしてみも、期待どおりの錯聴が現れない人、現れる人がいるのですから、視覚や触覚などの他の感覚でもそうなのだと思います。
自分が存在しているこの世界は、実は自分に見えたように、聞こえたように、感じたような姿をしていないという…

参考ウェブサイト:イリュージョンフォーラム(錯覚の情報を集めたウェブサイト)

http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/index.html