伝統の継承と文化交流

金曜日の夜、孔子学院設立十周年、日中大学生京劇公演というのを学内の大劇場で見てきました。
日本側は、桜美林大学孔子学院、中国側は孔子学院総部という組織が取り仕切っている公演です。

実は中国語で、「京劇を『見て』きました(原文:看戯)」という表現は、京劇初心者の使う言葉で、ツウな人は「京劇を『聴いて』きました(原文:聴戯)」というものなのです。

というのは、どの国であれ、昔も今も、芝居のストーリーなんて、こう言っては何ですが、大差ないんですよね。
どれもこれも、愛情、忠義などがテーマで、典型的なお話なら、誰だって内容を知っているわけです。
でも、歌は誰が歌うか、誰が伴奏しているかで違ってくるから、何度も足を運ぶというわけで、京劇は見るのではなく、聴くもの。
(もちろん「見せる」ための京劇もありますけどね)

しかしながら、こういう文化交流を目的とした公演は、京劇を「聴かせる」のはもともと無理ですから、いかに演出を上手くやって、皆さんを楽しませるかが鍵となるのです。

ところどころ、「ありがと」「何ィ?」「さよなら」という誰でも知っている日本語を混ぜてコミカルに演じて、中国人のお客様を笑わせていました。
他には、演目的に、セリフや歌がほとんどない武術系の「立ち回り」を演ずることで、目を楽しませてくれました。
交流としては、素敵な公演でした。

最初に京劇を指導している先生も舞台挨拶でおっしゃっていましたが、中国語が母語でない学生が本気で京劇を歌うのはキツイのです。
実際、もちろん悪気はないのですが、お客さまも、笑うところじゃないところで、ちょっとクスってなるところがあったりして…
もちろん、バカにしているわけじゃなくて、例えるなら、言葉を話し始めた幼い我が子のお喋りに「カワイイ」って思わず口元が緩むノリに近いと思います。

中国語の漢字一つの発音にはまず、声調という音の抑揚があって、京劇の京音と標準語は基本的に一致しています。
音に直すと以下の4つのメロディです。
単音を繋げるのではなく、二胡などの弦楽器で、音を滑らせてそのまま滑らかに音程を移動させるイメージです。

1,ソーーー
2,ミーソー
3,レドファー
4,ソードー

つまり、「マー」をソソの音程で言えば、「媽(お母さん)」、ミソの音程なら「麻」、レドファの音程なら「馬」、ソドの音程なら「罵る」という漢字が思い浮かびます。

日本語の単語にも音の高低がありますが、それは、橋と箸の違いのように、三味線で一音ずつ弾く音程みたいなもので、その音程の幅は狭く、中国語みたいに、一つの意味の塊の発音が滑らかに5度も離れるとかはありません。

そういう意味では、そもそも、中国語というのは、短い日常会話であったとしても、外国人が話すと、すんごい音痴なのです。
その点、外国人の話す日本語の日常会話を日本人が聞いても、音痴(音程が狂っている)だとは、あまり思いませんよね。

京劇の歌というのは、本来、歌のメロディと漢字の発音の調子が統一されていて、それが一致しないことを「倒字」と言い、ご法度とされています。
なぜなら、そうなると、聴衆には聴いても分からないという現象が起こるから。
現代の人は、ツウでもない限り、字幕を見ないと歌の意味が分からないと言いますが、昔の人は「倒字」でなければ、分かったということなんですね。

最近では、若い世代にも分かりやすい現代語で芝居を創ろうとか、外国人に分かるように、英語で芝居を創ろうとか、新たな試みも盛んです。
でも、「倒字」をきちんと分かっていない人が創作すると、京劇の味が消えることになります。
それで、分かりやすいならまだしも、中国人のツウな人でも字幕なしでは何言ってるのか分からないという変な作品ができることも…恐ろしや

昔の作品の味を大切にしながらも、現代人や外国人にも分かってもらうというのは、本当に大変なことなのです。
分かってもらう必要もない、という考え方もあるかもしれませんが、古いものをただ守り通すだけでは、いつか化石になっちゃうし、それでいいの?
だから、文化交流とか普及とかのために、古いものも変容せざるを得ないのだけれども、本質を変えずに、変化させて、お客様にも喜んでもらう…そういう演出というのは、とても大変なお仕事だと思うのです。