振動を聴く

先日、聴力の話をした続きです。

私の耳は雑音が聞こえすぎて、肝心のききたい音が聴こえない難聴の傾向があるという話をしました。
特に騒がしい場所では、声が雑音に負け、高音が低音に紛れるという…

今まで、ピアノの一番右のドとかシなんて触れたこともなかったので、試しにピアノの一番高い音域を弾いてみました。
あ、静かなところでは、ちゃんと高低分かるやん…と思いました。
やっぱ、聴音の訓練足りないだけなのね。
でも、あえて言えば、ピアノの鍵盤を叩く音そのものの音が邪魔やな。
分かります?
高音域はハンマーがピアノ線を叩く音より、鍵盤が下がる時に出る音の方が気になるってことです(^_^;)

あくまで仮説ですが、私、普通にしていると、主としてきくべき音の周波数が大多数の人のそれとズレとるんかも…。
普通は(大多数の人が)どう聞こえるのか体験のしようがないから、取り越し苦労かもしんないけどさ〜。

うーん…だから、プロの人のCDでも、ヘッドホンとかで真剣に聞くと、今、何処かに指が当たったんじゃないかとか、反響が変な部屋で録音してるなぁとか、どうでもいい音が気になってたのでしょうか?
やな奴ですよね…人の粗探ししてるみたいで。

ちなみに、低音が聞こえないタイプの難聴の人もいて、ピアノの最低音がまったく聞こえない人もいるときいたことがあります。
実際、そういう方でも、音楽をやってる人はいるんですよね。
どうしてるのかと問えば、指に伝わる振動の触感を頼りに、音程が正しいかどうか判断しているのだそうです。
すごいっ*\(^o^)/*

二胡なんて、素人は第三ポジションくらいまで正確に聞き取れていれば問題ないので、普段は問題ないのですが、ものすごい下の方の高音域は、私には分かりづらい。
でも、最後の手段として、自分は聞こえづらくても、クリアに聞こえているような顔して、身体に伝わる振動で判断できりゃいいのよね〜。
…ってその域に達するのは大変なんだろうけど。

振動と言えば…実はつい最近まで、自分が弾いてる時に音の振動というものを身体が感じたことありませんでした。
三弦の先生を替わってから、力を抜くことを多少なりとも覚えたせいか、はじめて棹がこんなに振動しているんだということに気づきました。
もっとも、数秒後にはまた力入っちゃって、全然感じられないんですけどね。
上手く鳴った時は、自分の声を聴いてるのと同じ感じがします。
身体の外部からの通常の音と、内側からの振動音の両方聞こえるっていうの?
楽器というものが、自分の身体の一部だと思えるってそういうことですか?
これもまた、大多数の先生がどういう風に自分の音が聞こえているのか、私の身体で体験のしようがないので、実際のところ、分からないのよね…

色好きな人々(!?)

津軽三味線の「津軽よされ節」が、何度弾いても覚えられません。
歌詞の「あぁ~」とか、「いぃ~」が長すぎて、音がこれから下がるんだったか、上がるんだったか忘れてしまいます。
同じ理由で「本荘追分」もいまだに譜面見ないと弾けない。
別にこれが一週間に数回、30分程度テキトーにお稽古してるのなら、覚えられなくても、他人は理解してくれそうですが、私、毎日、何十回も聴いて、何十回も弾いてるのよ(^◇^;)
ひよこ頭にも程が…。
(人によっては、私の高学歴とこんなことも覚えられないことが結びつかなくて、練習してないんじゃないかと勘違いされて哀しい…)
もう、音符だけ丸暗記したらええやんと思い、そうしようと思っても、似たような伴奏の繰り返しなので、サッパリ…
「春は桜の弘前に…」という部分以外、歌詞も全く覚えられないので、風景すら脳内で途切れ途切れ。

「津軽小原節」は何で覚えられたかって?
この唄は、歌詞がメロディにきちんと乗っかってるから聴けば覚えられるし、数々の忘れそうな怪しいところは、歌詞に基づいて、脳内に映像が流れるからなのです。
だって、これ、可愛らしい恋の物語じゃないですか。
私の脳内には、いつも真夏の夜に、師匠と奥様が手をつないで踊っているところが浮かぶのです。
ネタにしようと思ってわざと書いているのではなく、師匠が唄いながら弾いたのを録音して、何遍も聴いたことと、師匠と奥様が仲良しなのを見慣れているので、必然的に、そのイメージが湧いて出てきて止まらんだけですヽ(´o`;

私の場合、もともと、譜面見るの苦手で、耳が覚えた後でないと譜面見づらいんですよね。
数字って苦手なんです;^_^A
6と9のツボがあるとすると…もちろん、いくら、ひよこ頭な私でも、6と9では9の方が大きいと知ってます。
大きいのだから、棹の下へ(すなわち高音になる)のはいいのですが、三の糸の6がミで、9がソなら、二の糸の9って、実音はドじゃん…。
私の脳内では、「なんで急に6がミで9がドなの???うぉぉ混乱!(◎_◎;)」
となります…
これは、私が簡譜という中国の数字譜を見慣れているせいも悪影響を及ぼしているのでしょうね。
つまり1234567がドレミファソラシなので…数字見るとその数字の音高が思い浮かぶのに、三味線の棹の上の実音は全く違うわけだから。
五線譜ならビジュアル的に波形を脳内再生すればいいんですがね。
だから、音の流れをツボの番号などではイメージできない。
かと言って、何度聞いても歌詞が分からないから、メロディも記憶できない。
大多数の人は、頭が忘れても手が位置を覚えてるんですよね、多分…。

そこで、考えついた私だけのための究極の暗譜方法!
譜面に色をつけちゃるわいっ!
耳で覚えられないというのなら、色のグラデーションで覚えてみようかと…
別に私は色聴ではないので、ピッチに基づいて色が浮かぶわけではないのですが、相対音感に基づく色の割り当てです。
つまり、ド(赤)レ(橙)ミ(黄)ファ(緑)ソ(青)ラ(紫)シ(赤紫)そしてド(赤)に戻るみたいに音と色のグラデーションが一致していれば、色の仕組み的にどっちに行くかを見れば次は上がるのか下がるのか一目瞭然というわけなのです。
(お絵かき好きとか美術関係の人なら分かりますよね?この循環法則)
私以外の人は、目がチラチラしちゃって嫌かもねぇ。
写真は、師匠のよされの文化譜で、フリクションの赤で書きこまれた数字は私の脳内で再生されるメロディの数字譜。
色は相対音階に基づくグラデーション…

余談ですが、私、トンボの色辞典という90種類の色鉛筆を東京の家に持ってます。
あまり使ってないけど、眺めるのが楽しい^_^
それは今、手元にないので、普通の色鉛筆でしか色つけられないなぁ…
亡き叔父がプラスティックの加工職人をしていて、プラスティック板の色見本を大量に持ってましたが、綺麗ですよねぇ。遊びに行くたびに、それを持ち出して眺めました。
そういえば、私の二胡のナナ先生も30色入りとかのペンを何セットもメーカー違いでやたらもっているのです。
日本製の無印良品のペンや消えるボールペンのフリクションのセットも持ってました。
机の引き出しの中に、一つや二つではなく、わんさかと…
これは、もはや、実用のためではなく、観るためですよね。
三味線の師匠も、フリクションの水色とか紫で譜面に注意書きしてくれるので、普通じゃないなぁ、変わってるなぁと思います。
事務的に使用する人は赤黒青のほかはあまり使わないでしょ、そんな変な色(^^;
この間、師匠に「見当たらないから、もしかして、自分のと間違えって持って帰ってないよねぇ?」と聞かれましたので、適当にその色を使っているのではなく、よほど気に入ってるんでしょうねぇ。

というわけで、みんな、色好き(って、なんか変な意味に取れそうな…)。
*・゜゚・*:.。..。.:*・’(*゚▽゚*)’・*:.。. .。.:*・゜゚・*
yosareiro

二胡LESSON109

「賽馬」は相変わらず、モタモタと走りつづけています。
前回のレッスンで表情をつけてみましょうということになり、弓をどこまでの長さ使って、弓の速度をどう変えて等コントロールするということを実行しようとすると、ブツ切れになってしまうのでありました。
「調子良く弾いてたのに、なんで途中で止まって弾き直すわけ?」
「だ、だって、心で思った通りの音になってないから、つい…」
「先日も言ったと思うけど、人前では、どんな音が出てこようとも最後まで弾きなさい」
「…はい」

うぅぅ、素人の腕では、思い通りには鳴らないものですね。
もっとも、だから、ライブや音楽教室というビジネスが成り立つわけですが^_^;

それから、前に少し習ってしばらく寝かせてあった「春詩」というのを引き続きやってます。
これは、ハ長調の曲で、ラスト以外はいかにも春うららという感じのゆったりした曲です。
「賽馬」と異なりゆっくりなので、並行してやって行くことになっています。
ゆっくりだから、音を取ること自体は難しくないのですよね。
実際、ナナ先生も「音符を弾いてることについては、大きな問題ない」と言ってくださいました。
問題は…この曲らしさ、すなわち、音と音の繋がりの滑る音の処理です。
滑音、好きなわりには下手なのよね^_^;
ナナ先生と一緒に何度も滑音を弾きました。
滑音って、本当に奏者の味が染み出てくるような…

それから、弓の使い方を気をつけるように言われました。
この手の曲の処理は、弓を同じ速度で左右に均等に割り振って弾くだけだと超ツマラナイ演奏になるので、出だしで弓の使い惜しみをして残しておき、後半でぐわっと弓を使い切るとユラユラ水のような流れが出来るのよと教えてもらいました。
確かに、ナナ先生と弾くと、水上で舟遊びしているような気になりました。

【余談】
この日はナナ先生、弾くお仕事から帰ってきたばかりでした。
お仕事内容は北京の日本人学校での演奏会だったそうです。
「茉莉花を日本語と中国語で歌ってくれたりして、子供って可愛いわよね〜」と言ってました。
そういえば、ナナ先生は音大付属や音大受験生を教えているほか、ごくごく普通に教養として二胡を習っている子供にも教えているので、どういう風に教えてるのって聞いてみました。
答えはすっごく意外。

「別に区別なんてしてないわよ」

つまるところ、技術とか、練習方法について教えることは同じなのだそうです。
違いは、それについて、学習者がどこまで早くマスター出来るかは、その学習者の資質や練習時間に左右されるので、そこらへんの進度が違うだけとのこと。
早くマスターできなければ、ゆっくり進むだけで、趣味でやってても、音大付属受験生顔負けの天賦に恵まれた子なんかに対しては、どんどん進めていくということだそうです。
なるほどね〜
ナナ先生はお年寄りには教えていないようなので、それでもいけちゃうのかもね。
学習者がかなりのご高齢であれば、いつお迎えがくるか分からないから、生きてるうちにある程度妥協して、すぐに適当に弾けるようにしてあげるという配慮はいると思います。
でも、そうでなければ、皆、一緒ですか…。
もしかすると、ナナ先生の長期の生徒の中では、私が最高齢なのかもしれません。
ご本人曰く、わりと保護者に感謝されることが多いらしく、私もナナ先生は、教えることに向いている人だと思います。

普通の才能ある人は、自分は無意識にうまく弾けるけど、自分のやってることを相手にさせることができなかったりするものだけどね。
特に、3、4歳からやらされてきた人は、語学で例えると、母語を学ぶように自然に技術を身につけるので、文法(弾き方)をうまく語れなかったりするんだけどなぁ…。
子供の頃、神童とか天才と呼ばれたことのある人、優秀だった人って、先生としてどうなのって、私はすぐに疑う方です。
自分がわりと簡単にできちゃった事は、なかなか人に教えられないのが常です。
でも、弾く方も魅力的で、教える方も上手いタイプの人もいるのですよ。
ズルイよね、神は二物を与えずどころか、二物も三物も与えるものです、ほんと。(亡き父がよくそう言ってました^_^;)

おそらく、ナナ先生の先生が教育に熱心で、自分の教学経験をあれこれ、ナナ先生に語ったことと、ナナ先生ご自身、十代前半から、人に教えていたから、簡単に出来ない人のケースのバリエーションをたくさん知ってるからでしょうね。