「賽馬」は相変わらず、モタモタと走りつづけています。
前回のレッスンで表情をつけてみましょうということになり、弓をどこまでの長さ使って、弓の速度をどう変えて等コントロールするということを実行しようとすると、ブツ切れになってしまうのでありました。
「調子良く弾いてたのに、なんで途中で止まって弾き直すわけ?」
「だ、だって、心で思った通りの音になってないから、つい…」
「先日も言ったと思うけど、人前では、どんな音が出てこようとも最後まで弾きなさい」
「…はい」
うぅぅ、素人の腕では、思い通りには鳴らないものですね。
もっとも、だから、ライブや音楽教室というビジネスが成り立つわけですが^_^;
それから、前に少し習ってしばらく寝かせてあった「春詩」というのを引き続きやってます。
これは、ハ長調の曲で、ラスト以外はいかにも春うららという感じのゆったりした曲です。
「賽馬」と異なりゆっくりなので、並行してやって行くことになっています。
ゆっくりだから、音を取ること自体は難しくないのですよね。
実際、ナナ先生も「音符を弾いてることについては、大きな問題ない」と言ってくださいました。
問題は…この曲らしさ、すなわち、音と音の繋がりの滑る音の処理です。
滑音、好きなわりには下手なのよね^_^;
ナナ先生と一緒に何度も滑音を弾きました。
滑音って、本当に奏者の味が染み出てくるような…
それから、弓の使い方を気をつけるように言われました。
この手の曲の処理は、弓を同じ速度で左右に均等に割り振って弾くだけだと超ツマラナイ演奏になるので、出だしで弓の使い惜しみをして残しておき、後半でぐわっと弓を使い切るとユラユラ水のような流れが出来るのよと教えてもらいました。
確かに、ナナ先生と弾くと、水上で舟遊びしているような気になりました。
【余談】
この日はナナ先生、弾くお仕事から帰ってきたばかりでした。
お仕事内容は北京の日本人学校での演奏会だったそうです。
「茉莉花を日本語と中国語で歌ってくれたりして、子供って可愛いわよね〜」と言ってました。
そういえば、ナナ先生は音大付属や音大受験生を教えているほか、ごくごく普通に教養として二胡を習っている子供にも教えているので、どういう風に教えてるのって聞いてみました。
答えはすっごく意外。
「別に区別なんてしてないわよ」
つまるところ、技術とか、練習方法について教えることは同じなのだそうです。
違いは、それについて、学習者がどこまで早くマスター出来るかは、その学習者の資質や練習時間に左右されるので、そこらへんの進度が違うだけとのこと。
早くマスターできなければ、ゆっくり進むだけで、趣味でやってても、音大付属受験生顔負けの天賦に恵まれた子なんかに対しては、どんどん進めていくということだそうです。
なるほどね〜
ナナ先生はお年寄りには教えていないようなので、それでもいけちゃうのかもね。
学習者がかなりのご高齢であれば、いつお迎えがくるか分からないから、生きてるうちにある程度妥協して、すぐに適当に弾けるようにしてあげるという配慮はいると思います。
でも、そうでなければ、皆、一緒ですか…。
もしかすると、ナナ先生の長期の生徒の中では、私が最高齢なのかもしれません。
ご本人曰く、わりと保護者に感謝されることが多いらしく、私もナナ先生は、教えることに向いている人だと思います。
普通の才能ある人は、自分は無意識にうまく弾けるけど、自分のやってることを相手にさせることができなかったりするものだけどね。
特に、3、4歳からやらされてきた人は、語学で例えると、母語を学ぶように自然に技術を身につけるので、文法(弾き方)をうまく語れなかったりするんだけどなぁ…。
子供の頃、神童とか天才と呼ばれたことのある人、優秀だった人って、先生としてどうなのって、私はすぐに疑う方です。
自分がわりと簡単にできちゃった事は、なかなか人に教えられないのが常です。
でも、弾く方も魅力的で、教える方も上手いタイプの人もいるのですよ。
ズルイよね、神は二物を与えずどころか、二物も三物も与えるものです、ほんと。(亡き父がよくそう言ってました^_^;)
おそらく、ナナ先生の先生が教育に熱心で、自分の教学経験をあれこれ、ナナ先生に語ったことと、ナナ先生ご自身、十代前半から、人に教えていたから、簡単に出来ない人のケースのバリエーションをたくさん知ってるからでしょうね。