二胡LESSON111

「春詩」の引子(曲の導入部分)を曲らしく仕上げようという作業をしました。
この引子は散板(中国の音楽用語で、ゆっくりした速度、不規則な自由なテンポ。伝統器楽、伝統劇音楽などの出だしや終わりによく使われる)なので、それこそ、ちまたの先生方のCD聴くと、皆さん、処理の仕方が違います(笑)
ナナ先生がいうには「民族音楽の引子って、いくら自由に弾けって書いてあっても、譜面の枠から外れていいわけないし、そこが下手くそだと、もう、曲全体も最後まで聴けたものじゃないのよね…」
た…確かに。
ここで、人を引き付けるだけの配慮と腕がなければ、誰も最後まで聴きたいとは思わないでしょう。
譜面上では、同じ32分音符が並んでいるだけの部分も、機械的に同じ長さで弾けばいいのかと言うとそうではなく、前後のバランスを見て変えなくてはならない(つまり、音の長さの対比が明確になるように調整する)。後に続く音が長い音符なら、その一つ前の音も、長めになるとか、そういう構造的な話をしてくださいました。

そういう、譜面に書いていないお約束みたいなものをある程度知った上で、先生方の音源聴くと、確かに皆さん、全体的にみたら、み~んな違う弾き方してるけど、原則は同じかも。例えるなら、皆さん、中国語で書かれた台本をお読みになっているので、文法は基本的に同じで、音声も同じだけど、音質と喋り方の癖は人それぞれ違うでしょう?ってことだと思います。
よく留学生が、自国でばっちり外国語を習ってきて成績も優秀だったのに、現地に来た途端、学生(特に若い子)が何言ってるのか分からない、喋れないと言いますが、当然ですヨ、だって、誰も教科書通りに喋る筈ないでしょ~
これと同じで、散板も、ある程度、規則を知ってて、経験つむしかないのかもしれないんだよなぁ…と思います。
京劇とかの譜面みると、最後が「散板」とかになってて、もう、何拍子なのかも分かんないメロディーが畳みかけるように続いたりしますが、分かる人には分かるわけで…
分からない人には分からないんですよ(^^;
何でって?
ある意味、音楽は「言葉」だからだと私は思うからです。
soundとして聞いている分には、どの国の人だろうが、な~んとなくノリは分かります。
でも、文法知らないと、何言ってるのか本当には分からない。
もっと言えば、文法知ってても、その国の習慣を知らなければ、言葉を額面通りに受け取るだけで、言葉の裏の意味が分からない。
これは、外国音楽にかかわらず、日本の昔の音楽なんかもそうだと思うんだよね。
特殊な家に生まれない限り、西洋音楽から外れた音楽を聴く機会は少ないわけで…
普通の家庭に育った人が、いきなり長唄とか、民謡とか聴いても通常は面白くもなんともないと思うんですが(^^;
異国の言葉を知らないので、soundとして聴くよりほかないワケだから…
そんなの、風の音が聞こえる、水流の音が聞こえるという自然音と全く同じですよね。
癒されるわぁ~でお終い(それはそれでいいけどね)。
コミュニケーションが成り立たないというか…。

誤解があるといけないので、ちょっと付け足しますね。
上記は私が、そう思っているということで、私の先生がどう思っているかは知りません。
私は民族音楽に新しいものを加えることに、反感を持っているわけでもありません。
民族楽器を手に取るなら、ちゃんと深いところまで習えよみたいに偉そうなことを人に押し付ける気も全くありません。
日本人らしい外国民族音楽の弾き方があってもいいと思います。
でも、私としては、それは別ジャンルだと思っています。
別ジャンルだけやる人がいてもいいし、その国(地域)の文化にこだわる人がいてもいいし、両方やってる(食うためにやらざるを得ない?)人もいますよね。
それは、人の好き好きと事情によるものでしょう。
私は今のところ、自分ができるかどうかにかかわらず、原型は知っておきたい人なんです。でも、私にどの楽器持たせても、変な音って言われてるんだよなぁ…(^^;
それって、私が日本人がどうこうという異文化問題の前に、単に音楽の資質の問題かもしれないけど…
先生って正直ね…

【余談】
先週はお休みしました。
サボったのではなく、私が週末に熱出してひっくり返り、月曜日にレッスンしてもらう予定が、今度はナナ先生のお友達が薬でアレルギー起こして(アレルギーってショック死おこすから、ホント怖いんだよね)、ひっくり返り、病院やらなんやらで、お互いに時間の調整が付きませんでした。

さて、師走ですが、そろそろ、「いつから冬休み?」「いつから、いつまで日本に帰るの?」という話になります。
まだ、エアチケット買っていませんが、遅くとも一月中旬から、二月中旬まで日本に帰ります。
多分、日本の先生もそうだと思うけど、この業界の人って、年末年始、弾くお仕事がいっぱい入ってくるので、忙しいんですよね。
「12月最後の週は公演の予定が詰まっているので、レッスンしてあげられない」と言われました。
まぁ、そうだろうな…と予想つく話なので、ふんふんと聞いていたら、「でもなぁ、あなた、もうすぐ帰っちゃうわけだし、今、手を付けている曲が完成している訳じゃないし、私としては、今学期、もうちょっと先まで行けると踏んでいたんだよね…ちょうど、あなた自身の心理状態もいいし、この時機逃さずに、もうワンステップ前に行って欲しいから、今週、来週は週に二回レッスンできないかなぁ」と…
おぉ~
せ…先生、熱心すぎて、涙でてきました(T_T)
もっとも、ここは中国、大多数の人がわりと行き当たりばったり的な予定の組み方で日常を過ごしているので(特にお若い方は、年配の人の予定を優先させないといけないので、なお、予定がたたない傾向有)、確実に後4回レッスンできるかどうか分からないけど、そういうつもりで年末、突っ走ろう、4回も無理だったら、残った分は、冬休みの宿題ということで…という予定になりました。

二胡LESSON110

110回目のレッスンという意味で二胡LESSON110と書いているのに、「110」ってイメージとして「110番」→「たすけて~」→「おっしゃ、二胡の技術向上に困っているあなたへ何かアドバイスしましょう」って感じに見えて、一人で笑ってしまいました(^^;

「賽馬」ですが、速く弾くところの難関は、やっぱりここでしょうね。
96、97小節目の
ドレレミソラドラソミソミレドミラ~

難点はミの推弓、速く弾こうと思えば思うほど、弓を短くしか使えず、音が短く(あるいは弱く)かすりがち。
このミの立ち位置ですが、アクセントが付いたっておかしくないところなので、ナナ先生曰く「気持的に恐れず、これでもかというぐらい誇張するつもりで弾いて、他の音と同じちょうどいいバランス」なのだそう。
メトロノーム持ってきて、ゆっくり目のスピードから、とにかくミが他の音に埋もれないようにということを心がけて練習するしかないようです。
ゆっくりなら、ミの音ちゃんと出るんですけどね…
実際、このフレーズ、プロだってスピードで誤魔化して、適当に弾いている人多いですからね…(ライブはノリとかよければ、お客さんも気付かないかもしれないけど、媒体に固定された音楽などは再生すると、素人だって結構気付くと思うのですが…)
例えるなら、パチンコ玉と落石の違いかも。
上手い人は、パチンコ玉がじゃらじゃら~んって出てくる感じかもなぁ(私はパチンコしないけど、子供の頃、亡き父に連れられて行ったことがある。耳が痛くなる最悪の環境…)。どんなに沢山の玉が豪快に降っても、音の粒そのものはそろってますよね。私の場合は、山の上から不揃いの石が転がって来て、バラバラバラ~、あぶねぇよ(^^;

「春詩」の方はというと、まぁ、練習不足。
これの嫌らしいところは、指使いが変則的なので、普通に、第一、第二、第三ポジションへの規則的な移動とはいかなくて、音を捜しに行く時の距離がつかみにくい。
救いなのは、滑音を多用している曲なので、あ、音程ヤバいかもと思ったら、指を滑らせて音を正しい位置にもどしても、不自然さがないというところか(^^;

【余談】
先日、ナナ先生は子供中心に教えていて、成人に教えているのは少ないかもという話をしました。
でも、前は結構、頼まれて、教えていたんですって。
カルチャーセンターみたいなところで、大人向けのレッスン頼まれた時は、大人は2,3回ですぐに来なくなるから、もうあまり引き受けたくないんだとか。
時間とお金の無駄の繰り返しが信じられないと言ってました。
すっぽかされると、ナナ先生は自分の時間を無駄にされるので、耐えきれないとも…。それと、前回言った注意を、大人は思いっきり忘れられちゃうのが哀しいとも言ってましたね。
大人は上達しないとすぐに諦めちゃいますからね…
私は自分が不器用ですぐに上手くならない人なので、そういう大人の気持ちはよく分かるんだけどねぇ。
ついでにいうと、大人は本業あるから、儲けにならないことに夢中になって練習するわけにいかないじゃない?
周囲が許してくれないよ、普通。

ナナ先生が言うには、日本人は基本的に真面目に通ってくるっていうイメージがあるんだそうです(私以外の日本人社会人に教えていた時期もある)。
私も日本の二胡学習者のことよく知らないけど、多分、1:1でひたすら技術向上のために通い続ける人はもちろん、長く通い続けるのでしょうね。
そうでなくて、もう少し進歩は遅くてもいいから皆と楽しくやりたいというタイプの人も、グループレッスンとか、先生のところがサロンみたいになっていて社交の場として、通うのが楽しいって感じで、長続きするのかなぁ?
中国人は、わりと個人プレーだから、大人がグループで楽しくという発想はあり得ないのでしょうね。
私は日本人だけど、私も趣味のグループで楽しくという発想はちょっと自分に向いていないです。

「天賦の才能ないというか、むしろ人より劣っているのに、ものすごく努力できるって、ある意味、すごい才能ね、私ならとっくに止めている」って感じの内容のこと、ナナ先生に言われて感心されちゃった~。こうして思い出して書いてみると、結構、残酷なことを言われているわけだけど…自分でももともと自覚していることだから、今更、さほど悲観はしません。
三味線の師匠にも、「オレだったらそんなに練習できない」みたいなこと言われたことあるしね。

私が才能ないくせに練習できるのは、子供の頃に、練習の方法が分からなくて、結局、何も弾けないまま、大人になっちゃって、死ぬ前に一度でいいから、ちゃんと弾いてみたいという執念があるからです。
むしろ、才能ある先生方には、一生分からない気持ちかもしれません。
前にも書いたけど、弾くことは、私にとってそもそも「趣味」じゃないんです。
「えぇ?じゃあ、その歳で、プレーヤー或いは教学のプロ目指してるの?イタイ~」
というのとも違いますね。
私が「人に教えてみたい」と口にすることがありますが、それは嘘ではないけど、ある意味、「不器用な私でも出来たよ」という人様のお役に立ちたい願望に加えて、儲けられる儲けられないにかかわらず、そういう実態があれば、自分が下手でも、弾いていてもいいんだ、死ぬまで弾き続けられる、弾くことを世間に許してもらえるというメリットがあるからです。

私と同じような心の葛藤を抱えている方でないとお分かりにならないかもしれないけど、そうしないと死んじゃうほどの強い欲求があるのです。

そんなことを考えていたら、たまたま岡本太郎さんの30年前の「芸術と人生」という公演記録をYOUTUBEで見つけて、感動しちゃいました。

http://youtu.be/Twg-glN6cPI

芸術は人生で、人生は芸術なのです。
才能ある人だけが文学やったり、音楽やったり、絵を描いたりできるのが今の世の中だけど、そういうのは嫌だなぁっていう話です。
人は物心ついたときから、相対的に生きるようになりますが、世間のなかにある様々な条件に合わせる、枠にとらわれることなく、絶対的に、無条件で生きようよというようなお話でした。

う~ん、太郎さんは才能あるからそれでいいんだけどね…
一番厄介なのは、太郎さんみたいに、自分が納得できないことは、本当はしたくないというよく似た思考回路の持ち主が、才能ない凡人である場合、居場所がないという…(笑いたいけど、笑えない現実)

二胡LESSON109

「賽馬」は相変わらず、モタモタと走りつづけています。
前回のレッスンで表情をつけてみましょうということになり、弓をどこまでの長さ使って、弓の速度をどう変えて等コントロールするということを実行しようとすると、ブツ切れになってしまうのでありました。
「調子良く弾いてたのに、なんで途中で止まって弾き直すわけ?」
「だ、だって、心で思った通りの音になってないから、つい…」
「先日も言ったと思うけど、人前では、どんな音が出てこようとも最後まで弾きなさい」
「…はい」

うぅぅ、素人の腕では、思い通りには鳴らないものですね。
もっとも、だから、ライブや音楽教室というビジネスが成り立つわけですが^_^;

それから、前に少し習ってしばらく寝かせてあった「春詩」というのを引き続きやってます。
これは、ハ長調の曲で、ラスト以外はいかにも春うららという感じのゆったりした曲です。
「賽馬」と異なりゆっくりなので、並行してやって行くことになっています。
ゆっくりだから、音を取ること自体は難しくないのですよね。
実際、ナナ先生も「音符を弾いてることについては、大きな問題ない」と言ってくださいました。
問題は…この曲らしさ、すなわち、音と音の繋がりの滑る音の処理です。
滑音、好きなわりには下手なのよね^_^;
ナナ先生と一緒に何度も滑音を弾きました。
滑音って、本当に奏者の味が染み出てくるような…

それから、弓の使い方を気をつけるように言われました。
この手の曲の処理は、弓を同じ速度で左右に均等に割り振って弾くだけだと超ツマラナイ演奏になるので、出だしで弓の使い惜しみをして残しておき、後半でぐわっと弓を使い切るとユラユラ水のような流れが出来るのよと教えてもらいました。
確かに、ナナ先生と弾くと、水上で舟遊びしているような気になりました。

【余談】
この日はナナ先生、弾くお仕事から帰ってきたばかりでした。
お仕事内容は北京の日本人学校での演奏会だったそうです。
「茉莉花を日本語と中国語で歌ってくれたりして、子供って可愛いわよね〜」と言ってました。
そういえば、ナナ先生は音大付属や音大受験生を教えているほか、ごくごく普通に教養として二胡を習っている子供にも教えているので、どういう風に教えてるのって聞いてみました。
答えはすっごく意外。

「別に区別なんてしてないわよ」

つまるところ、技術とか、練習方法について教えることは同じなのだそうです。
違いは、それについて、学習者がどこまで早くマスター出来るかは、その学習者の資質や練習時間に左右されるので、そこらへんの進度が違うだけとのこと。
早くマスターできなければ、ゆっくり進むだけで、趣味でやってても、音大付属受験生顔負けの天賦に恵まれた子なんかに対しては、どんどん進めていくということだそうです。
なるほどね〜
ナナ先生はお年寄りには教えていないようなので、それでもいけちゃうのかもね。
学習者がかなりのご高齢であれば、いつお迎えがくるか分からないから、生きてるうちにある程度妥協して、すぐに適当に弾けるようにしてあげるという配慮はいると思います。
でも、そうでなければ、皆、一緒ですか…。
もしかすると、ナナ先生の長期の生徒の中では、私が最高齢なのかもしれません。
ご本人曰く、わりと保護者に感謝されることが多いらしく、私もナナ先生は、教えることに向いている人だと思います。

普通の才能ある人は、自分は無意識にうまく弾けるけど、自分のやってることを相手にさせることができなかったりするものだけどね。
特に、3、4歳からやらされてきた人は、語学で例えると、母語を学ぶように自然に技術を身につけるので、文法(弾き方)をうまく語れなかったりするんだけどなぁ…。
子供の頃、神童とか天才と呼ばれたことのある人、優秀だった人って、先生としてどうなのって、私はすぐに疑う方です。
自分がわりと簡単にできちゃった事は、なかなか人に教えられないのが常です。
でも、弾く方も魅力的で、教える方も上手いタイプの人もいるのですよ。
ズルイよね、神は二物を与えずどころか、二物も三物も与えるものです、ほんと。(亡き父がよくそう言ってました^_^;)

おそらく、ナナ先生の先生が教育に熱心で、自分の教学経験をあれこれ、ナナ先生に語ったことと、ナナ先生ご自身、十代前半から、人に教えていたから、簡単に出来ない人のケースのバリエーションをたくさん知ってるからでしょうね。