暗譜する際の癖

中国三弦のレッスンにやっとこさ行ってきました。
正直に、あんまり練習してないと告白した上で…
叱られて当然なので覚悟していきました。
もう、先生の家の前で脈拍上がるわ、上がるわ…
これ以上、動悸が速くなると手に震えがくるというギリギリの状態だったのです。

幸い、本日、先生は機嫌がよかったです。
いや、もしかすると、先生が私をこれ以上、落ち込ませないように気を使ってくださったのかもしれません。

一般論として、先生は学生の心理状態をよくご存じです。
自分が出す音は、メンタルの影響を受けますから、特に付き合いが長くなればなるほど、誤魔化しがきかないのですよね。
逆もまた然りで、生徒の方も先生の気分に敏感です。

ちなみに先生は、ノーミスで流暢に弾いたとしても、音色が綺麗でなかったら、すご~くご機嫌斜めです。
逆に音が澄んで綺麗だったら、メロディを多少間違えてしまって誤魔化して弾いてもさほど気になさらないです。

自分が落ち込んでいるほど音は悪くない→弾き方は間違ってない→余分な力が抜けてきた証拠である
ということで、冬休みの宿題、ずいぶん残してたのに、そんなに叱られませんでした。

でも、次回までに、練習曲はすべて暗譜しておいでと言われました(^^;
結局のところ、私は暗譜している曲でないと、メロディの間違いばかりにに気を取られて、肝心の左右の手の力の抜け具合にまで気が回らない(音色に差が出る)ので、暗譜をせざるをえないのです。

ところで暗譜(記憶)といえば、人間にはいろいろな脳のタイプがあるらしいですね。
視覚、聴覚、触覚、言語など、何を常に使って記憶するのが効率いいか、人によって異なるそうです。

私は記憶する時にわりと聴覚を使うタイプです。
曲の仕組みを理解するためや指使いを確認するために、楽譜を見て、まず視覚で理解しますが、曲そのものは楽譜見ても覚えられないんですヨ。
繰り返し聴いて、自分の心の中で再生できるようにならないと覚えられない~
視覚がめちゃくちゃ発達している視覚優位の人で、スゴイ人になると、カメラアイといいますが、まるまる見たままを脳にプリントしちゃうタイプの人がおられます。
私には全く無理です。
何度も練習するうちに手が覚えるという身体感覚に優れた人もいると思います。
私は、しばらくその曲を弾いてないと、手はすぐ忘れちゃいます…
きちんと構造を分析してそのパターンを効率的にシステム化して覚えているという人もいると思います。
私の場合は、心の中で階名で歌って、まるまる覚えているケースが多いです(脳のメモリがかなり費やされることになります)。

そういえば、誰しも子供の頃は記憶力がいいと思いますが、私は、国語の教科書に載っていた平家物語の一部とか、ばあちゃんがよく読みあげるお経とかは、読みあげると、意味が分かってなくてもまるまる覚えてしまって、そのままの抑揚でかなりの分量を唱えることができました。
今はもう全然ダメだけどね。
大人になるとメモリが減っちゃうんでしょうかね?
カメラアイの人も子供の頃は何頁でもまるまる脳内にコピーできたけど、大人になると覚えられる頁数が減ったとおっしゃられた人がいます。
私は電話番号とかは自分で繰り返し唱えるか、頭の中で唱えて覚えるタイプです。
だから、自分の中国の携帯電話番号を日本語でとっさに言えません(笑)
先に中国語で自分で口に出しながら、紙に書きとって、それを日本語で読みあげないと、日本人に教えられません(汗)。
ちなみに、私みたいなタイプはダジャレが妙にツボにハマってしまうのです(音そのもののごろ合わせがたまらなく気持ちいいからね)
語学も状況とセリフをまるまる覚えているようなケースが多いのかも。
こういうタイプは、品の良い先生や学友と一緒にいないと、トンデモナイ低俗な言い回しまでうっかり丸暗記してしまいがちです(笑)
実は私は英語や中国語の文法をきちんと説明することができません…
リスニングのスコアが上がるにつれて、他の領域のスコアが上がり始める傾向にあるだけなんです(大汗)。
ま、要するに、子供が言葉を覚えるのとほんと似てるんですよね。

でも、絶対音感はまったくありましぇ~ん。
いや、でも、なくて良かったと思っています。
唄い手に合わせて、調弦を変えてしまうような伴奏楽器を弾くのであれば、キーを上げ下げすると気持ち悪い、別の曲に聞こえるっておっしゃる絶対音感保持者さんは気の毒だと思います。
しかしながら、私は曲の速度を極端に変えると、別の曲みたい感じますね(笑)。
模範演奏とかでワザと極端に速度落として弾いてくださっている音源は正直、気持ち悪いし、それだとまるまる覚えるのに差し支えて、きちんと覚えられませんので、ワザと1.2倍とか1.5倍速再生にします(ごめんなさい~)

寝ながらカウンセリング?

脳は寝ている間に知識などを整理するらしいですね。
私、たまに考え事が過ぎると、寝ながら引き続き考え事をしているようで(夢か現実かよく分からない状態)、起きた時にあれっ?て思うことがあります。
例えば、コンピュータの不調の原因捜しをしていて(昔のマッキントッシュなどは、よく爆弾マークが出て文書がぶっ飛び、大変でしたね)、寝ている時に夢の中で治してしまい、起きて急いでその方法を試したとか、あります。

昨夜も、絶不調のさなか眠りについたら、案の定、夢の中で雑誌を読んでおりました。
何故か、読んでいた雑誌の記事内容をはっきりと覚えているのですが、心理カウンセリングの先生のコラムでした。
でも、実在の先生の名前やお写真は載ってなかったので、本当のところは、誰が言ってんだか、知りません…私がどこかでたまたま聞いた内容か、はたまた自分の潜在意識が浮上してきただけかもしれません。

そもそも、芸術分野にかかわる行為には、自分以外の他人にとって金銭価値、存在価値なんて全くないので、時間もお金も顧みずに、それをすることを「選択」する行為自体が勇気ある意味ある結果なのだそうです(^^;
それが、選択後に何か意味がついてくる他の行為とは違うらしいです。

もっとも、好きなことを好きなように好きなだけしただけなのに、たまたま人が認めてくれたっていう話もありますが、それはオマケですわね。
そういう意味において、教学の収入源のない絵描きとか、演奏家とかってオマケだけで食べているのだから、本当にスゴイですね(失礼な表現だったらすみません)。

私が大学以降に勉強してきた事っていうのは、すべて趣味としては、お金と時間の浪費という意味で行き過ぎているにもかかわらず、将来何の役にも立たない(立たなかった)っていうのが落ち込みの原因。
でも、そういうおバカな投資は、普通の神経の持ち主には出来ないよね。
おバカも普通のバカじゃなくて、大大大バカぐらいになると、案外、精神的には楽になれるのかも。
修行が足りませんね。

そういえば、昔、「下北サンデーズ」という石田衣良さん原作のテレビドラマが好きでよく何度もDVDを見たのですが(引っ越しで失くしちゃって残念)、こういうセリフありましたわ。
「芝居なんて売れたら終わりだ…」
世の中には、私には意味分からない音楽、芝居、絵画、研究いっぱいありますしね…(笑)

誰かの基準に従って生きよう、社会人としてまっとうだと思われたいと思い始めると、病むんですな…。
とりあえず、まだ貯金あるから、このまま学生続行。

亡き父が、「お前らのために、したくもない仕事に行ってるんだ」「誰のおかげで飯食ってるんだ」って何度か言ったことがありまして、定年退職したら、したいことすると言ってましたが、朝生きてたのに、夜にあっというまに死んじゃいました…50代でしたが。
私が小さい頃は、母も「あんたがいるから離婚ができない」とかよく言いました。
私は何でも真に受ける傾向があるので、本当にそうだと思っていましたが、晩年彼らは結構仲良かったので、つい、頭にきてうっかり言っている言葉だったんでしょうけど、なかなか忘れられない言葉ですね。

私に子供がいない理由の一つに絶対に「あんたのせいで、私は何もできなかった」って言いたくないってのがあります(^^;
私は不器用なので、仕事も勉強も家事も子育てもすべてできる人にはなれません。
大多数の女性がこれをやってるのには、本当に感服します。

人は一体、何に心を動かされているのか?

「感動」とは、
美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。
― スーパー大辞林

脳科学的に、どうしたら、ヒトが感動するのかというメカニズムは分かっていないようです。
そりゃそうですよね。それが完璧に分かれば、クリエーターは苦労しないわな~
芸術にかかわる仕事をしたい人は、医学部に行けって(笑)話になる…訳ないだろ。
私の脳に関して言えば、経験的にある程度、分かっているのは次のようなことです。


1、全く未知のものには感動しない。

これは、反論があるかもしれないなぁ。
これまで見たこともない、聞いたことがない美しさ、新鮮さ→感動した~っていうのは、皆がよくいうセリフだよね。
でも、本当に今まで見たことも聞いたこともなかったのだろうか?
それは実際に見たことも聞いたこともなかっただけで、自分の頭の中にはすでにあったのではないだろうか?
私は、そうよ、これよ、これっていう運命の出会いなのだと思います。
ちょっと、デリケートな話になるかもしれませんが、もともと目が見えなかったり(見え方に問題がある場合もあるでしょう)、聞こえなかったりする場合(聞こえ方に問題がある場合もあるでしょう)、大勢多数の人と違う感じ方をしている筈です。
見えたままではなく、光の具合で判断しているとか、聞こえたままではなく、音の振動の具合とかで判断しているとか…
皆がいいって言ってるからいいと思うというのは、共感であって、感動じゃないと思うんですが…もちろん人と共感することで感動を得るというタイプの人もいると思うんですけど。
もっとも、私の尊敬している人、大好きな人が「XXに感動した」と言えば、その気持ちを知りたくて共感しようとするという恋心に似た原理が働くことはあると思います。


2、いかにいいラベルが貼られていても、ラッピングが綺麗でも分からないものは分からない~

最近、音楽関係でゴーストライター問題とかありましたが…思ったのは、結局、商業的に売れるものって、そのものより、それをラッピングしている物語に人々は動かされるんだなぁということ。
よほど才能がない、時間がない、金がないというのではない限り、ある程度の年月やお金をかければ、普通の人でもある程度の創作は可能なのだと思うんですヨ。
もちろん、何でもかんでもできる天才は、本当はそこらへんにゴロゴロいるわけでもないんで、商業的な創作の場では、皆が得意なことを分担するチーム体制で行っていると思います。
それで一定の質の創作物が継続的に出来あがるわけですよね。
でも、それじゃあ、誰だってできちゃうのよね(ある意味、いいとこどりだから)。
誰にでもできることじゃあ、ドラマにならないから、変なこと思いつく人もいるんだろうか…。
そこまで、故意に嘘をつくのはいけないけど、そこまで悪意なくとも、いい(と思われている)大学に行きたがることや、プロフィールによく分かんないコンクールの受賞歴を並べたりするのも、そういう信用や共感を得るためだったりするわけよね。
でも、しょうがないよね。
これだけ創作の場で素人が簡単に絵を描いたり、小説書いたり、動画撮ったり、演奏したりして、なおかつ無償で提供していて、しかも、クオリティは素人目にはさほど劣っているわけでもないという情報過多の社会では、何かドラマがないとそもそも、人の目に留まらないのだから。
タダでも手に入ることに、わざわざお金出す人もいないもん。

人が芸術にお金を出す場合、純粋にその作品に惚れている場合はもちろんだけど、作品そのものに惚れているって言うより、クリエーターやパフォーマー(の人柄?)に惚れてて、その人たちの将来に期待して出しているんだろうなと思います。

昔、東京のとある美術館で、よく分からない芸術に触れて、「う~ん、よく分からねぇ」と思っていたら、傍にいた人が「これってどこが面白いんでしょうか?」って私に真顔で普通の音量で聞くので、「さぁ~?私もよく分からない」と言って大笑いしたことがありました。
日本人なら、普通は、つい、分かったような顔しちゃうんでしょうね。