二胡LESSON110

110回目のレッスンという意味で二胡LESSON110と書いているのに、「110」ってイメージとして「110番」→「たすけて~」→「おっしゃ、二胡の技術向上に困っているあなたへ何かアドバイスしましょう」って感じに見えて、一人で笑ってしまいました(^^;

「賽馬」ですが、速く弾くところの難関は、やっぱりここでしょうね。
96、97小節目の
ドレレミソラドラソミソミレドミラ~

難点はミの推弓、速く弾こうと思えば思うほど、弓を短くしか使えず、音が短く(あるいは弱く)かすりがち。
このミの立ち位置ですが、アクセントが付いたっておかしくないところなので、ナナ先生曰く「気持的に恐れず、これでもかというぐらい誇張するつもりで弾いて、他の音と同じちょうどいいバランス」なのだそう。
メトロノーム持ってきて、ゆっくり目のスピードから、とにかくミが他の音に埋もれないようにということを心がけて練習するしかないようです。
ゆっくりなら、ミの音ちゃんと出るんですけどね…
実際、このフレーズ、プロだってスピードで誤魔化して、適当に弾いている人多いですからね…(ライブはノリとかよければ、お客さんも気付かないかもしれないけど、媒体に固定された音楽などは再生すると、素人だって結構気付くと思うのですが…)
例えるなら、パチンコ玉と落石の違いかも。
上手い人は、パチンコ玉がじゃらじゃら~んって出てくる感じかもなぁ(私はパチンコしないけど、子供の頃、亡き父に連れられて行ったことがある。耳が痛くなる最悪の環境…)。どんなに沢山の玉が豪快に降っても、音の粒そのものはそろってますよね。私の場合は、山の上から不揃いの石が転がって来て、バラバラバラ~、あぶねぇよ(^^;

「春詩」の方はというと、まぁ、練習不足。
これの嫌らしいところは、指使いが変則的なので、普通に、第一、第二、第三ポジションへの規則的な移動とはいかなくて、音を捜しに行く時の距離がつかみにくい。
救いなのは、滑音を多用している曲なので、あ、音程ヤバいかもと思ったら、指を滑らせて音を正しい位置にもどしても、不自然さがないというところか(^^;

【余談】
先日、ナナ先生は子供中心に教えていて、成人に教えているのは少ないかもという話をしました。
でも、前は結構、頼まれて、教えていたんですって。
カルチャーセンターみたいなところで、大人向けのレッスン頼まれた時は、大人は2,3回ですぐに来なくなるから、もうあまり引き受けたくないんだとか。
時間とお金の無駄の繰り返しが信じられないと言ってました。
すっぽかされると、ナナ先生は自分の時間を無駄にされるので、耐えきれないとも…。それと、前回言った注意を、大人は思いっきり忘れられちゃうのが哀しいとも言ってましたね。
大人は上達しないとすぐに諦めちゃいますからね…
私は自分が不器用ですぐに上手くならない人なので、そういう大人の気持ちはよく分かるんだけどねぇ。
ついでにいうと、大人は本業あるから、儲けにならないことに夢中になって練習するわけにいかないじゃない?
周囲が許してくれないよ、普通。

ナナ先生が言うには、日本人は基本的に真面目に通ってくるっていうイメージがあるんだそうです(私以外の日本人社会人に教えていた時期もある)。
私も日本の二胡学習者のことよく知らないけど、多分、1:1でひたすら技術向上のために通い続ける人はもちろん、長く通い続けるのでしょうね。
そうでなくて、もう少し進歩は遅くてもいいから皆と楽しくやりたいというタイプの人も、グループレッスンとか、先生のところがサロンみたいになっていて社交の場として、通うのが楽しいって感じで、長続きするのかなぁ?
中国人は、わりと個人プレーだから、大人がグループで楽しくという発想はあり得ないのでしょうね。
私は日本人だけど、私も趣味のグループで楽しくという発想はちょっと自分に向いていないです。

「天賦の才能ないというか、むしろ人より劣っているのに、ものすごく努力できるって、ある意味、すごい才能ね、私ならとっくに止めている」って感じの内容のこと、ナナ先生に言われて感心されちゃった~。こうして思い出して書いてみると、結構、残酷なことを言われているわけだけど…自分でももともと自覚していることだから、今更、さほど悲観はしません。
三味線の師匠にも、「オレだったらそんなに練習できない」みたいなこと言われたことあるしね。

私が才能ないくせに練習できるのは、子供の頃に、練習の方法が分からなくて、結局、何も弾けないまま、大人になっちゃって、死ぬ前に一度でいいから、ちゃんと弾いてみたいという執念があるからです。
むしろ、才能ある先生方には、一生分からない気持ちかもしれません。
前にも書いたけど、弾くことは、私にとってそもそも「趣味」じゃないんです。
「えぇ?じゃあ、その歳で、プレーヤー或いは教学のプロ目指してるの?イタイ~」
というのとも違いますね。
私が「人に教えてみたい」と口にすることがありますが、それは嘘ではないけど、ある意味、「不器用な私でも出来たよ」という人様のお役に立ちたい願望に加えて、儲けられる儲けられないにかかわらず、そういう実態があれば、自分が下手でも、弾いていてもいいんだ、死ぬまで弾き続けられる、弾くことを世間に許してもらえるというメリットがあるからです。

私と同じような心の葛藤を抱えている方でないとお分かりにならないかもしれないけど、そうしないと死んじゃうほどの強い欲求があるのです。

そんなことを考えていたら、たまたま岡本太郎さんの30年前の「芸術と人生」という公演記録をYOUTUBEで見つけて、感動しちゃいました。

http://youtu.be/Twg-glN6cPI

芸術は人生で、人生は芸術なのです。
才能ある人だけが文学やったり、音楽やったり、絵を描いたりできるのが今の世の中だけど、そういうのは嫌だなぁっていう話です。
人は物心ついたときから、相対的に生きるようになりますが、世間のなかにある様々な条件に合わせる、枠にとらわれることなく、絶対的に、無条件で生きようよというようなお話でした。

う~ん、太郎さんは才能あるからそれでいいんだけどね…
一番厄介なのは、太郎さんみたいに、自分が納得できないことは、本当はしたくないというよく似た思考回路の持ち主が、才能ない凡人である場合、居場所がないという…(笑いたいけど、笑えない現実)

振動を聴く

先日、聴力の話をした続きです。

私の耳は雑音が聞こえすぎて、肝心のききたい音が聴こえない難聴の傾向があるという話をしました。
特に騒がしい場所では、声が雑音に負け、高音が低音に紛れるという…

今まで、ピアノの一番右のドとかシなんて触れたこともなかったので、試しにピアノの一番高い音域を弾いてみました。
あ、静かなところでは、ちゃんと高低分かるやん…と思いました。
やっぱ、聴音の訓練足りないだけなのね。
でも、あえて言えば、ピアノの鍵盤を叩く音そのものの音が邪魔やな。
分かります?
高音域はハンマーがピアノ線を叩く音より、鍵盤が下がる時に出る音の方が気になるってことです(^_^;)

あくまで仮説ですが、私、普通にしていると、主としてきくべき音の周波数が大多数の人のそれとズレとるんかも…。
普通は(大多数の人が)どう聞こえるのか体験のしようがないから、取り越し苦労かもしんないけどさ〜。

うーん…だから、プロの人のCDでも、ヘッドホンとかで真剣に聞くと、今、何処かに指が当たったんじゃないかとか、反響が変な部屋で録音してるなぁとか、どうでもいい音が気になってたのでしょうか?
やな奴ですよね…人の粗探ししてるみたいで。

ちなみに、低音が聞こえないタイプの難聴の人もいて、ピアノの最低音がまったく聞こえない人もいるときいたことがあります。
実際、そういう方でも、音楽をやってる人はいるんですよね。
どうしてるのかと問えば、指に伝わる振動の触感を頼りに、音程が正しいかどうか判断しているのだそうです。
すごいっ*\(^o^)/*

二胡なんて、素人は第三ポジションくらいまで正確に聞き取れていれば問題ないので、普段は問題ないのですが、ものすごい下の方の高音域は、私には分かりづらい。
でも、最後の手段として、自分は聞こえづらくても、クリアに聞こえているような顔して、身体に伝わる振動で判断できりゃいいのよね〜。
…ってその域に達するのは大変なんだろうけど。

振動と言えば…実はつい最近まで、自分が弾いてる時に音の振動というものを身体が感じたことありませんでした。
三弦の先生を替わってから、力を抜くことを多少なりとも覚えたせいか、はじめて棹がこんなに振動しているんだということに気づきました。
もっとも、数秒後にはまた力入っちゃって、全然感じられないんですけどね。
上手く鳴った時は、自分の声を聴いてるのと同じ感じがします。
身体の外部からの通常の音と、内側からの振動音の両方聞こえるっていうの?
楽器というものが、自分の身体の一部だと思えるってそういうことですか?
これもまた、大多数の先生がどういう風に自分の音が聞こえているのか、私の身体で体験のしようがないので、実際のところ、分からないのよね…

色好きな人々(!?)

津軽三味線の「津軽よされ節」が、何度弾いても覚えられません。
歌詞の「あぁ~」とか、「いぃ~」が長すぎて、音がこれから下がるんだったか、上がるんだったか忘れてしまいます。
同じ理由で「本荘追分」もいまだに譜面見ないと弾けない。
別にこれが一週間に数回、30分程度テキトーにお稽古してるのなら、覚えられなくても、他人は理解してくれそうですが、私、毎日、何十回も聴いて、何十回も弾いてるのよ(^◇^;)
ひよこ頭にも程が…。
(人によっては、私の高学歴とこんなことも覚えられないことが結びつかなくて、練習してないんじゃないかと勘違いされて哀しい…)
もう、音符だけ丸暗記したらええやんと思い、そうしようと思っても、似たような伴奏の繰り返しなので、サッパリ…
「春は桜の弘前に…」という部分以外、歌詞も全く覚えられないので、風景すら脳内で途切れ途切れ。

「津軽小原節」は何で覚えられたかって?
この唄は、歌詞がメロディにきちんと乗っかってるから聴けば覚えられるし、数々の忘れそうな怪しいところは、歌詞に基づいて、脳内に映像が流れるからなのです。
だって、これ、可愛らしい恋の物語じゃないですか。
私の脳内には、いつも真夏の夜に、師匠と奥様が手をつないで踊っているところが浮かぶのです。
ネタにしようと思ってわざと書いているのではなく、師匠が唄いながら弾いたのを録音して、何遍も聴いたことと、師匠と奥様が仲良しなのを見慣れているので、必然的に、そのイメージが湧いて出てきて止まらんだけですヽ(´o`;

私の場合、もともと、譜面見るの苦手で、耳が覚えた後でないと譜面見づらいんですよね。
数字って苦手なんです;^_^A
6と9のツボがあるとすると…もちろん、いくら、ひよこ頭な私でも、6と9では9の方が大きいと知ってます。
大きいのだから、棹の下へ(すなわち高音になる)のはいいのですが、三の糸の6がミで、9がソなら、二の糸の9って、実音はドじゃん…。
私の脳内では、「なんで急に6がミで9がドなの???うぉぉ混乱!(◎_◎;)」
となります…
これは、私が簡譜という中国の数字譜を見慣れているせいも悪影響を及ぼしているのでしょうね。
つまり1234567がドレミファソラシなので…数字見るとその数字の音高が思い浮かぶのに、三味線の棹の上の実音は全く違うわけだから。
五線譜ならビジュアル的に波形を脳内再生すればいいんですがね。
だから、音の流れをツボの番号などではイメージできない。
かと言って、何度聞いても歌詞が分からないから、メロディも記憶できない。
大多数の人は、頭が忘れても手が位置を覚えてるんですよね、多分…。

そこで、考えついた私だけのための究極の暗譜方法!
譜面に色をつけちゃるわいっ!
耳で覚えられないというのなら、色のグラデーションで覚えてみようかと…
別に私は色聴ではないので、ピッチに基づいて色が浮かぶわけではないのですが、相対音感に基づく色の割り当てです。
つまり、ド(赤)レ(橙)ミ(黄)ファ(緑)ソ(青)ラ(紫)シ(赤紫)そしてド(赤)に戻るみたいに音と色のグラデーションが一致していれば、色の仕組み的にどっちに行くかを見れば次は上がるのか下がるのか一目瞭然というわけなのです。
(お絵かき好きとか美術関係の人なら分かりますよね?この循環法則)
私以外の人は、目がチラチラしちゃって嫌かもねぇ。
写真は、師匠のよされの文化譜で、フリクションの赤で書きこまれた数字は私の脳内で再生されるメロディの数字譜。
色は相対音階に基づくグラデーション…

余談ですが、私、トンボの色辞典という90種類の色鉛筆を東京の家に持ってます。
あまり使ってないけど、眺めるのが楽しい^_^
それは今、手元にないので、普通の色鉛筆でしか色つけられないなぁ…
亡き叔父がプラスティックの加工職人をしていて、プラスティック板の色見本を大量に持ってましたが、綺麗ですよねぇ。遊びに行くたびに、それを持ち出して眺めました。
そういえば、私の二胡のナナ先生も30色入りとかのペンを何セットもメーカー違いでやたらもっているのです。
日本製の無印良品のペンや消えるボールペンのフリクションのセットも持ってました。
机の引き出しの中に、一つや二つではなく、わんさかと…
これは、もはや、実用のためではなく、観るためですよね。
三味線の師匠も、フリクションの水色とか紫で譜面に注意書きしてくれるので、普通じゃないなぁ、変わってるなぁと思います。
事務的に使用する人は赤黒青のほかはあまり使わないでしょ、そんな変な色(^^;
この間、師匠に「見当たらないから、もしかして、自分のと間違えって持って帰ってないよねぇ?」と聞かれましたので、適当にその色を使っているのではなく、よほど気に入ってるんでしょうねぇ。

というわけで、みんな、色好き(って、なんか変な意味に取れそうな…)。
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yosareiro