通り名で出ています

三弦のレッスンに行ったら、トシミネ先生に
「游鯉、お前に『柳青娘』どこまで教えたっけ?」と聞かれました。
前半の三分の一だけだと答えたら、
「オレは仕事で二週間程アメリカへ行ってくるから、今日中に全部、教えてなかった奏法と指使いを教えてやる。留守の間、後は一人でとりあえず練習して、帰ってきたらちゃんと弾けているようにしときなさいね」
と言い渡されました。

で、そう言ったかと思ったら、ちょっと三弦貸しなさいと言われ、貸したら一人でもくもく適当に弾き始めるセンセイ…
「この曲、ちゃんと弾いたのは、オレが音大附属中にいる頃で(游鯉のツッコミ:20年も前だろ~)、ずいぶん、長いこと弾いてないんで、最後の方、なんかちょっと忘れてるわ…」とのこと。
え~~~忘れちゃうほど、自分も弾いていないし、教えていないマイナーな曲だっていうことですか?
正直なセンセイ…
でも、これ、昔の北方の三弦弾きなら、知ってて当然の曲だったんだよね?
…って昔から伝わる民間伝承曲って、往々にして現代の基準に照らすと技術的には簡単だから、後で自分で譜面見りゃ弾けんだろってんで、今時の音大生には教えないんだろうか。
(というか、多分、演奏する機会がないんだろうね)
トシミネ先生は、一通り弾いたら、「あ~思い出した、思い出した」って(^^;

ところで游鯉というのは、本名ではありませんが、私が中国名としてよく使っているため、トシミネ先生の携帯にもそう登録されていて、時々、正式書類に名前書く時になって「正式なフルネーム、何だっけ?」と聞かれます。
でも、日本人の名前と言うのは、パスポートなどに記載されているアルファベットと中国語のアルファベット発音表記は違うわけで、漢字が思い浮かばなくて当然よね。
下記は教務課作成のレッスン室の割当表。
トシミネ先生が提出したとおりに「游鯉」と書かれている(笑)。
kebiao

あなたは、どうして譜面を見るのか、譜面の何を見ているのか

いろんな暗譜の仕方があると思いますが…

ある方のブログを拝見していたら、その方はフォトコピー方式で覚えてしまうとのことでした。
フォトコピー方式、つまり見たままを写真に焼き付けるかのごとく記憶する方法ですね。
ちなみにその方は、譜面に限らず、子どもの頃からずっとそういう風に勉強なんかもしてきて、世の中にはそういう風に物事を記憶していない人が結構多いことに、ある程度成長してから知ってびっくりされたのだそうです。

私は最初の大学生時代、周囲に司法試験受験生が多くて、そういう方法があることを知りましたが、私自身はどうしてもそんな風に視覚的には覚えられませんね。
指揮者の方で、家で譜読みしている時に、たまたまコヒーのしみかなんか付いてしまって、それすらも頭の中の楽譜に記憶されちゃってるらしいし…うっかり頭の中で一頁すっとばして譜面をめくって大変なことになったとかいう話を聞くとすごいな~と思います。

演奏家の方によくあるのが、頭では人に説明できるほどクリアに覚えてなくても、手は覚えているよっていうパターン。
「何か譜面とXX先生の実際の演奏が違うんですけど、私はどう弾いたらいいんでしょうか」と三味線の師匠に聴いた時とか、三弦のトシミネ先生に聴いた時とか、よくあるのが、本人、そのまま頭だけで考えて返答できないけど、実際に楽器持って弾くか、エアで演奏し始めると、ちゃんと再現されるんですよね。
手が自動化されているんですよね。

私の場合、実は譜面読むの苦手で、初見ボロボロなんです(^^;
理屈では、譜面の約束事、音符の長さは分かってるんですが、実際に弾くと違ってる…(頭で考えて手を動かすまで時間がかかり過ぎる)
私が譜面を見ている時は、往々にして音高の確認のためで、メロディの確認じゃなかったりします。
だから、暗譜は、実際の音源聴いて覚えてしまいます。
それはもう、私は頭悪いんで、何百回、何千回、繰り返し聴いて、自分が心の中で唄えるまで聴きます(本当です)」
自分の演奏時は、自分の心の中の再生機で再生しながら、それに手が合わせていることになります。
ちなみに、心の中では、相対音階に基づく階名でメロディは流れます。
三味線のように、譜面がツボ(音高ではなく、棹の押さえる場所)が書かれている譜面だと、私は単にどの糸を使用するのかということと、スクイ、押し撥などの記号、唄の出だしを確認しているだけで、メロディを確認するために譜面は見ておらず、やっぱり相対音階に基づく階名に従って弾いているだけです。
だって、どこのツボを押さえるんだなんていう楽曲と関連性のない情報なんていちいち覚えられないよ…
それと、チントンシャンとか、チリレレっていう口三味線だと、私の耳にはそうは聴こえないから、覚えても意味ない(笑)
そういえば、三味線の師匠が何か思い出す時とか、太鼓のパートを唄いながら弾く時って、ふ~ん、師匠の耳から入る音の情報と脳の言語処理は、こういう関係なんだな~って自分とは違うところあって面白いと思います。

さて、練習が足りなくて、手が自動化されていない状態だと、当然、頭の中は空っぽなので、「どうして、そんなに味気なく弾けるのかねぇ…(ため息)」と三弦や二胡の先生に言わせちゃうことになります。
ちなみに、三味線では言われません(それは唄の伴奏だから、別に素っ気なくてもいいからでしょうね)

トシミネ先生には「覚えてから弾くんじゃ、効率悪いから楽譜見ながら弾け」って叱られるンですが、楽譜見ながらだと気が散ります(笑)
「今は一曲が長くてもせいぜい5分だからいいけど、将来、大きな曲弾く時、困るのはお前なんだから、今からちゃんと譜面見て弾け!」って叱られました。
でも…
「せんせぇ…私にそんな大型の曲(三弦コンチェルトみたいなやつね)弾く機会なんて将来やってこないと思う…(;_;)」
とつい、リアルな泣きごとを言ったら
「うぅ…確かにそうかもしれないけど、分かんないだろ、そんなことは!」
と慰められました(^^;
トシミネ先生は、普段、私が自分より歳上ってことをコロッと忘れてて、つい自分の生徒の音大附属中高生、音大生相手のつもりで喋っちゃうんですよね。
だってね、三弦という楽器はオケと合わせにくいから(音が抜け過ぎる)、曲も少ないし、二胡コンチェルトみたいに商業ベースに乗らないから、上手い人でもなかなかそんな機会ないんだよ~

ちなみに、譜面が読めない人がどうやって音楽を記憶しているのかという仕組みについて、当然、音符の記憶ではないのですが、どういうメカニズムなのか、科学的な研究はまだあまりないんですってね。

無音

どうもお疲れ気味なのか、音が気に触ってしょうがないです(^^;
絶対音感のある人は、風の音やコップがぶつかってコーンと響く音ですら、音名で聴こえて疲れるといいますね。
私は絶対音感ないので、そんなどうでもいい音に疲れることは無いのですが、多少なりとも相対音感はあるらしく、メロディや調がはっきりしているものになると、相対音感に基づく階名が聴こえ始めちゃうんです…
うちのがっこの第二教学楼の防音室は、隣の部屋の音がはっきり聴こえます。
もともと一つの防音室を、後から二人で使えるように真中で二つに区切ったらしく、通常レッスンのあるときは、妨げになるので隣の部屋は学生に貸しません。
で、私はわりと集中力あるので、自分がしっかりしている時は、自分の音以外聴こえないのですが、体調が悪いと隣の部屋の音が聴こえ始め…
そのうち、階名が頭の中をぐるぐる…

芸術系のがっこに在籍している以上、音から逃れられないので、あぁ、疲れる…
そういえば、世の中には無響室ちゅうものがあるらしい。
要するに研究実験用に作られた「無音」の場所。
でも、実際には無音ではないらしい。
というのも、前衛芸術家、ジョン・ケージが言うところによれば、「無音」を聴こうとしてハーバード大の無響室に入ったものの、二つの音、一つは高く、一つは低い音が聴こえるのだそうで、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音らしいのです。
思うに、少なくとも、自分の心臓の音は聴こえちゃうんでしょうね。
真夜中に静かな場所でも、キーンとか、し~んって響く音、あれ、何なのでしょうね?
もしかして、あれが、神経系の音?
そのようなワケで、無音は生きている以上、不可能なわけです。

(先天的に聴覚障害があって、そもそも、音というものが何か分からないという人の場合はどうなのか、私は専門家じゃないので、よく分かりませんが…)

さて、話が飛びますが、この無響室で音の不可能性をみたという認識が、ジョンケージを「4分33秒」の作曲へ導いたと言われてます。

この曲は、音楽は音を鳴らすものという常識を覆す、「無音の」音楽である。
楽章を通して休止することを示すtacet(オーケストラにおいて、特定の楽器のパート譜に使用されるのが普通である)が全楽章にわたって指示されているので、演奏者は舞台に出場し、楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし、一定の時間が経過したら退場する。
ウィキペディアより引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/4%E5%88%8633%E7%A7%92

将来、誰かに「得意な曲は何ですか?」って聴かれたら、「4分33秒」と答えたい…
しかし、ちゃんとしたフォームで4分33秒過ごすのは意外と大変そうだな~