表現活動と鑑賞の関係

板橋区立美術館で「日本近代前衛絵画史 1910s~1940s」(入場無料)を見てきました。

これといって大感動した作品はなかったのですが、気になる資料が展示してあったので、紹介します。
造形芸術について語られたものですが、音楽にも言えることなのかななんて考えてみました。

我々が絵を描いたり物を作ったりするいわゆる造形活動をする時、普通その表現の面にのみ留意される傾向が強い。
例えば、絵を描く時、先ず手の訓練が第一だと考えがちなのである。
ところが実際は、絵を描いている途中で我々は何度も自分の作品を観察したりしながら描き進めていくのである。
この観察や見当が大切なので手を休めて対象を見つめる、作品を見つめる、さまざまと検討してみる。
途中のできばえを味わってみる、そして自分なりに批判もしてみる、といった一連の活動が腕の上達を助ける鑑賞の領域に属する心の働きで造形活動は常に表現と鑑賞の両面が一体となって作用していることが分かるのである。
一般的には描き方の指導は行きとどいていても
鑑賞の指導は本人まかせで、あんがいおざなりにされている。

「表現活動と鑑賞指導」美術家連盟会長 山本日子士良 文化連いたばし第二号(昭和54年5月26日)より引用

確かに自分の演奏の最初の鑑賞者って自分ですよね。
たまに自分の練習している時の音を録音して聞いてみると、穴があったら入りたい。
自分を客観的に見つめることの悲しさったらありゃしない、こんなつもりで弾いていないってことばかり。
適切に鑑賞できる人は、上達するのも早いんだろうな。
そして、そういう人は限界なんてなくって、ずっと上達し続けるんだろうなー

「鑑賞の指導はおざなり」って言ってるけど、確かにそうなんだけど、これって教えられるのかな???
技術的な問題は、どこがおかしいとか、こうあるべきなのに、ってわりと自分でも気づくけど(初心者の頃はそれも難しいけど)、技術から離れた問題になってくると、絵も音楽も何が正解かなんて究極のところ、誰にもわからない…
すべて正しいのに、ツマラナイ絵や音楽っていうのが現に存在するわけで(^^;

先生は弾く技術は教えられるけど、何がいいとか、どうとかは結局のところ、教えられないような気がする。
そういう意味では、親が芸術家の人ってうらやましい…
子どもの頃からいいものを見聞きしていれば、勉強なんてしなくとも、自然に鑑賞というものが身についている…

そして、なにより難しいのは、その当時、めちゃくちゃけなされた作品が後に代表作になることあるし、評論家にめちゃくちゃ言われた芸術家が、後世に名を残すこともあるわけよね。

津軽三味線発表会雑感

昨日は津軽三味線小山会の発表会でした。発表会雑感書きます。
まず、会場に向かう途中、朝ご飯を十分に食べてなかったので、コーヒー屋さんであんみつ食べました。
というのも、12時開演で、お弁当出るって知らなくて…お腹すくよな~と思って、最初に甘いものでも食べておこうと思ったのです。

で、あんみつ食べてたら、隣の席の人に「もしかして小山会の人?」と話しかけられました。
なんでも、今年の1月から師匠に習っている人で、今回は発表会を見に来たそうです。
スゴイ偶然ですね。
そのご年配の女性が言ってくださいました。

「いつもとおんなじ」

って唱えるといいわよって。
なるほど、リラックスのおまじないとして、今まで「大丈夫」とかいろいろ言ってはみてたんですけど、訓練のやり方がいけないのか、どうもあんまり効き目なかったんですよね。
「大丈夫」とかじゃ、何が大丈夫か実はあまりイメージわかなかったんだけど「いつもとおんなじ」はいい言葉ですね。
奇跡が起きない限り、いつもより上手に弾けるはずなんてないんですから、「いつもとおんなじ」ように師匠と弾いているように弾ければOKなんですよ。
いつもとおんなじ、でマズイのなら、それは練習不足ってことだから自業自得、反省しろってことだし…
「いつもとおんなじ」いい言葉ですねぇ。

ワタシ、舞台へどうやっていくか分かんなくなって(師匠や貢山先生に教えてはもらっていたのですが、実際行こうとしたら迷ってしまっていけず…新人合奏というやつは、棄権してしまいました…舞台脇に行ったときにはもう、始まっていたので出ていけなくなってしまった(^^;
ゴメンナサイ。

小山流の発表会ですから、家元先生の下には大勢の会主先生がいらして、だいたい自分の先生が誰かによって楽屋が割り振られているわけですが、私は楽屋の人たちと気楽におしゃべりできなくて…
知ってる先生のところへさっさと遊びに行けばよかったと思います。

そんなこんなで、発表会は終わってしまいました。
お世話になった先生方、大変ありがとうございました。
あはは…でも、生まれて初めて、まともなホールの舞台の上から、お客さんがちゃんといる客席を見て嬉しかったな。

フィナーレの全員(といっても、都合でお帰りになる方もいるので出演者全員でもないみたいです)の合奏ですけど…わはは、師範とかだけの合奏と違って、やっぱり、合ってないね(^^;
そういう自分も暗譜しきれず、テンポも速かったし、途中でよくわからなくなって…なんか弾いていない箇所あったんですよね。
たぶん、そういう人、他にもいたでしょう(笑)
↑バラしちゃっていいんだろうか…
でも、もし、出演者全員でやって、かつ全員がきっちり弾いたら、すごい数の大合奏なんだろうなぁ。

写真あるとよかったけど、結局、誰の写真も撮らずに帰ってきた…残念

人前であがらない方法

人前であがらない方法がやっと分かりました。分かってしまうと実に「何でこんな簡単なことに今まで気付かなかったのか」と言う感じで、バカバカしい。
でも、自分にもあがらない状態があるんだということが分かったからといって、その状態にもって行く方法はやっぱりまだ、訓練中であります。

どういう時にあがらずにすむか、結論から言ってしまえば、自分の今していることに対して心から「楽しむ」ことです。
ね?なんだ、簡単でしょ。

先日、初対面の人に弾いている自分を録画されて、弾く前は心拍数上がって、これはヤバいと思っていたのに、先生と一緒に弾き始めたら、楽しくって楽しくって仕方がなかったので、自分があがっていたことをすっかり忘れていました。
多分、楽しくなかったら、そのままあがり続けて、最終的には手足に震えが出て、指が棹の上からすべってたかもしれない…

でも、楽しむ前に、様々な要因で不安がつのって楽しめないから、あがるんですね(私の場合ですが…)
どうして、誰も指摘してくれなかったのか。
多分、音楽家なんて、みんな、そんなの当たり前のこと過ぎて、わざわざ言うまでもあるまいってことだったんでしょうね(^^;
凡人は言われなきゃ分かんないんだよう~

「練習しろ」「場数踏め」「他人はそれほど自分のことなんて何とも思っていないんだから」な~んてことは、よく言われました。
「練習する」のは当たり前のことだし、
「場数」は自分じゃどうしようもないし、
「他人はそれほど自分のこと…」は、そんなこと、凡人は言われなくとも知ってます!
だからこそ、その瞬間に自分の伝えたかったことが伝わらなかったら、どうしよう(嫌だ)という恐怖がつのるんだろうが…
「他人はそれほど自分のこと…」という指摘は、よくハウツー本に書いてあるのですが、正直、アホかと思ってしまいました。
これは、ある意味、才能あふれる美男美女におくるアドバイスでしょう。

ところで、あがり克服法の一つとしてリラクゼーションの訓練があります。
簡単に言うと、こんな感じです。

部分的な筋肉(下肢、腹胸、腕肩首、顔など)の緊張→筋肉の弛緩
を繰り返し練習なのですが、筋肉の緊張時に息を吸い、筋肉の力を抜いて息を吐き出すときに、「リラックス」「それでいい」「大丈夫」等のキーワードを唱えるようにしておく。
この一連の動きを十分繰り返すと、脳がこのキーワードとリラックスした状態を結び付けるようになり、最終的には緊張状態を経なくても、キーワードだけでリラックス状態になれるそうです。

人気漫画「のだめカンタービレ」(アニメ化、ドラマ化、映画化されましたね)ですが、

巨匠シュトレーゼマンは、
「さぁ、楽しい音楽の時間です」
と言って舞台に出ていきます。

のだめちゃんなんて、サロンコンサートで弾く前に
「楽しんで弾くので、がんばって聴いてくださいね♪」
なーんてふざけたことを言います。
きっと、本人たちに自覚は無いだろうけど、このセリフはある意味、心身を好い状態へ持って行くためのスイッチなのでしょうね。
改めて見ると何気ないセリフも、また別の面白みがありますね(笑)