ワンコイン先生

先日、岐阜県の実家に遊びに行ってきました。
母が一年位前から習い始めた習字を見せてくれたんだけど、一年前より上達してる~
母は昔は本当に字が下手で(今でもボールペンとかで普通に書く文字は子供なみ)、不器用な人なのだけど、先生のお手本見てなぞって練習してれば、上手くなるものなんだね。

ちなみに、習字に一回1時間程度のレッスンは250円なのだそうな…
まぁ、月に二回は行くから500円だって。
先生は60は超えたおば様で、自分で車を運転していろいろな場所に教えにいってるみたい。

「じゃ、私も一回、ワンコインで三味線教えてあげるけど、どう?」って言ったら、
「え~三味線はやだ~、二胡ならやってみたいかも」と言われました。

しかし、ここで現実的な疑問。
一回ワンコインで二胡教えるって言って、習いたい人、本当にいるんだろうか?
もちろん、腕はそこそこだけど本当に教えるのが上手い先生(もしくは教えるの下手だけどそこそこ有名な演奏家)がその値段提示するのなら、希望者はいっぱいいると思うけど、そうでない人、つまり安かろう悪かろうでいいという人、いるのか?どうなんだろう???

本当にいたら、教えるけど…
多分、この値段、ちまたの先生にふざけるなと怒られるだろうな。
どう考えても生計は成り立たないので、他の仕事で稼いで、ボランティア精神で教えなければこの値段にはできないでしょう。
きちんと(演奏及び教授法の)技術を身につけて、ちゃんとお金とれって叱られそう。

先日、夫と雑談してて、安物のお稽古用の三味線でこのくらいの値段かなぁみたいなことを教えてあげたら、
「え~入門用の楽器で、何万とかするの?俺、学生の頃、遊びでギター弾いたけど何千円だったよ」と言われました。
あなたが大学生の頃って、1970年代でしょ?
今どき新品で何千円って楽器あるの???
そういえば高校生が吹奏楽とかで使うフルートだって、最低でも7,8万はしたと思うけど…私の記憶違い?
私は、楽器の値段やレッスン料に関しては、感覚がマヒしてるけど、普通の人はこちらがかなり低いと思っている値段でも相当、高いと感じるんだなと改めて思いました。

沖縄のかんからサンシンじゃないけど、何千円~1万円で自分で楽器を手作りしていただいて、一回ワンコインで簡単な曲を教えるという文化講座なら需要ある?(^^?
つくづく、音楽ってお金かかるのに、その使ったお金は回収できないものだと思います。
まぁ、そもそも回収しようなんて思っている人は、音楽やりつづけないと思うけど。

特に演奏の才能があるわけでもない人が音楽をし続けたいと思ったら、相当、お金に余裕があるか、ボランティアの演奏やボランティア教授などの形をとって社会貢献することで、自分のしていることを周囲の人(家族?)に納得してもらうしかないんだろうね。
(費やしたお金と時間を無駄にしたんだね、と非難されたり、憐みの目で見られるのを回避するという意味…。)
まぁ、でも自分が楽しけりゃ後悔もなにもないのだけど、やはり、私は母に昔から「あんたはいったいそれで何になるの?」とか、「結局、失敗したんだね」とか「無駄にしたね」と言われるのが心苦しい。
ちなみに私は大学生のころから学費のために働いてきて、自分に相当の投資をしたけど、最終的にまともな仕事についていないので、親しい友人に投資額と収益のバランスが悪すぎて、会社ならとっくに倒産だねと言われたことがあります(笑)
そして、いまだに学生し続けて無駄な時間とお金の投資をし続けているし…

しかしながら、このボランティアでやるというのも、最近では、ボランティアなのに、プロの方に限るという募集があったりして、すごく滑稽だなと思うのでした。
子どものころから時間やお金を大量につぎ込んできて、才能もある方が、交通費すらお金採れないのは実に気の毒だと思います。
インターネットの発達で、小説にせよ、絵にせよ、音楽にせよ、今、タダが当たり前、そして、ブログやYOUTUBEなどによって、素人でもいくらでも、作品を公開でき、一億クリエーターの時代ですから、本当に運やカリスマ性がないと芸の道でお金はもらえないんだろうなと思います。

三味線らしくない三味線のライブ

2014年7月26日午後5時、「三味線かとう」さんが運営されるライブハウスChito-shan亭でMonochro(鮎沢京吾、田中志穂)という三味線デュオの演奏を聴いてきました。
私、三味線かとうには何度も行っているのですが、 Chito-shan亭は、初めてでした。
お店のどこにそんな場所あったっけ?と思いつつ、三味線かとうに行くと、ちゃんと隣にありました(^^;;
まぁ、見た目、普通のビル(?)だったので、いつも見てるのに気づいてないだけだったか…
たまに傍を走る都電の音が聞こえるので、専門音楽ホールとしては、?な環境ですが、少人数のアットホームなライブや音楽教室の発表会に向いてそうですね。

Monocroさんのライブのライブを一言で言うと
「三味線らしくない音」でしょうか。
これ、普通の三味線弾きに言ったらダメ出しですが、Monochroさんの場合は褒め言葉です。
だって、民謡を弾くわけではなく、オリジナル曲で、Monichroワールドを表現しているのですから、なんだってありでしょう。
それに彼らの場合、民謡が弾けないんじゃなくて(プロフ見たら分かる)、敢えて弾かないわけでしょう?
ですから、当然、撥を使って弾くだけではなく、爪弾かれたり、ピックで弾いたりいろいろな弾き方をされていました。
特記すべきは、やはり、何と言っても「低音三味線」と普通サイズの津軽三味線との合奏でしょうね。
特注で棹の長い三味線を制作してもらったそうです。
もしかすると、私の扱う中国大三弦と同じくらいの長さかもね。
糸や駒は義太夫三味線のものを使用しているそうです。
そして、構え方も津軽のように太鼓を抱え込んで棹の角度が急になるのではなく、どちらかといえば、長唄っぽく太鼓と身体の間の距離があって、棹も低めに構えていらっしゃいました。

私はもともと大三弦と三味線で合奏できないものかと考えていた時期があって、その時にMonocroさんのファーストCDを買いました。
まぁ、実際のところ、低音三味線は絹糸で犬皮なのだから、スチール弦、蛇皮の中国三弦とでは、違いすぎるわけで、結局、真似してみるのはやめましたが…。

笑えるのは低音三味線の裏側。
何か音の抜けがよくないと思ったので、裏の皮に穴を開けたそうですが、開け過ぎちゃったので、ガムテープで補修したとか(笑)
こんなにヒドイ三味線を舞台上から見せてくれた演奏家、初めて見たわ〜
なんかね、棹の長い三弦と大きな太鼓の組み合わせは、音の抜けが悪いっていうのは分かる気がする…
中国大三弦もいろいろな規格のものがあって、某音大の某先生が大音量を追求して完成したといわれている大きな太鼓の三弦もちょっと音がボワンとする気が…。
それに対して、昔からある長い棹、小さめの太鼓の三弦の音色は音の突き抜け方がいい感じ。で、大音量を追求したければ長い棹、小ぶりの太鼓の三弦で奏法を工夫した方が合理的だと私の中国三弦の先生は思っているのですね。
でも、大きな太鼓の裏の皮をぶち抜くなんて私は思いもよらなかったわ〜。

演奏曲目は
Beach
紅のパルマ

モノトーン
とオリジナル曲が続いた後は、映画音楽のカバーで楽しませてくださいました。
その後は桜三章という曲で、大阪国際コンクールにエントリーして惨敗した思い出の曲だそうですが、桜が咲く様と散る様が美しく描き出されたいい感じの曲でした。
ラストはJourneyという曲で、全てピックで弾く曲でした。
タイトル通り沖縄、韓国、インドネシア、中国を旅するようなメロディが印象的な曲でした。

私も三味線を爪弾いて遊んでいて、音だけ聞いた何も知らないご近所の人に「いいですねぇ、沖縄のサンシンですか?」と聞かれたことがありますが、「いえ、三味線で、じょんからです」とは返事できませんでした(笑)
結局のところ、どの三味線/三弦を使っても奏法である程度、別の三味線や三弦を模倣できるということなのでしょうね。

さて、アンコールは、民謡を弾かないMonochroのはずが、「十三(とさ)の砂山」なんてお弾きになっちゃって…
でも分かりますよ、その選曲の意図。
アンコールでご使用になった三味線は、三味線かとうさんが東日本大震災の瓦礫再生プロジェクトに応えて制作したものなんです。
ブビンカというアフリカ原産の硬い木が棹になっていまして、3丁がエレクトリック三味線として被災地に戻り被災地の人を励まし続け、残りの1丁が普通の三味線として三味線かとうさんが保有しているそうです。
十三の砂山という民謡は、洪水?大津波?の襲来により、一夜にして町と村がなくなり多くの人々が亡くなり、災難が去った後に「残った砂山が米ならいいのに」と嘆き悲しんだ、そういう感じの歌詞です。
私も帰るとき、出口にその三味線が展示してあって、お店の方が、どうぞ触ってってくださいとおっしゃるので、びょ〜んと弾いてきました。
地理的な距離があると、つい、遠い昔の遠い外国の出来事のように思いがちですが、今も解決していない問題が山積みっていうことを忘れるなとハッとさせられました。

そして、アンコールのラストは、「花火」という曲のスペシャルバージョン。
打ち上げ花火、線香花火、様々な音楽の花火が打ち上がって、ライブは楽しく終了しました。
Monochroさんは、しばらく活動休止だそうですが、ソロ活動もするB’zみたいな感じでやっていきたいというようなことをおっしゃっていたので、何年か経ったら、パワーアップしたライブがまた聴けるかもしれませんね。

なんとなくの法則

語学も音楽も、幼い頃からやるに越したことはないという点は同じだと思います。
大人、特に中年以降になってからやるっていうのは、かなり骨の折れることです。
大人になってから、語学をやるメリットは、子供と違って「理屈」で覚えるので、有る意味、それを母国語としている人より、正確で分かりやすい文章が書けたりすることでしょうか。

しかしながら、中には、結構、外国語が話せて、書けるのに文法がまるきり分からないという人がいます。
試験で文法問題が解けるのに、正解を導いた理由を聞いても、「なんとなくぅ」としか言わない人。
私です(^^;;
じゃあ、あんた、どうやって大学院生レベルの外国語マスターしたのよってことですが、もちろん、基礎中の基礎の文法は大学1年2年で習いましたが、後は、毎日、中国人と話して、中国人にメールを送り続けただけです…。
努力というよりも、自分が心に思っていることをどうしても先生(中国人)に伝えたかった、分かって欲しかっただけのことです。
頭に浮かぶ10個のことは、せいぜい、2,3個しか伝えられません。
そして、残りの8,7個は欲求解消のため、ブログなどにぶちまけられるわけです。

音楽も、ビブラートをどうやってかけてるの?とか聞くと、理屈を説いてくださる人もいれば(一般的に教えていることを生業にしている人に多い)、「なんとなくぅ」としか言わない人(演奏家に多いかも)もいたりします。
私は、最初、「なんとなく〜」としか言ってくれない先生に「首絞めたろか…」と思ったりもしましたが(笑)、考えてみると、自分も「どうやって外国語勉強したの?」とか「なんで、作文とかいっぱい書けるの?」と聞かれるたび、「なんとなくぅ」って答えていたことに気づきました。
きっと、首絞めたろかと思った人いるでしょうね。

結局のところ、私みたいな頭悪いタイプの人間は、「慣れ」でしか、物事が覚えられないようなので、心に表現したい音楽があって、どうしても、それを伝えたい、分かって欲しい人がいないと、上手くなりようがないのかなと最近思うのです。
音楽の場合は、そういう音が欲しいと思う憧れの先生は多少いるのですが、その音を盗みたいとは思っても、その先生に、私のこと(私の音色、私の音楽?)を分かってくれとは全然、努力してなかったですねぇ…。

例えば、あることをを表現したいとして、言葉なら10通りの言い回しを知っているので、適切な言葉を選んだり組み合わせたりできるけど、弾き方は、一つしか知らないので、表現の仕様が無いのです。
だから、自分の実際の音と胸の中にある音の不一致が気持ち悪くて仕方が無い。
演奏家は指先の感覚と気持ちは一致するそうなので、私の言う気持ち悪さは、よく分からないでしょうね。

しかし、私を分かって、分かって、って迫ってくるような下手な演奏する厄介な生徒いたら、ウザイですよね(^^;;
そこは職業と割り切って辛抱できるものなのでしょうか?

そもそも、中国語を覚えた時も相当ウザイ学生だったろうと、今なら分かるのですが、当時は必死で気づかなかったし、何よりも先生がいい人すぎて、ずーっと私の話を聴いててくださったのですよ。

いい大人の中途半端な音を我慢強く聴いてくださる人はそうそういるものではないので、どうしたらいいのか?
文章ならブログで無責任にぶっちゃければいいですが(誤字脱字を除き日本語自体の意味が通らない文章書く人は少ないと思う)、音はね…
YouTube?
そんな勇気ないですよ。
失笑されて余計、落ち込むでしょう。

だから、毎晩、練習の最後は、神様に伝えたい音を聴いていただくしかないのでしょうね。