二胡LESSON118,119,120

最近は「病中吟」を弾いていますが、これ、やんなっちゃうぐらい難しいですね。
正確に言うと、音取り自体はすごく簡単だと思いますが、弓の速度の変化が難しいと思います。
多分、要領のいい人は、習い始めて一年未満でも弾けちゃうと思いますが、本当に上手い人が弾かないと単調なメロディがダラダラ続くだけ。

簡単な音符がきちんと人の心まで届く音にするには、弓の速度を変えないと。
下手な人っていうのは、八分音符二つの一弓を、弓の長さを半分ずつ使って、同じ速度で引く(または推す)から、音に起伏ができず、平板になるわけですね。

で、理屈が分かっているのなら、強調すべき音と収束させるべき音の対比をきっちりつけて弾けばいいじゃん、ってことですが、天賦の才能に恵まれているか、10年以上地道に専門教育受けた人でないとそう簡単にいかないだろうなぁと思います。
途中から急に弓を速く動かせば、基礎が出来てない人は、弓にかかる圧力の変化をコントロールしきれず、音がかすったりブレたりすると思います。

あと二胡という楽器の宿命ですが、高音がでずらいのですよね。
私の二胡も内弦第四ポジションとかに入って来ると、Gの音がかすってうまく出せません。
これ、先生に訴えても、練習するしかないって言いますね。
かする音が気に障るから、思い切って弾けないままでいると、ますます腕は上がらない。
鳴りやすい楽器にするためには、弾きこんで、皮を育てるということが必要だけど、高音出づらいからっておずおず弾いてると、楽器は余計に鳴らない…
実際、音が全く出ないわけではなく、左手の指の圧力と、右手の弓の圧力と弓の速度がキッチリあっている時はちゃんと二胡の音になるので、楽器が悪いわけではなく、訓練すれば、いつでも楽にこの音が出せるとは思うのです。

でもね、日本の光舜堂さんとかの二胡だと、そこまで苦労しなくても鳴るんじゃないかなと思う…(^^;;
実際、私も数回お店で弾かせてもらったし。
ブログを拝見すると、中国の二胡の弾きづらさをいろいろ研究されてるからね。

私としては、自分の右手を甘やかす気は無いので、とりあえず、自分の中国製の二胡で、高音域になっても上手く二胡の音を引き出せた時の感触を覚えて、いかなる環境下でもちゃんと音が出るようになれば、怖いもの無しだなぁと思います。

光舜堂さんのブログで、二胡の演奏家の腕って太いって書いてあったけど、私もそう思います。
それだけの筋肉ついてないと、弓をコントロールしきれないでしょう。
腕の細いお嬢さんで本当に上手い人っていないよなぁと思います。
余談ですが、昔の勤め先に遊びに行って「前より腕とか太くなってない?」と言われました。
太ったんじゃなくて、筋肉だったら嬉しいんですが…どっちでしょうね(^^;;

私、人間が出来ていないので、時々、自分の音が嫌で嫌で仕方なくなって、不機嫌極まりなくなります。
そんな私にナナ先生か言った一言…
「北京の空気がどんなに悪くても、それで、あなたは呼吸をやめるわけにいかないでしょう?それと同じで、二胡を弾くって決めた以上、どんなに気に食わない音が出ても、弾くの!」
ハイ、すごく分かりやすい、北京に住む人ならではの、変な例えに笑っちゃいました。

二胡LESSON117

一曲をキチンと弾きこなせない、つまり途中で緊張して音が狂ったり、しくじったりすると、後はますます緊張してグダグダになって、聴けたもんじゃなくなるのです、私。
そんな私にナナ先生の言ったセリフは…
「途中で、ヤバっ、しくじった、と思ったら、もうここでしくじっちゃったんだから、後はもう、むしろ気楽になりなさいよ。しくじったら、ラッキー、これで後は気楽に楽しく弾けるわ〜と思ってそつなく終わりまで弾くのが、演奏者ってものです」

わはは…しくじったら、むしろラッキーってか?
すごい逆転の発想ね。
職業として弾いている人にとっては当たり前の心得なんだろうなぁ。
自分が自分にとってどんなに気に入らない音だそうが、間違おうが、時間芸術である以上、誰も待ってくれないから、やり直しはきかない。
止まる訳にはいかない。
ヤバっと思っても顔に出さず、不機嫌になるなんてもってのほか、立て直してキチンと最後までそつなく弾くべきなのは、頭では分かっているのですが…。
ずっと、一曲をきちんと弾けません。
ずっと曲の棒読み状態です。
時々、感情を抑えきれず、ヤケクソで弾いてます。
先生と一緒だと、つられて(というか、私が合わせようとするからですが)ちゃんとそれなりに優雅に弾けてたりします。
ナナ先生曰く
「本当に技術的に問題あって弾けない人は一緒に弾こうが、何回弾こうが、弾けないものは弾けないけど、あなたは、弾こうと思えば、流暢に弾けるのよね…」

私、過度な完璧主義とも理想主義とよく言われます。
そういう人は人生楽しくないし、病むよとも言われます。
ハイ、病んでます、すでに。
ただ、この重い性格の自分との付き合いが長いので、病みながらも生きていられるだけです。

今まで師事した先生、全ての方に言われましたが、私、そもそも天賦の才能にはこれっぽちも恵まれておらず、どっちかというとかなり頭悪くて不器用(いや、ここまでハッキリ失礼な言い方はなさいませんが、覚えるのに時間かかると言われてます)普通、そういう大人は続かないのに、やめないのがスゴイと言われます(笑)
どうしたら、出来ないことに対して、そこまで好きを保っていられるのか?
いや、だって、恋愛だって、叶わぬ恋と知ってても、明日から嫌いになれないでしょ(笑)

まぁ、音楽を趣味以外でやってる大多数の人が、程度の差こそあれ、才能を見出されて、子供のころから期待されてて、本人の意思に関係なく音楽やってて、放棄できませんから、そういう人からみたら、むしろ、私みたいに何も期待されてないし、並外れた成果もでるわけもなく、いつ放棄したっていいのにやめないのは不思議でしょうね。

だって、他にしたいこと、もう、何もないからね…。
逆に期待されたことを一生懸命やったからといって、結果が出るわけでもないということが痛いほど分かっているので、じゃあ、死ぬ前にやりたいことをやる方がいいやってか(笑)

だから、ハッキリ言えますが、誰でも続けさえすれば、どんなにドンくさくても私程度には弾けるようになるってことですね。
ただ、そこまでしてイタイ姿を晒して練習する意味やメリットは、普通の人にはあまりないというだけです。

二胡LESSON112

この日は前の生徒さんのレッスンがまだ終わっていなくて、待ちながらレッスンを拝聴しておりました。
小学生のお譲さんで、初級レベルという感じ。
のびのびと楽しそうに弾いていて本当に羨ましかったです。
もちろん、たまに音程狂ったりするんですが、悪いところはすぐ直せばいい、レッスン中に直りきらなかったら、お家で次までに練習してこればいい、そういう前向きな感じ。
「天真爛漫」でしたね。
付添いのお母さんも、レッスン終わるとお嬢さんを「よかったわよ」って褒めてあげてて、なんかむっちゃ羨ましかったです。
正直、死ぬほど羨ましかったです。
この歳になっても、人のお母さんを羨ましがってどうするって感じですが…

実際には、人間なのだから、好いところ、悪いところ、いろんな側面があると思うのです(それが個性でもあります)。
ただ、私みたいな性格の人というのは、仮に99の長所があったとしても1つの欠点があれば、1つの欠点だけがフォーカスされて認識されてしまい、本人的には99の長所が見えなくなります。
しんどいですね。
うちの親って、今もそうだけど、どんなに頑張っても褒めてくれないんだよね。
いや、おそらく、正確には、たまには褒めてくれたのだと思うけど、褒めるというより、かなり客観的に(人と比べて)淡々と長所と短所を言うので、私の脳には短所=人より劣っているダメダメな私、長所=他人だってできるのだから出来て当たり前、っていう図式になるのかもしれない。
他の誰とも比べずに、手放しで「素敵だったよ」「出来るようになってよかったね」的なそういう発想、うちの家族にはなかったと思う…

あと、大人になってからは、「仕事」というのは、「学習」と違って、「結果」だけがすべてですから、どんなに自分が頑張ろうが、意味ないんですよね。
一枚の文書がどんなに論理的にきちんとしていても、一つでも単純な誤字脱字があれば、他人の眼には「こんなところに気付かないなんて、不注意だ、信用できない奴だ」となるわけですからね。
誰だって、一生懸命仕事していると思うけど、その過程なんて、他人にとっては、どうでもよく、結果が付いてこなければ、無意味な努力です。
逆に、棚からボタモチの結果が付いてくることもあるかもしれず、それでもオッケーなわけで、運も実力のうち。

私にとって音楽は生計の手段でもないし、将来の生計の手段にもなり得ないと思うので、単純に楽しくやればいいのだろうけど、子供の頃から身についてしまった「欠点だけが増幅される目と耳」は、日々の練習や本番にも顔を出します。

音楽は時間芸術ですよね。
レコーディングでもない限り、基本的に後で修正なんて出来ません。
先生方だって舞台の上でしくじることもあるけど、瞬時に誤魔化すか、立て直しを図るわけです。
よく、「一か所、マズイところがあっても、それであなたのすべての演奏がダメと言うわけではない」と、先生方はおっしゃいますが、それは先生の他の技術や人間的、音楽的な魅力がミスを覆い隠してくれるからであって、これが世間の他のお仕事だったら、一か所ミスったら、すべてがダメで、場合によっては、努力とは関係なしに人間性まで否定されますよね(私の経験ですが…)。
そこがある意味、芸術に関するお仕事と、他のお仕事の違いなのかなとも思います。

だから、私はいつまでたっても、自分の音が好きになれないんですよね。
でも、こういう性格の大人に向かって、好い所だけフォーカスして「よかったよ」って言ってあげればいいのかっていうとそうでもないわけで、自分が全然出来てないのを知っているだけに、余計、むなしくなるという…

ある先生がおっしゃってたのですが、弾き方を教えるということが大変だから疲れるということもあるけど、いろんな人の感情に向き合うことになるので、それも疲れの一因だと…
そうだと思います。
弾くことを単純に教えているだけなら、そうは疲れないと思いますが、生徒さんに楽しく練習させて、上達させて、将来、一人でもやっていけるようにしてあげるには、その人の本質的なことに触れてしまうので、ちまたの産業カウンセラーよりも、カウンセリング的なお仕事をしているような気がしてなりません。

多分、私の心のドロドロ、モヤモヤした嫌な部分を一番よくご存じなのが、器楽の先生です。
親兄弟親戚、仲のいい友達、その誰一人として知らない一番醜い私の姿を見てしまっているのが、赤の他人である先生というのも、本当に気の毒な話だと思います(^^;

ダメな部分があっても、それは「学習過程」なのだから、仕方がないと諦めて、その代わり、将来の音を信じて練習すればいいということに尽きるわけですけどね。
普通、私のようなネガティブな思考をする人は、器楽を勉強するのが長続きしない筈なのですが、それでも続いているのが奇蹟だったりします。
ある意味、そんなに辛い思いをしてまでも「手に入れたい音色」に対する執着がすごいということなのですが…

そもそも、ピアノなどと違って、音を出すこと自体、音程を取ること自体、非常に難しい二胡という楽器を、音楽的な才能がないのにここまで続けてこられて、ある程度弾けるというだけで、スゴイことだと思うんだけど…
これ、ナナ先生の私に対する正直な感想だったりします。