二胡LESSON112

「手に心を無理やり合わせるんじゃなくて、心に手を合わせようよ」

は~い、技術発展途上国の私には難しい課題ですね。
技術的に速く弾けないから、おのずと意図していないところで、変な間ができる…本当はそんな風に弾きたいんじゃないけど、そうなってしまう、だから、気持も「もう、こんな感じでええわ」、と妥協する…

いつも言われてることですが、
「音符はそれなりに弾けてるのに、歌ってないのよね~」
しかしながら、推弓で一弓の途中で換弦して、速く弾くって難しいですね。

最近、自分の身体なのに、コントロール効かなさ過ぎて辛いです。
速くなってくると、マジで、今、動かそうとしたのが、人差し指なのか、中指なのか、今、何指が動いたのか、分からなくなりませんか?
あ~あ、やんなっちゃうな~♪
っていう歌、ありましたよね?

【余談】

今、先生が借りているお部屋は仕切りがないタイプなので、生活空間が全部見えちゃうんですが、個人である程度の年月教えている私のような同性だと、お部屋でレッスンしてくださいます。
あまり、よく知らない子とか、異性は同じ区内にある音楽教室の自習室を融通してもらうみたいですけどね。
ナナ先生はテディ(正しいかな?)という種類のわんこを二頭飼っています。
レッスン中は大人しくゲージの中にいます。
そのうちの一頭の「まるこ」ちゃん、寝そべって、目を細めたまま、ず~っと私の方見てるんですヨ。
「あたしら、早く外にでたいんだよね~さっさと弾いて、さっさと帰ってよ~」とでも言いたいんでしょうかねぇ。
ナナ先生曰く「ゲージの種類を何回か替えたこともあるし、ゲージの向きをいろいろ変えたこともあるけど、まるこは、ゲージがどんなに変化しても、いつも、同じ場所に手を引っ掛けて寝るんだけどねぇ。今日は向きを変えてるわ…何でだろう?」

いつもの習慣を無視して向きを変えている…
ということは、私を見るためですよね?
確かに私はわんこ大好きなので、わんこにも好かれやすいですけど。
調弦してる時、微妙に頷いて見えるのは、私の気のせいなのか???
子供の頃から、大勢の人が傍で二胡を調弦する音を聴いてきたので、A線とD線の絶対音感とか身についているのかも…なさそうな話でもあるまいと思うのでした。

ヒヨコ頭でも楽器は弾ける

実は、私は脳がどんくさいので、自分の身体の見えない部分の使い方が分からないです。
分かりやすく例を挙げると、目をつぶると自分の手先がどこにあるのか、どういう動きをしたのか分かりづらいということ^^;
自分の身体見取図が不正確(というか不完全?)で、自分と他人(と言っても、全ての他人ではなく自分にとって重要な人)との身体の境界が不鮮明な時があります。
加えて、感覚が過敏なところと鈍いところの差がありすぎます。

夫が机の角に足ぶつけると、自分が「痛っ」と叫んでしまう…
そのくせ、知らないうちに怪我して血を流していても気づかなかったりして、後で、こんなところにカサブタが…と思ったり。
でも、ひどく怪我すりゃ、痛って分かりますよ^^;
歯磨き、特に歯間ブラシは鏡見ながらでないとできない。
逆立ちできないし…かと言って、根本的な腕力が不足しているわけじゃないです。
自分の足先や背中をどうもっていけばいいのか本当に分からないというか、怖いです。
泳げないし…とはいうものの、顔を上げて目を開けたままなら、平泳ぎで50mくらいなら、ノロノロと泳げます。
ちなみには母は、本当にカナヅチで、普通に力抜けば人間って浮くはずなのに、沈んでいきます…力入れすぎてるんだろうねぇ。

こういう人はマイノリティですが、確実に社会に多少なりともいらっしゃいます。他人に信じてもらえないので、さらけ出す勇気がなく、黙っておられるだけかと…運動機能そのものがかなり劣っているわけじゃないので、他人には理解し難いのかも。
あ、別に心配してお医者さん紹介してくれなくてもいいです。
原因おおよそ知ってますから。
決して、やる気ないとか、ふざけてるとか、反抗してるわけじゃないのです。
単にわかんないんですよぉ〜〜〜

そういう人もいるんだという前提で、楽器の練習のお話を続けます。

三弦の弾き方を根本的に変えました。
あまりにも前の方法と違いすぎるので、修正が大変。
厳しい先生だと、どうして言われた通りにできないのかと叱られちゃいます。
だって、言ってる意味と、どうやったら、そのように身体が動くかは別物なので、自分の身体の動かし方がわかりません。
比喩ではなく本当に…。例え日本語で言われても同じですが、多くの先生は私の中国語コミュニケーションのせいと良い方向へ勘違いしてくれて、手を出してくれるので助かります。言葉の字面的な意味は翻訳できるほど、実は承知しています。

聞いて分からないのなら、先生を模倣すればいいじゃん。
その通りですね。
で、模倣しようとすると、本当に見えた通りに自分もやっているかどうかっていうのは、じぃ〜っと自分の手先を見ないと分からないのです。
だから、どうやら、どの先生も不思議に思うようです。
どうして、穴が空くほど、他人や自分のやってることを見つめるのかが…。
普通、音の場所がわからなくて、三味線とかだと棹を見る、ピアノなら鍵盤を見る人は多いと思いますが、そうじゃなくて、私はただ弾けばいいだけの先生や自分の手そのものを見るんですね。
だって、言われた方向に弾いているのか、本当に見ないと分からないんだもん。

それと、楽譜見ろって言われると、じぃ〜と楽譜を見続ける必要があるので、他の感覚がいっきに麻痺して、今、何してるのかが分かりません。
例えば、車の運転なんかさせた日には、目に映るもの全てに集中するので、情報処理と身体制御が困難で、ぐったりと疲れます。
車から降りて、貧血おこしてクラっときて以来、別に好きで免許とったわけじゃないのでペーパードライバーです。

じゃあ、あんた、子供の頃から、どうやって、楽器弾いてきたの?
…って思いますよね^^;
楽譜は基本暗譜、いつも間違いそうになる箇所だけ、譜面のあそこに書いてあったと場所を記憶していて、本当に忘れそうになったら、そこだけパッと見る、そういうことです。
暗譜そのものは、音源でメロディとリズムを覚えています。

初めての行為、慣れない行為は、ずっと見てないといけない…。
関係ないかもしれないけど、電子レンジもよく見つめるらしい。
セットすれば勝手に出来上がるのに、ずっと前で待ってしまうのは何故だろう?
流石に洗濯機は見つめない…それは中が回っているのが見えないから、面白くないせいかと…^^;

で、先日、先生がおっしゃいました。
「いい音がしたら、見てなくても動作は正しいはずだから音色で聴き分けなさい」

なるほど、一理あるなぁ。
音色と自分の行為の関連性なら、私のヒヨコ頭でも覚えていられたわ。

でもね、「いい音」という概念は実はくせ者。
それは、その文化圏の中で良しとされている音なので、自分の思ういい音と全然違うのよね。
もちろん、自分の好きな音とその業界で言われてるいい音がほぼ完全に一致する場合もあります。
私の場合は三味線の師匠の音がそれで、だからお稽古代心配した師匠に、弟子を紹介しようかと言われた時に、師匠じゃなきゃやだ〜と断りました。

この際だから、ついでに言うと、子供の時に、協和音とか不協和音とか、メジャーとかマイナーとか、寂しい感じでしょとか、先生は勝手にいろいろ概念を押し付けるけど、私にはそう聴こえないんだが…と思うこともあったなぁ。
だってさぁ、増四度とか、欧米では悪魔の音とかって嫌がられるんだって?
私的にはめっちゃ、怪しくていい感じよ。
どういう風に聞こえるかを、音を聴かないうちから、同意を求めないでほしいわ。

だから、三弦の場合、「ほら、今の音、いい音したでしょ」って言われると、そうか、これが目指す音なのね、と記憶するようにしています。
本当は自分的にはそれが理想の音でなくとも。
三弦の目指すべき音はいい音っていうより、私的には中国の路地の匂いプンプンで、ちょっとキツイ感じなのよね。

そういえば、実際、名人と呼ばれる人の中にも、どうしたら、そんなフォームとそんな姿勢で長時間、弾いていられるの?という人がいらっしゃる(私がそう思うのではなく、今まで交流してきた全ての先生が口にしたセリフ)。
だから、王道というのはあるのだろうけど、一ミリの差もなく先生と同じように動かせるわけもないのだから、そこは無視していいのか…
という結論に落ち着きました。

もしかして、私のようなマイノリティ以外の人は皆、普通に当たり前にそうしてきたのか?
ははは…先生方、世の中にはこういう人もいるのよっていう参考にしてくださいm(_ _)m

弾く、描く、書く=話す

「よく“障害者でもピアノが弾ける”と演奏会などの宣伝文句に使われるけど、“障害者だからピアノを弾く”“障害者だからピアノが必要だ”、っていうのが本当は正しい感じがすると思う」
これは、広汎性発達障害者のピアニスト野田あすかさんの言葉。
すいません、一字一句覚えていませんが、だいたい、こういう意味だったと思います。
(こうはんせいはったつしょうがい、PDD, pervasive developmental disordersとは、社会性の獲得やコミュニケーション能力の獲得といった、人間の基本的な機能の発達遅滞を特徴とする「発達障害における一領域」―ウィキペディアより引用)

この気持ち、なんか、分かるなぁ。
すべての障害者や心の病を患っている人がそうとは言えないと思うし、心身健康な健常者でも、ある意味、自己表現、他人とのコミュニケーションに欲求不満を抱えている人は、楽器を弾かざるを得ない、絵を描かざるを得ない、文章を書かざるを得ないのだと思うんですよね。
もちろん、健全(?)に、趣味や職業として、弾く、描く、書く人もいるんでしょうけどね。
私にはむしろ健全に弾く、描く、書く人の気持ちは分からないかも。

ちなみに、私は人がコワイです(お友達は除く)
傍からそうは見えないかもしれませんが、本人的には、あまり面識のない大勢の人前で話さなくてはいけない時とか、初対面の人はコワイと思って身構えています。
その証拠に、18歳で就職して以降、鎮痛剤が常備薬で、いつも持ち歩いています。
初めて会う人ばかりの接客業や電話の問い合わせに答えるような仕事はフラフラになります。
初対面の人に会う時とか、会議の前には予め、気休めとして、半分の量とか、少なめに飲んだりもします(結局、頭痛がするので、残りの半分を飲む羽目になることもありますが)。
一番向いていない仕事をしていた時なんかは、薬局のオバちゃんが心配して、あんた薬の飲み過ぎはダメよ、薬飲む前にコーヒーとか飲んで代替してみたら?と注意してくれました。
今は大丈夫ですけどね〜学生兼バイトみたいな生活だから周囲は優しいもの。
子供の頃は、引っ込み思案なのね、内気なのね、恥ずかしがり屋なのね、ってよく言われましたが、違うと思うんだよね(笑)
誰も分かってくれないみたいだけど…
他人の意図が分からないのがコワイ、意図したように伝わらないのがコワイ、よって何か失敗やらかすのがコワイ、人に誤解されるのがコワイ、後で怒られるのがコワイ、結果として人もコワイ(汗)
こんなに、文章だらだら書いてアップするんだから、それはないでしょうと思うかもしれないけど、これは顔が見えないから、平気なのです。
万が一、思ったように伝わらなかったり、誤解されて伝わっても、相手が言わない限り私は知らないし、相手から、お叱りが来たとしても、リアルタイムのやり取りではないので、私のようなワーキングメモリ不足の頭でも、瞬時に返答する必要はなく、じっくり考えて、後で字だけのやり取りで誤解を解けばすむからです。

よく、文章が苦手、書くのは面倒という人が、「書こうと思うと身構えて、なかなか書けない」とおっしゃいますが、それはおそらく、リアルの生活がとても充実していらして、自分をその都度、きちんと表現出来て、周囲の人と共感できているから、そもそも、書く必要がないからなのだと思います。
私なんて、そもそも、「書こう」と意気込んだことなんて一度もなく、むしろ書きすぎるとウザいから削ったり、アップするのを我慢したりします。
パソコンをこうして打っている間にも、書ききれなかったことが頭を通り過ぎていくので、脳にケーブル繋いで、直接、パソコンに入力、出力できたらいいのにと思います。

そんなわけで、私の、書く、描く、弾くという行為も、多分、普通の人の「趣味」とは少し違うような気がします。
好きな曲を適度に上手に弾けたら満足できるというものじゃないんだよねぇ…
(もちろん、そういう一面もありますが…)
書く、描く、弾く、それをしないと死ぬしかないから、やってるんです。
大げさな、と思うかもしれませんが、多分、障害や病気もちの人には何となく分かる気持ちだと思うのですが…
だって、内側にたまっているものは、出さないと、爆発しちゃいますよ。
岡本太郎さんではありませんが、芸術はバクハツだ~~~

弾くことはコミュニケーション手段です。
だから、正直に言うと、私は大合奏はあまり好きではありません。
だって、別に誰も一人一人の音を聴いてないし…冗談抜きで300人レベルの合奏だと、人のこと言えませんが、音程やリズムのズレは避けられないので、人とお話しているのとは違います。
一番好きなのは、三味線の師匠とお稽古してる時かもなぁ。
私が弾いて師匠が替手を弾いている時が一番楽しい。
三味線の場合は、昔は口伝だったせいか、他の楽器と違って、先生が看てくださるというよりは、ほとんど一緒に弾いてくださるわけで、師匠はプロだから私がどんなに音程や速度やリズムが狂っても合わせてくれますしね…
弾くという会話が成り立つので、とても楽しいわけです。
(後で録音聞くと、よく、こんなデタラメに合わせてくれたなぁと思います…)
そういう意味で、私は二重奏、三重奏、ぐらいがとても好きです。
嫌いなのは、多重録音…同じ人が同じ楽器で違う旋律を弾いて多重録音すると、一人の人が何十本の指で弾いているようにしか聴こえないので、ものすごく気持ち悪いし、同じ音色しか見えないのでツマラナイ。
大合奏は会話なんてないので、弾く側としてはあまり好きではないけど、舞台に立つよい訓練になるので、機会があれば、淡々とやらせていただこうと思います。
(↑師匠がたまにご覧になっているので敢えて書いておかないと…)

ある種の人達は、野田あすかさんの言葉を借りれば「誰も私の言うことは聞いてくれないけど、ピアノだったら聴いてくれるから、ちゃんと伝えたい、だから頑張って練習する」わけですね。

私は、子供の頃、絵を描くとたまに褒められたけど、自分が納得していなければ、破りました。
私の心の中で思い描いているのと、全然、違えば、意味ないですから。
自分の心の中と、アウトプットされて出てきたものが、ほぼ、同じものであって、且つ、他人も喜んでくれるっていうのが一番いいわけですが、飛びぬけた才能や技術がないとそうはいかないのが辛いところ。
書くことは、手があれば誰だって書けるから(いまやパソコンがあるので手すら要らないですね)、訓練なんて要りません。
だから、一番楽ちんな表現方法です。
直線や曲線を描く、色を付けるのは、ある種の人にとっては訓練がいるのかもしれないし、余計にストレスになるのかもしれないけど、私は別にさほど苦になりません。
音楽はね、知識いっぱいいいるし、結局のところ、運動能力がどうしても必要だから思うようにならないのが悔しいですよね。
思うようにならないので、今のところ、ただ、淡々と技術の向上のためだけに弾いていたりします。

だから、こんなことを書いているわりには、私の演奏は、超ツマンナイ、というわけなのです(汗)。
でも、人とおしゃべりしたいから、下手でも弾かずにはいられない…(すごい矛盾)
私の場合、病んでいるから弾かずにはいられないのです。