二胡LESSON106

「弓を引いたり推したりする動きは、静止していなければならない…」
はぁ?(゜_゜)
実際、動いているのに静止していなくてはならんとな?
言葉を額面通りに受け取ると、ほんと哲学ですねぇ。

ナナ先生曰く、安定した(というか正しい?)動きをしている時、自分では手を動かしているという感覚すらないのだそうです。
まぁ、ものすごく速いスピードで弾く時なんかは、ちょっと力入れなきゃな~程度の力を感じるときを除けば、ある程度の技術レベルに達した人は、「どこそこを動かして~」という意識がなくなるそうです。
実際、弓を引いたり推したりする時、腕、二の腕、手首、指の関節など、様々な部署が連携して微妙な動きをしているわけですが、次にどこを動かして、その次は~なんて脳がいちいち指令出してたら、速い動きに間に合いませんよね。
初心者の動きがぎこちないのは、やはり、いちいち、それぞれの動きを気にしているからでしょう。
複数の動きが統合されて、「弓を引け」という一つの命令で、ちゃんと即、安定した正しく美しい動作に直結する、それが「静止」している動きなのでしょう。

そういえば、脳の指令の統合と言えば、三味線の師匠の回答が実に興味深いのです。
12から14のツボのスリ(滑音)を4回繰り返すところ(14から12に戻るときに滑音は付けない)について、私が「どこで力抜いてるんですか?」と聞いたら、「力なんてどこも抜いてないよ」という答えが返ってきた。

私と師匠の脳みその違いはこうだと思っている。
【私の脳みその指令】
1、左手人差し指を指板にしっかり着けた状態で、12から14のツボに移動する。
2、左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る
3、左手人差し指を指板にしっかり着けた状態で、12から14のツボに移動する。
4、左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る
5、左手人差し指を指板にしっかり着けた状態で、12から14のツボに移動する。
6、左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る
7、左手人差し指を指板にしっかり着けた状態で、12から14のツボに移動する。
8、左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る
全部で8つの指令が出ている…

【師匠の脳みその指令】
1、「左手人差し指を指板にしっかり着けた状態で、12から14のツボに移動して、左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る」を4回繰り返す。
という一つの命令に統合されていると思われる。

だから、私の場合、少なくとも「左手人差し指を指板から離して、12のツボに戻る」時に、あたかも「ここで力を抜かなければ!」という余分に意識するプロセスがあるわけだけど、師匠の場合は、そもそも、どこかで力抜いたっていう意識すらないのだろう…
実際には、左手人差し指が12のツボに戻る時に、力入れっぱなしだったら、指が指板から離れないため、要らないところに変な滑音がついてしまい、正しく弾けるわけがない…

まったく、私の頭はただでさえ、普通の人よりメモリが足りず、加えて手先が不器用なのに、人より多くの指令を出しているのだから、処理スピードが遅くて仕方がない…
10年くらいやってりゃ、そのうち、一つの命令に統合できるんでしょうかねぇ。

二胡LESSON104

さて、今回のレッスンは30分くらい、長弓と音階を弾いていたでしょうか。
あはは、私ぐらいの年月習っていて、ある程度簡単な曲は弾ける人がこればかりやるって、日本の教室ではあまりないことかもしれないですね。
いや、中国でも、中央音大のXX先生はこんな簡単なことばかり何度もやらせて、時間の無駄だったというような話はあるようです。
じゃあ、無駄なことしてたの?先生が手を抜いてたの?
むしろ、逆ですよね。

今回のポイントは触角…ちゃうちゃう、「触覚」です。
人間って、いちいち沢山のことに注意を払えないんですよね。
音階を弾く時、私は通常、音程に気を取られて、他の大事なことに注意を払っていません。

子どもの頃、よく騙されませんでしたか?
「バスに3人乗りました。次の駅で2人降りました。次の駅で5人乗りました…」
ときたら、普通考えられる質問は「今、バスに何人いる?」ですが、「バス停何個あった?」とやられると、誰も気にしていなかったので、「あれれ?騙されたよ~」となります。

「スカート穿いてる通行人を数えていてね」と子どもに言えば、普通はちゃんと数えていますが、後で「どんな色が多かった?」「どんな柄が多かった?」と聞いたって、特にお洒落に興味ない子は覚えちゃいないですヨ。こういうことは、予告しておかないと、誰も注意を向けません。

同じですね。素人が音階弾く時、普通は音程の狂いに最大限の注意を払っていますから、誰もそれぞれの音の「振動」「共鳴」が同じかに注意払ってますでしょうか…

言われちゃいました。
私が何気に音階弾くと、それぞれの音の共鳴に、ばらつきがあるのです。
音程はだいたい合っていますから、普通はハイ、OKで過ぎちゃうところですが、盲点ですよね。
どうやって、均一にするか。
それはもう、耳(音量や音質みたいなもの)と指が感じる「振動」の感覚なのですヨ。
心をまっさらにして、音程なんてだいたい合ってりゃいいからというつもりで、指だけに集中すると、弦ってこんなに震えてたんだなぁ、ということに気付かされます。
もっと言えば、楽器って全体が震えてますからねぇ。

ナナ先生の提案は、「夜に真っ暗な部屋で、音階弾きなさい」
まぁ、日頃、目をつぶってても同じことですが、出来れば静かな方がいいからでしょうね。
ちなみに、私は三弦系の楽器を弾く時は、つい棹を見ることがあるので、真っ暗は怖いかもしれないです。棹を見るのもよし悪しで、この前なんてぼけ~っと弾いてたら、高音域で師匠と全然音が合わない。
あれ、押さえてるところはそんなにズレてないと思うけどなぁと思ってたら、糸そのものが緩んでたという…途中で、聴覚で気付いて糸まけよって感じですね(汗)

二胡になりますと、そもそも弦を見たって、そんな音程の微妙な距離なんて視覚でコントロールできる範囲じゃないですから、全然、見ません。
別に暗かろうが、明るかろうが、よそ見してても、第三ポジションくらいまでなら、音程狂わず弾けますよね、普通。
そういう視覚OFF状態であるにもかかわらず、耳は音の高さだけに集中していたので、弦が最大限に振動しているかなんて気にとめていなかったのです。
人差し指で押さえる時、中指で押さえる時、薬指で押さえる時、その弦の振動している感じにばらつきがあるので、綺麗な音が均一に出ていないのです。
例えば、D調なら、暗闇で、薬指でファの音を出して、その振動感覚と同じにように鳴るように、同じ音を今度は人差し指で弾いてみる。
同じ音を違う指で弾いていって、均一かどうかに注意を払ってみる。
そういう練習を一回5時間ぐらいしたら、1日くらい練習せずほったらかして、1日後にまた楽器をさわってみると、あら、前より指の感度が良くなったような気がするよ…
ということがあったりするのだそうです。

まるで少女漫画「ガラスの仮面」の北島マヤがヘレンケラーを演じる前の特訓みたい…
(余談ですが、あれ、まだ終わってないんですね…70年代から連載!?…実写ドラマでマヤを安達祐実さんが演じておられたのがついこの間のような気が…そんな彼女も今は立派な大人…)

目の見えない音楽家の聴覚もさることながら、触覚というものも、目の見える人とは比べ物にならないくらい敏感なのだと思います。
そもそも、目の見える演奏者にとって、目って、譜面を見るということと演出効果以外に何ら役に立ちませんから、練習する時なんて、そもそも目を開けている必要なかったんだよね(笑)。

口伝心授

先日、「伝統文化と音楽パフォーマンス芸術フォーラム」っていう学術研究会を傍聴してきました。

そこで、最近は録先生が大人気という話になりました。
録先生って、要するに録音録画教材のことです。
録先生の真似すりゃ、誰でもある程度、できるようになりますよね。
でもね…
録先生は一方的に教えてくれるだけで、あなたのことなんて考えてくれないんだよね。
しかも、自分はそっくり真似ているつもりでも、本当に真似できているか分かったものではないんですね。

そして、困ったことに、例えば京劇なんて、西洋音楽のリズムではないし、現代標準語のイントネーションで歌ったりしないんですよね。
どうしても、先生が経験を語ったり、その場で動作を修正してあげる必要があります。
伝統芸能の一般的な教授法、つまり、一対一の口伝及び心のコミュニケーションーこれを中国語で口伝心授といいますが、どうしても必要になります。

京劇でなくとも、楽器なんかもそうですよね。
本当にうまくなりたい場合、口伝心授のレッスンしかあり得ないと私は思います。

録先生と生先生、違いを思いつくまま、書くと…

実は、楽器がある程度できる人は、譜面や録音があれば、テキトーなら弾けちゃいますよね。

でも、音の困ったところって、録音と生音違いますよね。

科学的に測れるものでいえば、身体に感じる音の振動が違う。
弦楽器なら、試しに先生の楽器と同じようにきちんと調律した楽器を持ったまま、先生に模範演奏を目の前で弾いてもらった場合、弾いてない自分の楽器も同時に歌い始めます。
歌うとかいう比喩が嫌いな人のために、事実だけ述べれば、開放弦で明らかに、自分の楽器の弦も振動するのが分かるということです。
ちなみに耳の不自由な方の中には身体で振動を感じて、音の違いを感じている人もいると聞きます。

さて、民族音楽などの場合は、リズムやアクセントをいわゆる西洋音楽の譜面どおりに読んじゃいけないわけですが、一緒に弾いた時、聴覚で自分の音程、間の取り方が判断できるという点は、録先生も生先生も同じです。

でも、実は生先生の場合、たまには間違うことあります。
通しで弾いてる時などは、こちらが止まらない限り、とても上手に誤魔化されます。
誤魔化し方も学習できます(笑)

非科学的な面をいえば、録先生の音も素晴らしいけど、生先生の周囲は空気の流れがすごい…
一緒に弾くと、自分も飲み込まれて、上手くなったような気がします。
いわゆる、つられるという現象が起こりますが、つられるって悪いことみたいだけど、うまい人につられるなら、その時の感覚を自分一人の時にも再現できるよう頑張ってみればいいんですよね。

ついでにいうと、譜面は違っていることもあります。
生先生は、譜面のミスプリを教えてくれます。
でも、意外と素人の私の方が譜面のミスによく気づきます。
先生はもう頭で覚えていないので、譜面が見たいように見えてしまうという、玄人ならではの習性があるようです。

ところで、若い先生が生徒の興味をひくために民族楽器を使って西洋音楽を弾くことを全く否定しないけど、西洋音楽のリズムで、東洋の古い曲を教えるのってどうなのかなとたまに思います。
その一方で、世間一般の人に理解し難いリズムと言葉を守ることに意味あるのかいな、と悲観的になる若い先生の気持ちも分からなくもない…そんなことやってたら、同年代の友達できないし、飯食えないからね。
それとも、生徒のリズムやアクセントが西洋流になっていて、「それ直しなさい」と注意して、もうお稽古辞めたいとか、音楽が大嫌いになられちゃうのも、本末転倒?な感じで哀しいから、そのまま、放っておいてるだけなのかな。