歌えない人は弾けないし、教えられない

声楽や管楽器の人にとっては、呼吸がおかしかったら、メロディにならないので当然、呼吸を意識してることと思います。
でも、撥弦や擦弦楽器の人はどうなんでしょう…
もちろん、上手い人は手も呼吸も合ってると思いますが、実際、手と呼吸がバラバラでも弾けちゃうので、不器用な人(あたし)は呼吸がおかしかったりします。
だから、楽器が歌わないんだということに気づいてから、とにかく意識して、息を吸うべきところで大きく息を吸うようにはしてますが、時々、上手く吸えません(速いフレーズを弾くと息止めちゃって、吐ききれてないので、上手に吸えないんですね)
おそらく、呼吸が浅いというのも、弾くとあがるという現象の原因の一つになってると思います。

私の中国三弦の先生は、意識しても息吸えない私を見かねて、目の前で、メロディをラララと歌いながら大げさに息吸う身振り手振りの演技してくださるんですよ。
あら〜〜不思議…先生の歌の抑揚に合わせて息を整えながら弾くとすんごい楽。
私のヘッタクソな三弦でも、私の心の声に合った音が出て、ちゃんとメロディとして、音の粒が繋がるんです。
プロのピアニストとかでも、ブツブツ歌いながら弾く人がいて、好き嫌い分かれるところですが、なぜ歌っちゃうのかわかる気がします。
私も聴衆に分からない程度にブツブツ歌いながら弾いたら、多分、もう少し、自然な呼吸ができるような気がします(笑)

子供の頃から音楽やってる人は、耳が良くて音程外さず歌えるっていうのは分かりますが(中には弾くのが上手くても音痴な人もいるけど)、先生がラララで歌ってるメロディがあんまり上手なので、歌を習ったこととかあるんですかと尋ねたら、別にないけど、昔から歌うのは好きとおっしゃいました。

なるほど、この前も大風が吹いた日に、「大風来了〜〜」って楽しそうに歌ってたもんな。

そして、もっと納得したのは、
「それに、歌えない人って教えられないと思うわよ。だって、ああしろ、こうしろって言葉で言うのは、単なる「知識」で、本読めば誰だって分かる情報の伝達だけど、こう弾けっていうのをラララって歌ってあげれば、手っ取り早く、イメージ伝わるでしょう?現にあなただって、あっという間に理解して、つられて弾けたじゃない」

ううむ…確かに。
楽器が歌うように弾けとか、何かを語るように弾けって俗に言うけど、これって単なる比喩じゃなくて、上手く弾けてるときって、本当に楽器が体の一部になってて、歌ってるんだよなぁと最近、思うのでありました。

多分、手先が器用で、チャカチャカ凄いことやってても、全然、感動しない演奏というのは、手だけ動いてて、歌ってないからなんだろうなとも思うのでした。
逆に手が大したことやってなくても、歌っていれば(心と手が一致、呼吸と手が一致)、コラァひでぇという演奏にはならないんじゃないかとも思うのでした。

「演」とはどういうことだろう?

「演」という字を見て、思いつく言葉といえば「演劇」「演奏」。
「演」ってどういう意味なんだろうと中国語の辞書を引くと
「発展変化すること」
「押し広げる、展開する」
「演じる」
「(一定の法式によって)練習する、計算する」
と出てきます。
「演劇」「演奏」の演は、「演ずる」という意味なのでしょうね。
とは言うものの、そもそも「演ずる」ってどういうことだろうね?

一般の人は、よい俳優さんは、完全にその役になりきっていると思うかもしれないですが、実際は違います。
熱く演じながらも、頭はかなり冷静な部分を残している筈です。
私が本で読んだり、周囲の俳優さんが言ってたことをまとめると、おおよそこういうことです。
まず、俳優は往々にして「役」「俳優自身」「観客」の3つの立場から物事を見ています。
初心者だろうがベテランであろうが、俳優は、この役なら、こう考えたから、こう言った/こう動いたに違いないというようなことを考えながら脚本を分析したり、演技計画を立てています。
これが「役」の視点。
初心者は、「この時、この役はこのように感じている」を脚本から推測しただけで終わり。
経験が長くなるにつれ、「それでは、そのように感じているように演技するにはどうしたらいいか」を考える時間が増えていくのだそうな。
そして、もっと経験が長くなると「自分がこのように動くと、観客からどう見えるか」をきちんと把握できるようになり、更に経験が長くなると「劇全体の中で自分がどう見えているのか」もきちんと見えるようになるんだとか。
まぁ、確かに初心者の演技って、往々にして、観客を置き去りにした独りよがりの気持ち悪さがありますわね(汗)

この法則を「演奏」に照らし合わせてみるとどうだろう?
実際、心理学者などが実験しているのだけど、ベテランほど自分の演奏をまるで初めて聞く観客のごとく、客観的に聴き、自分の意図するように聞こえているかを考えながら自分の演奏を調節しているのだそうです。

私自身はどうだろう?
実は、私、自分が弾く場合、あえて「演奏」という言葉を避ける傾向があります。
だって、私、今まで、いろんな楽器を習ってきたけど、まともに「演奏」できたことないんだもの。
はい、私の基準によると、習った曲は「弾ける」けど、一曲もまともに「演奏」できません。

上記の演劇人の法則に照らすと、私は「役」の視点をすっ飛ばして、何かを表現しようとは思わずに(むしろ否定しながら)「自分自身」の視点に立っている時間が長いのです。
つまり、いちおう譜面は読んでいるので、「ここはこう弾くべき、こうすべき」という手順だけは分かっているつもりです。
だから、私の頭は、次はこの音がくるから、早々にポジション移動して、このくらいのスピードで、という指示はしているつもりです。
でも、技術が伴わないので、(例えば速く弾くべきところ、間に合っていない等)思った通りに音が出ていないこともよくあります。
そして、音程のズレが気持ち悪いので、自分の音に嫌気がさします…
ちなみに、実際、チューナー見ても、数値的にさほど狂ってなくても、20セント程度の狂いであっても前後の音と上手くバランスが取れてなかったら、めちゃくちゃウンザリします。
先生に言わせると、多くの子供はそういう事に無頓着だけど、あなたは気にし過ぎなのだそうです。

演奏は、演劇みたいにはっきりとストーリーがあるわけではありませんが、少なくとも作曲者の意図は楽譜にヒントが書いてある筈です。
私なんぞは、ただ音符を拾っているだけで、これはこういう情景を表現したいのだろうから、こう弾いたらいいんじゃないかということに頭が回りません…。
大昔から先生に言われていることですが、「話すように弾け」というのは、先生はせめて作曲者の意向は汲みながら弾いてほしいということなのかもなと思ったりする今日この頃です。
しかしながら、こう弾いたらこう聞こえるだろう、という視点に立つのは難しいですね。それって、手が自由自在に弾けてないと大脳は「きちんと弾く」ことに注意を傾けないといけないので、それどころじゃない。
ついでに言うと、楽器に一番近いところにいる自分としては、正直、自分の音がウルサイ…というか鬱陶しいんですよね。
(初心者ではないので大きな音が出せるのでウルサイというのもあるのでしょうが…)
多分、皆さん、好きで習っているし、続けていらっしゃるし、練習するのだろうから、自分の音がウザかったらとっくにやめてる筈で、ウザいのにやめない私はかなり変なのかもしれません。

最後に「観客」の視点ですが、これは、もう何十年も先にならないと見えないでしょうね。
技術上の問題もありますが、心の問題もあるので。
そもそも古琴などの芸術にみられるように、大昔は自分の音というものは、本当に仲いい人だけが知ってればよかったものなんですよ。
だから、自分の理解者のことを「知音」というんです。
なにも、大勢多数の人に認めてもらう必要なかったわけで…
だいたい、私、子供の頃から、ちょっと人と感じ方が違うところがあって、大勢多数に合わせるということは自分を裏切ってズタズタにして殺すことになるのです。

でも、演奏を生業にする人はそんなこといったらダメだし、演奏活動を生業にしなくても、町のお師匠さんみたく教授活動する人は、少なくとも自分の生徒さんには素晴らしいと思ってもらう必要があるわけですよね…。
趣味でやってる人は、「観客」の視点で考えてもいいし、考えなくてもいい…だって趣味じゃん。自分が楽しければそれでいい(お金もらってるわけじゃないんだから…)

で、生業でも趣味でもない私はどうすべきか。

私としては、せめて死ぬまでには、この曲はこういう情景を表現したいのかも、こういう風に弾くことが期待されているのかも、というのを考えて、そしてその考え通りの音を自分自身が感じられるように弾けたら、いいなとは思っています。

付けたしですが「演奏」と「伴奏」は、私は違うと思っていて、伴奏は、演者である唄い手や踊り手に合わせないといけないという点で難しい技術を要求されますが、自分自身は演ずる必要はないという点では、楽かもと思います(もちろん、演者をひきたててあげなくてはならないという別の重大責任を背負わないといけないですが…)

やっぱり三下がりが好き

三味線の調弦で「三下がり」というのがあります。
私はこの調弦の響きが大好きです。
今日、三下がりの曲ばかり練習していたら、棹にハエがとまって動きませんでした。
ううむ…私が下手だからからかいに来たのか?
それとも、この響きの振動がたまらなく身体のツボに効くのか?

「三下がり」というのは、
例えば一の糸(一番太い糸)をCに合わせるとすると、
一の糸C、二の糸F、三の糸オクターブ高いCと合わせるのが「本調子」。
そこから三の糸(一番細い糸)を一音下げてCFB♭にするのが「三下がり」です。
ちなみにCGCは二の糸が一音上がるので「二上がり」といいます。
私はチューナーなしで合わせる時は、蛍の光を口ずさんでいます…
出だしがCFFF・・・なので(^^;
現代の中国大三弦は、三味線調弦で言うところの「二上がり」で調弦してGDGです。
三味線とコラボする時等はAEAと上げることもあるみたいですが…。

私が最初に教えてもらった曲といえば、「津軽じょんから節(旧節)」ですが、これは「二上がり」ですね。
(よく、コンクールとかで皆がバンバン弾くようなやつではなくて、初心者でも弾ける簡単なじょんからの伴奏があるのです)
当時、三味線の先生に「何故、じょんからは二上がりなの?」と聞いたら、「他の調弦じゃ弾きにくいでしょう?」という演奏家らしいかなり現実的な回答が返ってきました(^^;
中国三弦という楽器は今ではマイナーな楽器になってしまいましたが、歴史的には様々な音楽に使われてきた楽器なので、伝統的な音楽の調弦はいろいろあるみたいです。
でも、「三下がり」があるのかどうかはよく知りません…
調弦というのも、調べるといろいろあるのでしょうね。

私があんまり嬉しそうに三味線を弾いているので、私の譜面を「チョット貸してよ」と私の脳内に住む双子の姉(!?)が奪い取り、中国三弦で弾いてくれました。

音源コレ↓
「中国三弦で弾いてみた民謡」

妹だから遠慮なく言うけど、民謡っぽくないよ、コレ(^^;
しかも、ドがつく下手くそ。
いくら三味線より棹が長くて上のポジションのツボとツボの間の距離が長いとはいえ…
あんた、手も大きいし指も長いでしょ!
うーん…中国三弦は爪弾きなので押し撥出来ないしなぁ。
日本の曲を美しく移植するって本当に難しいね。