文化人の三弦音楽

aixinjueluo
日曜日の昼に携帯に電話がかかって来て、「午後時間あったら、三弦のコンサート聴きにおいでよ」とのことで中央音大に行ってきました。シンポジウムの前に、関係のある3曲を演奏するというスタイルでした。そのタイトルは「弦索遺韻 神彩永存 愛新覚羅・毓峘三弦伝譜学術検討会」
タイトル見たら、ピンと来ますよね。
そうなんです。
「愛新覚羅」といえば、清朝の皇族の家系ですね。
三弦という楽器は、市井人の唄の伴奏楽器の代表みたいに思われていますが、実は文化人の室内楽というジャンルもあったりするのです。
弦索備考という、器楽合奏の工尺譜は残っていますが、実際にどうやって弾くのかあまり知られておらず、中央音大の談建龍先生が弾ける人、愛新覚羅・毓峘さん(恭王府の家系)を捜しあてて、直接レッスンしてもらって20年ほど前に再現したという経緯があります。
ぞして、談先生は今も、研究を続けられておりまして、談先生のお弟子さんがよく修士論文などで取り上げたり、コンサートでお弾きになってます。
再現してみたと言っても、実は、愛新覚羅・毓峘さんは画家で、音楽の方は子どもの頃に教えてもらったけど、永い間、これを弾く機会もなかったので、ところどころ、次の手はどうやって弾くんだっけ?みたいに忘れちゃったところとかありまして、そんな簡単にすぐには再現できなかったみたいですけどね。
もちろん、民謡なんかもそうですが、必ずこうやって弾かねばならないというものがあるわけではなく、おそらく幾つかのバージョンが存在して、譜面があってもそれぞれ誰が演奏したか、誰が受け継いだかによって、どうやって弾くかに差があります。だから、これはあくまでも愛新覚羅・毓峘の演奏譜という感じなのだと思います。
談先生はそのうち、またこの演奏譜を出版する予定なのだそうです。
もっとも、演奏譜の第一弾は、何年も前に出版して、コンサートも何回も開かれておられますが、この何十年かの間に当時は気付かなかったこと等いろいろ手をお加えになっているのでしょう。
愛新覚羅・毓峘さんは、お亡くなりになってますが、奥様がいらっしゃってました。
ちゃっかり写真一緒に撮ってもらった~

さて、演奏の方は、中央音大修士の高芸真さんが、「合歓令」「普庵咒」「海清」を弾いてくださいました。
「合歓令」は、わりと知られた曲なので、独奏でいろんなところで聴く機会がある楽曲ですが、今回は二胡との合奏でした。
ううむ、いつか私も二胡と一緒に弾いてみたいです。
ぶっちゃけ、こういう曲は、知識のない人が聴いても眠いと思います。
だから、普通の場所で、普通の観客に対しては弾けない曲でしょうね。
学者か同業者でないと聴いていられない曲に価値があるのか、ううむ、どうでしょうか。
よく学生さんが、旋律感がないので暗譜しづらい、という感想を漏らすのも、やはり現代人にはなじみのないフレーズの集合体だからでしょうね。
でも、これを後世に残さなくていいのか、という使命がありますからね、彼らは。
後世に残す、世間に広めるには、譜面は必要不可欠です。
でも、昔の曲は、譜面に書き表せないことっていっぱいあるのよね。
今は、録音や録画技術が発達しているので、是非、映像資料も作って欲しいと皆言ってました。

演奏者の高さんは見た目も可愛らしい人ですが、弾く姿もそりゃあ美しかったです。
彼女の妹弟子にあたる学生が言うには、一門の中でもとりわけ音に透明感のある人、だそうです。よく名前負けしちゃう人いますけど、高芸真…名前の通りですね(^^;
余談だけど、そういう意味で、邦楽系は名取になるとき、あんまり綺麗な名前もらって、自分の芸風に合ってなかったら、哀しいかも…いや、芸風に合うように自分が変わればいいって考えもあるな。

猫の手も借りたい先生

本日は三弦の授業(レッスン)の日。
しかしながら、最近、トシミネ先生は大学の雑用に追われて忙しく、結構、時間を頻繁に調整しております。
そのため、いつもどおりに行ったら、前の子がまだ終わっていない。
そんでもって、自分の番になった時間には、後ろの子がやって来てしまい、その子は中阮のレッスンなので、隣の部屋を借りて、トシミネ先生、右の部屋に行ったり左の部屋に行ったりしながら同時にレッスンしてしまった(笑)
で、私の次は、三弦専攻の大学一年生が二人同時に出現(ちょうど同じ曲をやっているらしく、二人まとめてやろうということらしい…)
私は彼らがやっている曲「万年歓」という曲が大好きなので、自分のレッスンが終わっても人のレッスン見てから帰るつもりで、ず~っと部屋に残っていました。
私のレッスン時にはすでにお昼の12時になっていまして(私はこんなことになるだろうと予測していて10時半に軽くお煎餅を食べて、本来11時に始まる自分のレッスンに備えていて正解でした)、トシミネ先生お腹すいてヘロヘロ。
本当は、レッスン室って飲食禁止なんだけど、ヘロヘロの先生を、餓死させてしまってはレッスンしてもらえなくなるので(笑)、学生さんがお弁当買いに行って、こっそり持って帰って来ました。
で、先生が隣の部屋で食べている間、我々3人の三弦専攻者の井戸端会議が始まったわけです…
私以外は、18歳の男の子と女の子ね(若っ!)
「長時間弾いてると、この辺りが痛くなるのは普通かな?」とか、「爪のここがすり減るのって、やっぱ弾き方が悪いのかな」とか、しばらく同業者のお悩み告白?座談会になりました。

「お姉ちゃん、手が大きいよね~」とトモ君(仮名)が言うので、
「いや、君だって大きいじゃん」と手を見せあいっこ。
三弦専攻者の手は往々にしてでかい(汗)
ちなみに、ここで「お姉ちゃん」と呼ぶ言葉の原文は「師姐」。
先輩とでも訳せばいいのかな、同じ師の下で学ぶ上の人をそう呼びます(私の方が学習年数は短いけど学年は上なので)。私が男性なら師兄になります。
「いや、お姉ちゃんは指が長いと思う」
「そうかなぁ」と無邪気に、手と手を合わせっこしてしまいました。
「三弦やってる場合じゃないよ、ピアノがいいよ、ピアノやれば?」と言われてしまいました。

後で気づいたけど、18にもなれば、男の子っていうより、一応、男だったんですよね…あはは…手触っちゃったよ、ゴメン。
でも、内輪では、口で言っても分からないことは、結構、相手の手を触るから、小学生の頃フォークダンスを踊る時のようには、意識してなかった(笑)
だって、我々、トシミネ先生の手の大きさ、形、柔軟性とか、手がいつもすごく温かいとか知ってるしねぇ…。
トシミネ先生だって、自分の先生の右手の親指の長さ、大きさがどうこう、ってよく覚えてるよ。
こっちも、見てもあんまり分かんないときは、我慢できずに触っちゃうしなぁ…(これって世間では痴女?)

そして我々が、練習せずに雑談し、話がだんだん三弦から脱線し始めたとき…そういう時に限って、仁王トシミネ先生、予告なく、突如、帰って来るんだよね。
「游鯉!おバカと一緒に遊んでないで、自分の練習せんか~」と叱られてしまった。
「あはは~センセイ、おバカはひどいよぉ」と大学一年生たち。

大学一年生と一緒にいて良かったこと。
大学一年生があまりにもおバカなので、つられていっぱい笑った。
若い子は、本当に、鉛筆転がっただけでも可笑しいんだね(笑)。

自分のレッスンがボロボロで「もう、三弦やめたい」と思ってたんだけど、彼らのレッスンを見ていたら、結構、彼らですら同じことを言われてるのね(笑)。
技術的な注意点も私と似たりよったり(もちろん、程度に差はある…)。
私が子どもの頃からやってないからとか、運動神経もしくは頭悪すぎで、トシミネ先生にぼろくそ言われてるのかと思ってたけど、そうでもなかったらしい。
トシミネ先生は誰にでもわけ隔てなく、間違った音出した時は「あぁぁぁぁ?今のはなんなんだ?」って嫌らしく聴き返してくるのね(笑)。

「もうすぐ、試験だろ?オレが焦ってどうする、お前らが焦れよ!」と先生。
トモ君「だって、こういう昔の曲は旋律感がなくって暗譜出来ないよ。何か方法ないの?」
トシミネ先生「覚えようとして覚えるんじゃなくて、何回も弾けば自然に覚えるんだよ!お前ら練習が足りないだけ!」
みっちゃん「(ボソっと)間違えたって、トシミネ先生以外の先生は、この曲自体、知らないだろうから、大丈夫だよ」
游鯉「(我慢できずに)あははははは…」
トシミネ「・・・・・」

ところで、若い子がよく言うセリフ、昔の曲には「旋律感がない」。
んー、音楽心理学かなにかの実験で、西洋楽器しかやったことない音大生に、邦楽聴かせると、区切りというか塊が分からなくて、暗譜しにくいという実験結果があるみたいね。
中国民族楽器でも同じだと思う。
彼らだって、お家が特殊でない限り、洋楽の方に親しみすぎちゃってるわけだから、間が上手くとれない。
私は理屈で覚えられないから、模範演奏をひたすら聴いて覚えます。
五線譜なら明らかに休符が入るところ、こういう曲の譜面には休符指定も何もないけど、ちゃんと「間」を入れないと叱られる…四分の二拍子って書いてあるけど、実際はそうではなくて、変なところにアクセントが付く。
天哪(OH!MY GOD!)
だから、たくさん聴いて、たくさん弾くより仕方ないんだよね。

お知らせ…週末は、大学の情報処理センター設備の移転のため、LANが全館ダウンするので、アクセスできません。うちの大学はど僻地にあるため、近所に無線通信できるようなスタバとかお洒落なレストランもありません。更新がないとか、レスがないとか心配しないでね(^^)

スクイは何のためにあるの?

それは、二胡のレッスン中に湧き上がった疑問でした。
「スクイ」って「救いようがないおバカ」のスクイじゃないですよ(^^;
いわゆる、弦をはじく楽器でいうところの、アップ・ピッキング’(上に向かってはじく)です。
え?なんで、二胡の弓を推したり、引いたりしてる時に、そんなこと考えてるのよって?
えーこういうことです。

人間って生理的には、弓をひくのはわりと自然に出来ますよね。
だから、拉弓(弓を右へひっぱる)から弾き始めるのは割とスムーズ。
でも、推弓(弓を左へおす)から始めるのって、やりにくいよね。
西洋音楽でいうところの二拍子なら、強弱だから、拉弓、推弓の順番で、それなりにリズムもあってる。
これを逆にしても、推弓できちんと強拍が出せるか…
で、練習のために、推拉推拉推拉推拉…とひいていた筈が、拉推拉推拉推…あれっ、どこで変わっちゃたんだい?ってなことが起こります。
弓を推そうが引こうが、できるだけ同じ音色、強さで弾けるようにしてみようという訓練しますよね。

中国の弾く系の楽器でも、弾(下へ向かってはじく、いわゆるダウン)、挑(上へ向かってはじく、いわゆるアップ)をやると、ダウンは重力があるので、誰でも結構、スムーズに大きな音が出ちゃいます。
それが、アップになると、ふにゃらとなる。
特に琵琶や三弦という、ピックを使わず指の爪で弾く楽器になると、初心者は顕著にアップが弱い。
というのも、アップは親指を外側に動かすことで、弦を下からはじくので(つまり手を握る時と逆の動きを速く行う)、これは日常生活では使わない筋肉を動かす必要があるため、まず動かし方が分からない。
で、器用に動かせたとしても、指の力のない人は、大きな音出ません。
それを解決するために、何をするか、挑弾挑弾…つまりアップ、ダウン、アップ、ダウンの順ではじく練習するんです。
そして、親指と人差し指の力を同等になるように鍛え上げ、なるべく同じ音色、音量で弾けるようにします。

ところが…三味線にはそういう概念ないみたいなのよね。
そもそも、ゆっくりめの曲なら、打ってばかり(ダウンばっかり)、アップが必要なところはわざわざ「スクイ」と表記してあって、それ以外は糸をスクウ必要がない…
だいたい、打つときとスクウときでは、音色が違って当たり前なんだから、音量や音色を均一にする必要もないので、そんな訓練をわざわざしない。
津軽なら、打つ時(ダウン)は皮まで叩いて、タンと抜けるような音、あるいは前の方で打つ時のッという音を出すけど(そうでない時もある)、アップ(撥で弦をすくいあげる)は、そもそも皮に触れようがないので皮を叩く音は聴こえない。
スクウときの音にもいろいろあるけど、いずれにしても、アップをダウンと同じ音色目指すなんてことは、ないこともないが主流ではない。
ううむ、それが独特の味わいになってるんだなぁ…と思ったりして。
まぁ、撥の角度によっては、ギターみたいに普通にタタタタ…と均一にトレモロできてしまうけど(ピックと同じように動かせないこともない)、それはここ最近の洋楽、現代曲を意識した話でしょう?
中国人には、でかい撥でタタタタ…と弾くのは、信じられないらしく…よほど熟達した先生でないとできないと思ってる人も多いけど、意外とそうでもないので、師匠よりはずいぶん遅いスピードだけど、スクってみせると、器用だねと言われる…いや、私が器用というより、日本人全般がわりと器用なのでは???

「別に均一じゃなくたって、これがいいんだよ」という三味線のスクイって何か面白い。

もっとも、中国三弦のアップも、民間曲なんかでは、わざわざ4回連続挑(アップ)なんていう表記がしてあったりします(本来、何も指定がなければ、人差し指のダウン、親指のアップという順で交互に弾くお約束です)。
この変な指定の意図は何かと先生に聞いたら、これだけ遅いスピードなら別に4回連続の人差し指の弾(ダウン)でも同じ効果出せると思うけど、要するに弱めで揺れる音を楽に出せるから、そういう指定したか、そうでなければ、視覚上の問題だろうね、との回答でした。