津軽三味線小山流50回記念公演

一週間だけ、東京に居ました。
その間、小山会の50回記念公演がありました。
そんなわけで、参加してきました。
まず、朝、会場の目黒パーシモンホール(都立大学駅下車)に行こうとして、この駅、急行は停車しないんですよ。
だから、学芸大学駅のホームで、鈍行に乗り換えようと思ったら、偶然、貢朋先生に「おはようございます、今日はよろしくお願いいたします」と呼び掛けられました。
わ~い、ラッキー会場まで迷わずに行ける(笑)
いえ、道順はすごく簡単ですが一年ぶりで心配だったので。
「私たち、もしかして時間ぎりぎり?」そんな感じで貢朋先生、歩くのはやい、はやい。
ワタシ、ぼーっと、「こんなものじゃないんですかぁ~」なんて言ってたんだけど
「この業界の人、なんか、やたら早いのよね」と貢朋先生。
確かに…遠くから来る人は何が起こってもいいように早めに家出てくるのと、ご年配の人は早起きだからなのでしょうねぇ…

午前中はリハーサル。
でも、席順はもともと決まっているしリハしても、結局、本番の席順、狂っちゃうんだよね(笑)
席順表に名前あっても、お休みされる方もいるし、何らかの都合でリハに来なかった人が本番来てたりするわけで…
ワタシ、だいたい、7段目か6段目だったのに、どうかすると5段まで下がれって言われたり、センター寄りになったり。
真ん中って…実は前と後ろのテンポがずれて聴こえて、ちょっと微妙な音響環境。
実際、本当にずれてることもあるので…
合奏「二上りメドレー」は誰だって弾けるスタンダードナンバーですから、うわ、凄い人数。
たまたま、後ろの方が足で微妙にテンポをとっている振動が伝わってきて、それがおそらく正しいものだったのと、隣の方が鼻歌で唄を唄っていらしたので(癖なのか、故意なのかわかりませんけど)、周りの音がわけわかめでも、なんとか弾けました。

ハニホヘドン50(民謡メドレー50曲)は50回記念Tシャツでの演奏。
ワタシ、Tシャツで合奏したことないんで、新鮮。
いつも着物だもん。
これって、もう、使うことないんですよね?
夫にあげちゃいましたが…

今回はやたら着替えてばかりで、すごく忙しかったです。
普段は会服といわれているブルーの着物を着っぱなしでいいのですが、白(クリーム?)の着物も着ないといけない。
師範の先生とかだと、黒も着ないといけない。
でも、みなさん、さすが、着替えるの早いんです。
ハニホヘのTシャツから白の着物に着替える時間、15分しかない。
でも、間に合う(^^;
それと、これだけ人数いると普通の楽屋使えませんから、小ホールが大部屋になります。
小学校の頃の着替えと同じですよね。
適当に人に見苦しい姿見えないように、着替えるすべを皆さん、おもちで。
レジャーシートと大きめの手鏡は必需品。

わたし、普段着の着物好きでたまに家でも着てますけど、半幅帯で済ましちゃいますから、お太鼓がきれいに結べなくて、半泣き。
楽屋がわりの小ホールを見渡すと、貢治会の治乃先生がいらっしゃったので、手伝っていただきました。
治乃先生いなかったら、じょんからの合奏、間に合わなかったかも。
ありがとうございました。
普段、先生と二人だけのお稽古だから、人とあまり会うこともないので、こういう行事でお会いできるのが楽しみなわけですが、本当に着替えてばっかりで、お会いできなかった先生もいて残念。
また、舞台袖から拝聴できた曲も少なく(私は小山貢先生と小山豊先生の親子共演と師範合奏曲「藍の段」しか聴いてません)、レビューできることはなにもありません…つまんないブログ更新でスミマセン。
余談ですが…リハーサルで家元先生は、合奏曲の「『藍の段』と『緋の段』云々…」とずっと言ってたので、次は「ハニホヘ段で…」って言っちゃったのがツボにはまって面白かったです。
漫才なら、「ハニホヘ・ドン」でしょ、ってハリセンが飛んでくるところでしょう(^^)

【注釈】「ハニホヘ・ドン」とは、76年~88年まで放送された人気番組のイントロクイズ「ドレミファ・ドン」にちなみ邦楽版のイントロ集として「ハニホヘ・ドン」と名付けられたメドレー曲です。
小山会の節目の記念公演でその周年数と同じ曲数が演奏されます。だから今年は50曲であります。
ちなみに、先生方のソロや太鼓と尺八だけという曲もあるので、その他大勢は実際40曲しか弾いてませんけどね。あなたは、全部、唄えます?ちなみに私は40曲全部、唄えません。何曲なら知ってたかって?それはナイショ…(^^;勉強します。
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二胡LESSON113

二胡LESSON113

課題曲 「春詩」

う~ん、確か、一年ぐらい前からやってなかったけ?
いまだに弾いてます(^^;
まぁ、並行していろんな曲をやっているので、ず~っとそればっか弾いてるわけでもないのですが。

本日も私の前のレッスンは、小学校3年生の前向きな例のお嬢さんでした。
ほんと、人懐こくて、明るい子なんです。
自分の練習見られたんだから(待っている都合上、私が傍でレッスン聴いちゃうのはどうしようもない)、私も游鯉姉ちゃんの練習見てから帰る~とか言うわけ。
うぇ~ん、私、緊張するのよ、ヒトが見てると。
でも、結局、逃げ切れず、小さなお客様に聴いていただきました。
手が震えるほどは緊張しなかったけど、やっぱり、思い通りには弾けませんね。
同じ先生に習っている者同士という「身内」意識があるので、わりと、大丈夫だったのだと思います。
他人に、「どうやったらあがらないか」とよく尋ねる私ですが…誰でも程度の差こそあれ、緊張するらしいです(プロの演奏家や先生でも、私が伺った限りでは、「全然あがらないよ~」なんて言ったヒトはいません)。

ヒトの評価を気にするなとかアドバイスくださる人もいらっしゃいます。
いや、私、別にこれで飯食ってるわけじゃないので、「金返せ」とか言われる心配しながら弾いているわけではありません。
また、コンクールでもあるまいし、他人との勝ち負けにこだわっているつもりもありません。

でも、ボランティアでも、あまりにヒドイ演奏をすれば、貴重なお時間を私のしょ~もない演奏で浪費させてしまってゴメンナサイという後悔の念でいっぱいになって、その日の夜眠れないということはあります。
昔は、弾くことは話すことと何ら変わらないので「自分のこと分かって欲しい」という思いで必死でしたが、最近は、身体的、技術的限界により、この先、何十年練習しても、自分の考えていることを100%表現できないだろうなと思うので、そういう取り越し苦労もしているつもりはないのですが…

私は、赤の他人が聴衆である場合、特にその存在というか、人間の塊(?)がコワイのです。
ある意味、日常生活においても、未知の人間がコワイと思っていただいていいかと思います。
好意的な人は、「恥ずかしがり屋さん」「人見知りさん」と私のことを解釈してくれるようですが…
でも、電車の中とかでもヒトの視線を感じてコワイとかおっしゃる精神疾患とか、ヒトと話す時、どもるとか赤面するという神経症の類とも違うようなのです。
プロのピアニストとか、知らない国で、他人のピアノで、初めて会ったお客さんの前で、いくら職業とはいえ、よくいつもどおりに弾けるよなぁと思います。

聴衆がよく知っているヒト(自分の先生とか)の場合、評価を気にして緊張するというのは多少あると思います。
よく思われたい、ほめられたい、カッコイイところを見せたいという評価ではなく「下手くそだと見捨てられるかも」という恐怖感ですね。
だって、見捨てられたら、教えてもらえなくなったら困ります。
付き合い長い先生だと、自分のおバカさ加減をよくご存じな筈なので、「見捨てるならもう、とっくの昔に見捨ててるだろう、だから大丈夫」と思えるので、そのうち平気になってくるというだけです(汗)

そういうわけで、最近は、もう目を閉じて弾いてしまおうか、と思わなくもありません。
オケで弾くことがなければ、指揮者を見る必要ないし、三味線などの大合奏は、相図は声だから聴こえてりゃ問題ないですしね~。
もちろん、見えなければ、恐怖の対象である人間を感じなくて済むのかというと、人の気配や音はしますから、やっぱりコワイわけですけど、半減はするような気がします。
盲人の音楽家が聴衆を無視して弾いてたのかと言うと、そんなことはなく、お客さんの反応を聴きとる、感じとってはいただろうと思いますので、別に支障はないかと…
でも、見えているのに、わざと見ないのは失礼なのかな???…うぇ~ん。

二胡LESSON112

この日は前の生徒さんのレッスンがまだ終わっていなくて、待ちながらレッスンを拝聴しておりました。
小学生のお譲さんで、初級レベルという感じ。
のびのびと楽しそうに弾いていて本当に羨ましかったです。
もちろん、たまに音程狂ったりするんですが、悪いところはすぐ直せばいい、レッスン中に直りきらなかったら、お家で次までに練習してこればいい、そういう前向きな感じ。
「天真爛漫」でしたね。
付添いのお母さんも、レッスン終わるとお嬢さんを「よかったわよ」って褒めてあげてて、なんかむっちゃ羨ましかったです。
正直、死ぬほど羨ましかったです。
この歳になっても、人のお母さんを羨ましがってどうするって感じですが…

実際には、人間なのだから、好いところ、悪いところ、いろんな側面があると思うのです(それが個性でもあります)。
ただ、私みたいな性格の人というのは、仮に99の長所があったとしても1つの欠点があれば、1つの欠点だけがフォーカスされて認識されてしまい、本人的には99の長所が見えなくなります。
しんどいですね。
うちの親って、今もそうだけど、どんなに頑張っても褒めてくれないんだよね。
いや、おそらく、正確には、たまには褒めてくれたのだと思うけど、褒めるというより、かなり客観的に(人と比べて)淡々と長所と短所を言うので、私の脳には短所=人より劣っているダメダメな私、長所=他人だってできるのだから出来て当たり前、っていう図式になるのかもしれない。
他の誰とも比べずに、手放しで「素敵だったよ」「出来るようになってよかったね」的なそういう発想、うちの家族にはなかったと思う…

あと、大人になってからは、「仕事」というのは、「学習」と違って、「結果」だけがすべてですから、どんなに自分が頑張ろうが、意味ないんですよね。
一枚の文書がどんなに論理的にきちんとしていても、一つでも単純な誤字脱字があれば、他人の眼には「こんなところに気付かないなんて、不注意だ、信用できない奴だ」となるわけですからね。
誰だって、一生懸命仕事していると思うけど、その過程なんて、他人にとっては、どうでもよく、結果が付いてこなければ、無意味な努力です。
逆に、棚からボタモチの結果が付いてくることもあるかもしれず、それでもオッケーなわけで、運も実力のうち。

私にとって音楽は生計の手段でもないし、将来の生計の手段にもなり得ないと思うので、単純に楽しくやればいいのだろうけど、子供の頃から身についてしまった「欠点だけが増幅される目と耳」は、日々の練習や本番にも顔を出します。

音楽は時間芸術ですよね。
レコーディングでもない限り、基本的に後で修正なんて出来ません。
先生方だって舞台の上でしくじることもあるけど、瞬時に誤魔化すか、立て直しを図るわけです。
よく、「一か所、マズイところがあっても、それであなたのすべての演奏がダメと言うわけではない」と、先生方はおっしゃいますが、それは先生の他の技術や人間的、音楽的な魅力がミスを覆い隠してくれるからであって、これが世間の他のお仕事だったら、一か所ミスったら、すべてがダメで、場合によっては、努力とは関係なしに人間性まで否定されますよね(私の経験ですが…)。
そこがある意味、芸術に関するお仕事と、他のお仕事の違いなのかなとも思います。

だから、私はいつまでたっても、自分の音が好きになれないんですよね。
でも、こういう性格の大人に向かって、好い所だけフォーカスして「よかったよ」って言ってあげればいいのかっていうとそうでもないわけで、自分が全然出来てないのを知っているだけに、余計、むなしくなるという…

ある先生がおっしゃってたのですが、弾き方を教えるということが大変だから疲れるということもあるけど、いろんな人の感情に向き合うことになるので、それも疲れの一因だと…
そうだと思います。
弾くことを単純に教えているだけなら、そうは疲れないと思いますが、生徒さんに楽しく練習させて、上達させて、将来、一人でもやっていけるようにしてあげるには、その人の本質的なことに触れてしまうので、ちまたの産業カウンセラーよりも、カウンセリング的なお仕事をしているような気がしてなりません。

多分、私の心のドロドロ、モヤモヤした嫌な部分を一番よくご存じなのが、器楽の先生です。
親兄弟親戚、仲のいい友達、その誰一人として知らない一番醜い私の姿を見てしまっているのが、赤の他人である先生というのも、本当に気の毒な話だと思います(^^;

ダメな部分があっても、それは「学習過程」なのだから、仕方がないと諦めて、その代わり、将来の音を信じて練習すればいいということに尽きるわけですけどね。
普通、私のようなネガティブな思考をする人は、器楽を勉強するのが長続きしない筈なのですが、それでも続いているのが奇蹟だったりします。
ある意味、そんなに辛い思いをしてまでも「手に入れたい音色」に対する執着がすごいということなのですが…

そもそも、ピアノなどと違って、音を出すこと自体、音程を取ること自体、非常に難しい二胡という楽器を、音楽的な才能がないのにここまで続けてこられて、ある程度弾けるというだけで、スゴイことだと思うんだけど…
これ、ナナ先生の私に対する正直な感想だったりします。