先生と脳味噌交換して弾いてみたい

速く弾ける人が単純に羨ましいです。
何故なら、スピードが出せるということ自体、客観的に非常にわかりやすい基準だからです。
他人の主観に訴える音色で勝負より、速さで客観的勝負が、誤魔化しが効いて、誰にでも「おぉ〜〜すげぇ」と思ってもらえるわけですから…

指を速く動かすために、人間はどうしているのか、これは脳の問題だということがある程度、科学的に分かっているようです。
脳画像診断技術を使った研究によると、指を速く動かそうとすると、より多くの神経細胞が活動することが報告されているそうで、音楽家とそうでない人を比べると、指を速く動かす時、活動する細胞の数が違うみたい。
そして、早期音楽教育を受けてる人とそうでない人で、大差があって、もちろん、日々の練習量で増えたりもするという…。

そして、私は、どうやら、早く弾くための情報処理をする脳ができていないことに加えて、脳が指令を出してから、指が実際に動くまでの運動神経も鈍いんだろうなと思います。
これが、年齢いった人でも、練習である程度、改善できるものなのか、知りたくもないですね、残酷だから。
例えるなら、「あっ、危ない」と思ってブレーキ踏めって脳が指令出しても、すぐにブレーキ踏めてない運転みたいなものかしら。

なんで、自分の運動神経のなさすぎに気づいたかというと…
三味線で「秋田荷方節」(若者に人気の民謡の前奏部分で、超速いのがウリ?)をお稽古してもらってた時、先生が丁寧にフレーズの繰り返しの数を数えてくれるのですが、先生の数え方が遅いので、私の中ではとっくに3回目の指令を出した後で、先生が「さーん」とか言うのですよ。
当然、先生の「さ〜〜ん」につられて、私は4回弾いてしまうことになり、NG連発。
自分で先生の録音に合わせて弾いてる時は、そのスピードで弾けてたので、ある意味、手の筋力とかの問題ではないはずで…
思わず「先生!数えないでいただけますか‼︎」と険悪な顔をしてしまって…
「よかれと思って数えてるのに、そんなに怒らなくても…」と先生。
(先生、本当にごめんなさい…)

多分、先生は弾きながらご自身のタイミングでお数えになってるわけで、その声を合図に弾いたんじゃ、一定のスピードを超えた場合、先生と合わない訳で、運動神経のいい先生には一生わからないだろうな〜〜と思いました。

ちなみに脳の研究者の報告によれば、演奏家は、脳が間違った指令を出した時(当然、もう、ミスタッチは避けられない)、とっさにそのミスタッチの音を極力小さくするよう、次の指令を出しているらしいです。
私なんぞは、「しまった」と思ってても、もう、次の指令が間に合わないので、ミスタッチ音はそのまま、ダイレクトにボーンと出て行ってしまう訳ね。
だから、手っ取り早いのは絶対にミスをしないこと(・・;)
本気で、こんなことだけ考えてたら、緊張してよけい、ミスりますよねぇ…ある意味、実音聴くまでミスったことに気づかない人の方が幸せなのではないかしらん…

こんなこと書くと、子供の頃、金持ちの家に生まれず、十分に音楽教育を受けてこなかった人は、どんなに練習しても無駄なのよね〜〜というおきまりの結論に行き着き、あえてブログを書く意味もないのですが…

しかしながら、中年や高齢者にも救われる現象が存在するのも事実。
私は、大人になってから、二胡や三弦を習いましたが、先生に恵まれたので、通常、先生が音大受けるような子供にしか言わないような細かいことを素人の大人の私にも言ってくれたおかげで、他人の細かいところが気になります。
つまり、舞台上で、たまに、むちゃくちゃ早弾きしてすげぇと感動されてる場合でも、これ、録音してスロー再生したら、めちゃくちゃ粗が分かるよねっていう場合があること(報酬もらって演奏している人でも、?と思うことはあります)。
ビブラートなんかも、変な癖があっても、それがキモチイイことになってしまう…(もっとも、プロはそれを計算の上でやってて、素人は単純に変にしかならないだけなんだと思うけど…)

本当はちゃんとできてないのに、人に感動されててズルイって言うことが言いたいんじゃなくて、心の底から羨ましい〜〜その秘訣、教えてよと思うのです。

時に、技術と感動ってあんまり関係ないんじゃないかと思ったりします。
もちろん、最低限の技術は必要だけど(^_^;)
もっとも、可愛いとかイケメンであることもプラス要素なので羨ましい限り。
うちわの発表会なら、なおのこと、その人の日頃を知っているだけに、「XXさんらしい、優しい音だよね」とかいう話は、技術そのものに果たして関係あるんだろうか…よく分からないです。

速くてもデタラメだったら音大に受からないけど、別の魅力でそのデタラメをカバーしてる人が、世間では「味があるよねぇ」とか言われるのかもな、と思わなくもありません。

「じゃあ、そこそこの技術で感動を引き出せる人もいれば、完璧に弾いてるのに、場がしらける人がいるって一体どういうこと?」と三弦の先生に質問投げかけたら、
「やっぱし、人間性とか、品格とか、そういう曖昧なものなんじゃない?」とのこと。

ある意味、技術を磨く方が、超簡単かもしれない…ですね(^_^;)
ハイ、とりあえず、脳細胞は歳をとれば死ぬ一方で増えないでしょうけど、使ってない細胞がいっぱいあるらしいですから、こいつらを叩き起こしてみようと思うのでした。

脱力と触覚の関係

「なぜ、最初に脱力と指先の触覚の大切さを教えてくれなかったのか」と世の中の楽器の先生を恨む今日この頃です。
私は半世紀近く生きてきて、いろんな楽器を少しずつかじりましたが、やっとある先生に出会えて、楽器を弾く際の「脱力」ってこういうものなんだということが分かりかけてきました。
力を抜いて弾くと(というより、最低限の力で如何に合理的に弾くか)、音も変わります。
たまに「正しい(とその業界で思われている)音」が出た時は、思いっきり褒めて、その音がした時の、指先の重みや、腕や指の角度を身体に記憶させてやる助けにしてやるためにクドクド言ってくれる先生は、少ないと思います。

確かにどの先生も「脱力」の大切さを説くものの、じゃあ、どうやったらいいのっていうことを素人に上手に教えられませんよね。
過去の私の先生の中には、脱力を説いているものの、先生の言うとおりに弾くと力を入れないと絶対弾けないという矛盾甚だしい方法を教えてくださる人もいました。
大人の私が彼の言うとおりに何年も弾き続けたら、多分、身体を壊していたと思います。
先生というものは往々にして才能や身体能力に恵まれた人がやっているせいもあって、本人は幼い頃、知らないうちに身に付けたから教えようがないということもあるんでしょうね。
あるいは、努力型の先生でも、長くやっているうちに何となくできるようになったから、他人もそのうちできるとタカをくくっているのか?
凡人以上の人であればできるようになるのかもしれないけど、凡人以下はどうしたらいい?(普通は、そういう私みたいな人は習わないのよね…)
あるいは「プロになるわけでもあるまいし」と、ウザいこと言って嫌われないようにしてるという町の先生もいるかもしれない。
先生方にも、いろいろ、仕方のない事情があると思うので、恨んでもしょうがないんですが、行き場のない怒りみたいなもんが、私の心の中で渦をまいてます。
私は今まで10の力で弾いていたとすると、今は半分の力で同じように(むしろ、もっとマシな音で)弾けます。力を節約できた分、脳みそを他のことへ回せます。
おそらく、極めれば、かつての力の10分の1の力で弾ける筈です。

昔は、演奏家が楽器は身体の一部だと言うのが、全然分かりませんでした。
言葉のあやだろとさえ思っていました。
でも、本当だと思います。
ちゃんと合理的に弾いてさえいれば、腕や手の重みが爪先にかかりますので、弦の触感がよく分かります。
余分な力が入っていれば、弦に触れた時、あまり触感が分からないでしょう。
爪先に重さを感じていない状態で弦を弾くなとクドクド言われました。
二胡だって、合理的に弾いていれば、弓先は自分の指先と一体化して感じられます。
変な話、上手く弾けている時は、指先で自分のお腹を掻いている変な感じがします。
つまるところ、指が弓先まで伸びて一体化して、弦の振動がお腹あたりで響くのが分かるので、まるで、ポリポリとお腹を掻いているかのような錯覚すらするという…

ある人に、「三味線弾く時、つい、同じ撥先ばかり使ってしまう(三味線の撥はどちらの角で弾いてもいい)」と言ったら、「え、違いが分かるなんて(素人なのに)すごいね」と言われてちょっとムッとしました(笑)。
「触感」って、本来、初心者だからこそ、クドく注意を喚起してあげるべきことなんじゃないの?と思う次第です。
確かに、大人が一生懸命やったって、限界が見えているので、冥土の土産にたくさん曲を弾かせてあげればいいのかもしれないけど、別にお迎えがすぐそこまで来ているような人ばかりじゃないんだから…
上手くなれないと結局、楽しくないからやめざるを得ないわけで、演奏家にとっては当たり前のことでも、他人が真似出来るように教えてくれたらいいのにと思ったりするのです。

もしかすると、世の中にはアーティストとしてだけではご飯が食べられないから、食べる手段として教えているだけで、生徒がどうして弾けないのかに無関心な先生もいるのかもしれない(もしかすると、こういう先生の場合、生徒さんの方でもファンクラブのつもりで通っていて、技術の習得は二の次なのかも…)

もっとも、先生サイドでも、基礎をきちんとやろうとすると、ツマラナイ動作を延々やらせたり、難しい練習曲を淡々と弾かせることになるので、生徒さん(お客さん)が来ないっていう悩みがあるのも分からなくもないんですけどね。
あるいは、若い頃は一生懸命教えてたけど、一生懸命教えたにもかかわらず、生徒さんがあっけなく放り出してしまったりやめたりしたんで、教授に情熱がなくなった先生も少なくないのかもしれない。

つまるところ、初心者ほど、自分の習う目的をはっきり意識して先生を選んだほうがいいってことかしらん…と思います。

子供の身体能力と大人の頭脳

子供の身体能力と大人の頭脳があったらコワイものなしだと思う…

先日、二胡のレッスンに行った時、何らかの事情で前のレッスンが終わってなくて、40分くらい待つことになりました。
私の前の生徒さんは二人の子供(別々の家族)。
多分、先生が小学校等で教えている子の補講(?)か個人特訓(?)だったのだと思います。
今までも小中学生の生徒さんに遭遇し、チラとレッスンを拝見したことはありましたが、だいたい芸術関係の学校を目指してる子とかだったので、上手だったのですが、この子たちは、本当に素人でした。

うわ~

私、初めて聞きました。ちょっと冷や汗が出る雑音というやつを…
よくバイオリンや二胡を習い始めの人の雑音を、漫画などでは、ノコギリとか、豚や鳥を絞めた叫び声とか言いますが…
実を言うと、私、そこまでスゴイ音に遭遇したことがないんです。
自分が習いたての頃でも、力さえ抜けば、そうはならないというか…

もっとも、私の初心者の頃は余分な力を別の余分な力で抑制しているだけで(例えるなら、「アクセル踏みながらブレーキ掛けて、適度な速度にしている状態」)、本来、目指すべきの「余分な力を入れず、最小限の力だけ、必要な方向に循環させている状態」ではなかったですけど。
まぁ、今も余分な力が入っているけど、少なくとも、あ、余分な力入ってるわという自覚はできるようになりました。

後で、先生と雑談してる時に、先生は、子供は子供のメリット(身体能力、変な思いこみがないので正確な動作を最初から教えてあげれば吸収がいい)があるけど、頭を使って練習しないので、結局、上達するかどうかは、保護者にかかっているところが大きいと言ってました。
普通の小さな子供は、先生の言った通りに練習してきていないというか…、気の向くまま、メロデイ弾いてお終いというか…
最後に先生がちょっと厳しめに「いい加減にただメロディが弾ければそれでヨシにするか、その辺の子たちより上手くなりたいのか、自分で決めなさい」と言ってましたが…
ちなみに私の二胡の先生は、音大受けるような生徒さん以外の人に対しても、「どうせ趣味なんだから教え方も適当に楽しければそれでいい」「真剣に教えてもこっちが疲れるだけ」というスタンスではないので、非常にキビシイ…(中国三弦の先生も同じです)
教えることは一緒にしておいて、結果として、その人の精神と身体の限界まで、実現できるところまで実現できたらいいと先生は思っているんでしょうね。
そういうことなので、先生にとって私という高齢の生徒は、「人間、やる気と時間と適切な指導があれば、天性の身体能力と音感に欠けていても、二胡ぐらいある程度弾けるようになる」という実例になっているようです(笑)
まぁ、日本には、金銭的余裕のある人が多いし、努力家が多いのか、「大人」になってからゼロから始めた人でも、ある程度なら二胡弾ける人はかなりいると思うけど…
中国人はみっともない努力して自分がマスターしても何の得にもならないけど、子供の芸事に使えば有益だと考えるのかもしれない。

大人は言葉でいろいろ教えてあげれば、きちんと自分で練習できるけど、結局、仕事の合間にやる趣味だから、練習時間が足りなかったり、子供の頃なんらかの楽器や舞踊などをやっていたかどうかや、年齢によって差はあるでしょうが、関節の柔軟性に難があったり、指と脳神経の繋がりが悪かったりとデメリットがありますよね。
中国の大部分の親御さん(別に子供が音大目指している訳ではない)は、自分が出来ないことを子供にやらせているので、自分に芸事の上達の経験ないから、X時間練習したからOKみたいに練習させるだけみたいです。

私の母も私が習いたいと言えば、ピアノ程度の月謝の習いごとは普通にさせてくれましたが、私以上に不器用な人なので、私ができなくても叱りもしないけど、練習をみてくれるわけではありませんでした。
もっとも、音楽でご飯を食べている多くの人は、子供の頃、親が練習を傍でずっと監視しているので、相当嫌だったとは思いますが…
「あなたぐらいの熱心さがあったら、子供の頃からやっていれば、そこそこ上手くなったのにね。逆に天賦の才能ある子でも、ちょっと練習すれば、親を騙す程度の演技が出来ちゃうから、努力せずに一生過ごす人もいたりして、もったいないケースも多い」と二胡の先生に言われたことがあります。

そうなんですよね、私もそう思います、目標が高くなければ、才能なくても、適切な指導に基づいて、適切な練習をちょっとの時間やれば、誰でも上手くなるものだと思います。
人間誰でも得意分野っていうのがあると思いますが、適切な時期に誰かがその優れた部分に気付いてあげて、よい先生に巡り合えて環境に恵まれていた人は幸せだと思います。

もし、タイムスリップできるなら、30年前に戻って、小さな自分の練習を傍で見てあげたいよ。