不健全な動機と現実的な目標

なんか、最近、三味線弾くの楽しくない。
私はぶっちゃけ、もともと、動機が不健全なのだ。
趣味として人と楽しく弾きたいという欲求はほとんどなく…
単に先生みたいな音を手に入れたいというマニアックな欲求…
もしも先生がギタリストだったら、ギター弾いてただろうし、ピアニストだったらピアノ弾いてたと思う(^_^;)
先生が津軽三味線弾きだったから津軽を勉強しただけ。
(念のために付け加えると、先生の音に科学的興味があるのであって、先生自身に情緒的興味があるのとは全く違う…)

だんだん分かってきたのは、私のような人は居場所というか、目指せる現実的な場所(目標)がないかもということだ。
自分が小学生なら単純に「将来は先生みたいになる〜」と言って(親に財力があれば)頑張ればよい。
私が10代20代なら、とりあえず速く弾けたら、かっこいい今時の曲が弾けるので、大学のサークルとか、若い人と楽しくやれるし、聞いてくれる若い人もいるだろう。
私が60過ぎだったら、めちゃくちゃ速く弾けなくても、民謡など味があるねと言ってもらえるかもしれないし、お年寄りで聞いてくれる人もいるだろうな。

うちの家族は、誰も歌謡曲、演歌を歌わないし、子供の頃から歌謡番組ってモノを見たことがない。
紅白ぐいなら見るけど…
私が母のお腹の中で最初に聞いた音楽はベートーベンだし(笑)

そういう人がキチンと民謡を勉強するには、それだけの財力ないし環境もない。
私は基本的に譜面を見るのが苦手で、家で練習するときは、音源と一緒に弾くことで、譜面を見ているのと同じ効果を得ているため、今まで通算何百回も譜本の音源(当然、唄や太鼓も全部入ってる)を再生していることになる。
だから、門前の小僧が念仏を覚えるのと同じで、意味わからなくても鼻歌は歌えるけど、人前で唄えるかというのは別問題。

この先、人に褒めてもらえる、喜んでもらえることは、もう無いんだ、理想の音は死んでも手に入らないと分かってしまうと、何もやる気がわかないのは当たり前だよね。
「やってるうちに、見えてくるものがあるかもしれないし、教えて欲しいという人が現れるかもよ」ということをおっしゃってくださった人もいる。
真剣にうまくなりたい人は、最初からまともな人に手ほどきを受けるし、気楽に趣味で楽しく弾きたい人も、私のような歌謡曲分かんない人に用は無かろう…

この先、誰からも必要とされなくても、やっぱり、先生みたいな音に未練があれば、やめずに弾き続けるべきだろうし、もう、理想の音を追い続ける自分がイタイ、可哀想、耐えられないと思えば、やめるしかない。
この二者択一を回避するために、第三の道、現実的な目標が見つかれば、楽しく弾けるのかもと思う。

でも、もともと民謡が身近にある環境で育たなかった素人の中年で、別に大勢でやる合奏に興味のない人が津軽三味線やり続けるに適切な目標なんてあるんだろうか?

P.S
もちろん、所属している会の方々にはどこで会っても親切にしてもらっているので、ありがたいなと思ってますし、感謝しています。
発表会等の合奏は、会員である以上、これからもちゃんと弾くつもりです。
発表会と青民の合奏にしか現れない幽霊みたいな会員だけど…。

道具は人それぞれ

yumi先日、大勢多数の人が弾きやすいとおっしゃっている弓を試し弾きました。
感想は、「悪くないけど、さほど目から鱗が落ちるほど弾きやすいとは思わなかった」。
一体、私と人はどこがどう違うのだろうとちょっと悩んでしまいました。
その場に居合わせた方には、「普段いい弓をお使いなんですよきっと〜」と慰めていただきましたが、私としては、多分、「初心者ほど力が入ってないけど、プロほど力が抜けていない中途半端な技術レベルなので分かりにくいか、もともと鈍感なんだろう」と思わざるを得ないというか(笑)
その弓をお借りしてこなかったので(写真は私の手持ちの弓なので誤解なきよう)同時に試せないのですが、他の弓が手元にあるのでそれらと自分が通常使っている弓を比べてみると、細くて少し軽いんですよね。
毛があるので正確な重さを測るのは難しいですが、毛を持って竹の重さを測ると、5グラムくらい軽いんです。
一番下のが私の通常の弓です。
一般論として、ある程度の重さがないと力を余分に使ってしまうので弾きにくいはずなんです。
私の弓は軽めなのだろうか?

私の先生は4歳から二胡を始めて音大出て、オケ演奏や小中学校のオケ指導や個人レッスンで飯を食ってる人ですから、彼女の周囲の人間は一定程度、このような弓でフツーに職業として弾いている人がいるわけですが、何がどう違うんだろうなぁ(^^;;

ちなみに私の三味線の撥はめっちゃ重いです…
先生も「重っ‼︎男でもキツくないか、これっ」と言いました。
だから、私が軽めのものしか受け付けないわけでもないんですよ。
これはこれで、スタンダードから外れた撥です。
何せ、大女ですから、力持ち〜なんです(^^;;

結局のところ、自分が長期間使ってきたものに、身体が慣れてしまってそれが一番弾きやすく感じるっていうだけのことなんでしょうかね。

いずれにせよ、自分の思った通りの音が出せれば、なんだっていいんですけどね。

「演」とはどういうことだろう?

「演」という字を見て、思いつく言葉といえば「演劇」「演奏」。
「演」ってどういう意味なんだろうと中国語の辞書を引くと
「発展変化すること」
「押し広げる、展開する」
「演じる」
「(一定の法式によって)練習する、計算する」
と出てきます。
「演劇」「演奏」の演は、「演ずる」という意味なのでしょうね。
とは言うものの、そもそも「演ずる」ってどういうことだろうね?

一般の人は、よい俳優さんは、完全にその役になりきっていると思うかもしれないですが、実際は違います。
熱く演じながらも、頭はかなり冷静な部分を残している筈です。
私が本で読んだり、周囲の俳優さんが言ってたことをまとめると、おおよそこういうことです。
まず、俳優は往々にして「役」「俳優自身」「観客」の3つの立場から物事を見ています。
初心者だろうがベテランであろうが、俳優は、この役なら、こう考えたから、こう言った/こう動いたに違いないというようなことを考えながら脚本を分析したり、演技計画を立てています。
これが「役」の視点。
初心者は、「この時、この役はこのように感じている」を脚本から推測しただけで終わり。
経験が長くなるにつれ、「それでは、そのように感じているように演技するにはどうしたらいいか」を考える時間が増えていくのだそうな。
そして、もっと経験が長くなると「自分がこのように動くと、観客からどう見えるか」をきちんと把握できるようになり、更に経験が長くなると「劇全体の中で自分がどう見えているのか」もきちんと見えるようになるんだとか。
まぁ、確かに初心者の演技って、往々にして、観客を置き去りにした独りよがりの気持ち悪さがありますわね(汗)

この法則を「演奏」に照らし合わせてみるとどうだろう?
実際、心理学者などが実験しているのだけど、ベテランほど自分の演奏をまるで初めて聞く観客のごとく、客観的に聴き、自分の意図するように聞こえているかを考えながら自分の演奏を調節しているのだそうです。

私自身はどうだろう?
実は、私、自分が弾く場合、あえて「演奏」という言葉を避ける傾向があります。
だって、私、今まで、いろんな楽器を習ってきたけど、まともに「演奏」できたことないんだもの。
はい、私の基準によると、習った曲は「弾ける」けど、一曲もまともに「演奏」できません。

上記の演劇人の法則に照らすと、私は「役」の視点をすっ飛ばして、何かを表現しようとは思わずに(むしろ否定しながら)「自分自身」の視点に立っている時間が長いのです。
つまり、いちおう譜面は読んでいるので、「ここはこう弾くべき、こうすべき」という手順だけは分かっているつもりです。
だから、私の頭は、次はこの音がくるから、早々にポジション移動して、このくらいのスピードで、という指示はしているつもりです。
でも、技術が伴わないので、(例えば速く弾くべきところ、間に合っていない等)思った通りに音が出ていないこともよくあります。
そして、音程のズレが気持ち悪いので、自分の音に嫌気がさします…
ちなみに、実際、チューナー見ても、数値的にさほど狂ってなくても、20セント程度の狂いであっても前後の音と上手くバランスが取れてなかったら、めちゃくちゃウンザリします。
先生に言わせると、多くの子供はそういう事に無頓着だけど、あなたは気にし過ぎなのだそうです。

演奏は、演劇みたいにはっきりとストーリーがあるわけではありませんが、少なくとも作曲者の意図は楽譜にヒントが書いてある筈です。
私なんぞは、ただ音符を拾っているだけで、これはこういう情景を表現したいのだろうから、こう弾いたらいいんじゃないかということに頭が回りません…。
大昔から先生に言われていることですが、「話すように弾け」というのは、先生はせめて作曲者の意向は汲みながら弾いてほしいということなのかもなと思ったりする今日この頃です。
しかしながら、こう弾いたらこう聞こえるだろう、という視点に立つのは難しいですね。それって、手が自由自在に弾けてないと大脳は「きちんと弾く」ことに注意を傾けないといけないので、それどころじゃない。
ついでに言うと、楽器に一番近いところにいる自分としては、正直、自分の音がウルサイ…というか鬱陶しいんですよね。
(初心者ではないので大きな音が出せるのでウルサイというのもあるのでしょうが…)
多分、皆さん、好きで習っているし、続けていらっしゃるし、練習するのだろうから、自分の音がウザかったらとっくにやめてる筈で、ウザいのにやめない私はかなり変なのかもしれません。

最後に「観客」の視点ですが、これは、もう何十年も先にならないと見えないでしょうね。
技術上の問題もありますが、心の問題もあるので。
そもそも古琴などの芸術にみられるように、大昔は自分の音というものは、本当に仲いい人だけが知ってればよかったものなんですよ。
だから、自分の理解者のことを「知音」というんです。
なにも、大勢多数の人に認めてもらう必要なかったわけで…
だいたい、私、子供の頃から、ちょっと人と感じ方が違うところがあって、大勢多数に合わせるということは自分を裏切ってズタズタにして殺すことになるのです。

でも、演奏を生業にする人はそんなこといったらダメだし、演奏活動を生業にしなくても、町のお師匠さんみたく教授活動する人は、少なくとも自分の生徒さんには素晴らしいと思ってもらう必要があるわけですよね…。
趣味でやってる人は、「観客」の視点で考えてもいいし、考えなくてもいい…だって趣味じゃん。自分が楽しければそれでいい(お金もらってるわけじゃないんだから…)

で、生業でも趣味でもない私はどうすべきか。

私としては、せめて死ぬまでには、この曲はこういう情景を表現したいのかも、こういう風に弾くことが期待されているのかも、というのを考えて、そしてその考え通りの音を自分自身が感じられるように弾けたら、いいなとは思っています。

付けたしですが「演奏」と「伴奏」は、私は違うと思っていて、伴奏は、演者である唄い手や踊り手に合わせないといけないという点で難しい技術を要求されますが、自分自身は演ずる必要はないという点では、楽かもと思います(もちろん、演者をひきたててあげなくてはならないという別の重大責任を背負わないといけないですが…)