新年会で旦那さまぁ〜

本日は、津軽三味線のボランティア演奏させていただきました。
といっても、私はご年配の方に喜んでいただく術を知らないので、私の所属している小山流の貢翠先生にお願いしました。
私、自分の師匠以外の人のリードで弾いたことないのよね。
さすが、内輪だけあって、リハしてないけど、あそこはいつもどおりで、あそこはこう行くから、という程度の一言二言の打ち合わせだけで、ちゃんと分かる(笑)

翠先生とお弟子さんの「南部俵積み唄」、楽しかったです。
いつもブログを読んでくださっている方や親しい人は私の脳の特性をご存知かと思いますが、私は歌詞が脳内で映像化されやすいんです。
お正月らしく景気のいい唄なんですよ。
今度、ちゃんと暗譜して、スタンダードナンバーにしちゃおう。

ハアー 春の始めに この家(や)旦那様サ
    七福神のお供してコラ 俵積みに参りた

ハアー この家旦那様は 俵積みが大好きで
    お国はどこかとお聞きあるコラ 私の国はナアコラ
    出雲の国の大福神
    日本中の渡り者コラ 俵積みの先生だ
ハアー この家旦那様の お屋敷おば見てやれば
    倉の数が四十八コラ いろは倉とはこのことだ
    一の倉は銭倉コラ 次のお倉は金(かね)倉で
    次のお倉は宝倉コラ 次の倉から俵倉
    俵倉には米を積むコラ 七万五千の御俵をば七十五人の人足で
    大黒柱を取りまいてコラ 千戸から千石 万戸から万石
                  (栓戸から千石 窓から万石)
    ヤッコラセの掛け声でコラ 棟木までよと積み上げた
    さても見事に積み上げたコラ 
    おほめ下され旦那様サ お祝い下んせ母(かか)様
    ハアー めでたいなめでたいな 
    この家旦那様は百万長者と申される

実は私、「旦那さま」という言葉に非常に弱いのです。
子供の頃からの時代劇好きのせいなのかな。
大店の「旦那様」とか、「若旦那」とか、この響きがたまらなく好き。
なんか、すごく心の広い、いい人っぽくないですか?
若旦那=バカ旦那っていうのもありますが(笑)
夫のことを「主人」というのは死ぬほど嫌いだから(なんか、ワンコのご主人様のように絶対服従みたいでイヤ)、自分は絶対に他人の夫を「ご主人」とは言わないけど、「旦那様」や「旦那さん」っていうのは、つい、言ってしまうなぁ。
これも、芸者さんのパトロンのようで嫌という人も多いから、相手を見て、「夫」とか、「配偶者」っていうしかないんだけども。
女性の自立や平等概念に厳しい方は、「パートナー」とか、「連れ合い」というのを好むのでしょうね。
特に、自分の夫のことを「旦那さん」と「さん」付けしちゃうのはおバカの極みとネットで言われているのを見たので、言わないようにしようと思いつつ…うっかり言ってしまう。
そもそも、私の夫というのは、私よりかなり年上で、経済的、学問的に私が追いつけるような対等な関係ではないし、私にいろんなことを教えてくれた「先生」でもあるので、イメージ的に本当に「旦那さん」なんですよね(^_^;)

南部俵積み唄、旦那さまぁ、旦那さまぁ、の連呼で、もうメロメロです。

二胡LESSON111

「春詩」の引子(曲の導入部分)を曲らしく仕上げようという作業をしました。
この引子は散板(中国の音楽用語で、ゆっくりした速度、不規則な自由なテンポ。伝統器楽、伝統劇音楽などの出だしや終わりによく使われる)なので、それこそ、ちまたの先生方のCD聴くと、皆さん、処理の仕方が違います(笑)
ナナ先生がいうには「民族音楽の引子って、いくら自由に弾けって書いてあっても、譜面の枠から外れていいわけないし、そこが下手くそだと、もう、曲全体も最後まで聴けたものじゃないのよね…」
た…確かに。
ここで、人を引き付けるだけの配慮と腕がなければ、誰も最後まで聴きたいとは思わないでしょう。
譜面上では、同じ32分音符が並んでいるだけの部分も、機械的に同じ長さで弾けばいいのかと言うとそうではなく、前後のバランスを見て変えなくてはならない(つまり、音の長さの対比が明確になるように調整する)。後に続く音が長い音符なら、その一つ前の音も、長めになるとか、そういう構造的な話をしてくださいました。

そういう、譜面に書いていないお約束みたいなものをある程度知った上で、先生方の音源聴くと、確かに皆さん、全体的にみたら、み~んな違う弾き方してるけど、原則は同じかも。例えるなら、皆さん、中国語で書かれた台本をお読みになっているので、文法は基本的に同じで、音声も同じだけど、音質と喋り方の癖は人それぞれ違うでしょう?ってことだと思います。
よく留学生が、自国でばっちり外国語を習ってきて成績も優秀だったのに、現地に来た途端、学生(特に若い子)が何言ってるのか分からない、喋れないと言いますが、当然ですヨ、だって、誰も教科書通りに喋る筈ないでしょ~
これと同じで、散板も、ある程度、規則を知ってて、経験つむしかないのかもしれないんだよなぁ…と思います。
京劇とかの譜面みると、最後が「散板」とかになってて、もう、何拍子なのかも分かんないメロディーが畳みかけるように続いたりしますが、分かる人には分かるわけで…
分からない人には分からないんですよ(^^;
何でって?
ある意味、音楽は「言葉」だからだと私は思うからです。
soundとして聞いている分には、どの国の人だろうが、な~んとなくノリは分かります。
でも、文法知らないと、何言ってるのか本当には分からない。
もっと言えば、文法知ってても、その国の習慣を知らなければ、言葉を額面通りに受け取るだけで、言葉の裏の意味が分からない。
これは、外国音楽にかかわらず、日本の昔の音楽なんかもそうだと思うんだよね。
特殊な家に生まれない限り、西洋音楽から外れた音楽を聴く機会は少ないわけで…
普通の家庭に育った人が、いきなり長唄とか、民謡とか聴いても通常は面白くもなんともないと思うんですが(^^;
異国の言葉を知らないので、soundとして聴くよりほかないワケだから…
そんなの、風の音が聞こえる、水流の音が聞こえるという自然音と全く同じですよね。
癒されるわぁ~でお終い(それはそれでいいけどね)。
コミュニケーションが成り立たないというか…。

誤解があるといけないので、ちょっと付け足しますね。
上記は私が、そう思っているということで、私の先生がどう思っているかは知りません。
私は民族音楽に新しいものを加えることに、反感を持っているわけでもありません。
民族楽器を手に取るなら、ちゃんと深いところまで習えよみたいに偉そうなことを人に押し付ける気も全くありません。
日本人らしい外国民族音楽の弾き方があってもいいと思います。
でも、私としては、それは別ジャンルだと思っています。
別ジャンルだけやる人がいてもいいし、その国(地域)の文化にこだわる人がいてもいいし、両方やってる(食うためにやらざるを得ない?)人もいますよね。
それは、人の好き好きと事情によるものでしょう。
私は今のところ、自分ができるかどうかにかかわらず、原型は知っておきたい人なんです。でも、私にどの楽器持たせても、変な音って言われてるんだよなぁ…(^^;
それって、私が日本人がどうこうという異文化問題の前に、単に音楽の資質の問題かもしれないけど…
先生って正直ね…

【余談】
先週はお休みしました。
サボったのではなく、私が週末に熱出してひっくり返り、月曜日にレッスンしてもらう予定が、今度はナナ先生のお友達が薬でアレルギー起こして(アレルギーってショック死おこすから、ホント怖いんだよね)、ひっくり返り、病院やらなんやらで、お互いに時間の調整が付きませんでした。

さて、師走ですが、そろそろ、「いつから冬休み?」「いつから、いつまで日本に帰るの?」という話になります。
まだ、エアチケット買っていませんが、遅くとも一月中旬から、二月中旬まで日本に帰ります。
多分、日本の先生もそうだと思うけど、この業界の人って、年末年始、弾くお仕事がいっぱい入ってくるので、忙しいんですよね。
「12月最後の週は公演の予定が詰まっているので、レッスンしてあげられない」と言われました。
まぁ、そうだろうな…と予想つく話なので、ふんふんと聞いていたら、「でもなぁ、あなた、もうすぐ帰っちゃうわけだし、今、手を付けている曲が完成している訳じゃないし、私としては、今学期、もうちょっと先まで行けると踏んでいたんだよね…ちょうど、あなた自身の心理状態もいいし、この時機逃さずに、もうワンステップ前に行って欲しいから、今週、来週は週に二回レッスンできないかなぁ」と…
おぉ~
せ…先生、熱心すぎて、涙でてきました(T_T)
もっとも、ここは中国、大多数の人がわりと行き当たりばったり的な予定の組み方で日常を過ごしているので(特にお若い方は、年配の人の予定を優先させないといけないので、なお、予定がたたない傾向有)、確実に後4回レッスンできるかどうか分からないけど、そういうつもりで年末、突っ走ろう、4回も無理だったら、残った分は、冬休みの宿題ということで…という予定になりました。

脳内劇場、ただいま繁忙期

思考する時、大多数の人は言語を介して思考するものらしいですが、世の中には映像により思考をするマイノリティが存在するらしいです。
そういう人達は、まず、映像が浮かんで、後から、その映像を言語に変換しているのだそうです。
私は多分、大多数の人と同じで普段は言語で思考しているのだと思うのですが…
思考の源は五感の「感覚」だと思います。
実は、思考の方法というのは、十人十色なのだそうですね。

多くの留学生は母語で文章を書いてから、外国語に翻訳するみたいだけど、私にはその方法が理解できません。
後で他人に翻訳してもらったりすると、私にとって感覚のずれがかなり生ずるので、非常に気持ち悪いことですし、だいたい、自分で書いたものを自分で翻訳する場合でも、翻訳する時に、原始状態の「感覚」に戻って翻訳することになるので、二度手間というか、最初から「感覚」を外国語で表現して、後でネイティブに文法チェックしてもらう方がとても楽です。
もっとも、思考のスピードに言語が追いつかず、後で、「なんじゃこりゃ」って言う文章を書いていることもありますが…

言葉に対応して、何らかの感覚と映像はセットになっているような気がしますが、皆さんも程度の差こそあれ、脳内劇場をお持ちですよね?

私の場合は、歌詞のある曲などで、歌詞を気にして聴くと、映像と感情がかなりリアルにくっついてくることがあります。
ちょうど、カラオケの歌詞を映す映像みたいなやつが脳内劇場でリアルに再現されます。
(ここ十年ほどカラオケなんて行ってないけど、昔はよく歌詞に関係するショートストリーみたいな映像が流れたりしたなぁ…)

お待たせしました、ここからが、本題です(^^;
「津軽小原節」は、私の脳内劇場では、歌詞の内容に沿って、師匠と奥様が盆踊りをしています。
「虎女さま」では、芸子さんと旦那さんのラブストーリーが展開されます。ちょっとだけ師匠に内容を話して呆れられました(^^;
「タント節」とかは、鹿さんが泣くので(歌詞の本当の意味は「泣く」と「鳴く」が掛かっているのかもと思うけど…)、私も哀しくて、哀しくて…「あぁ、撃たないで…」と思いながら弾いています。
「津軽じょんから節」はスピード感が強いせいか、何故か、歌詞に関係なく駆け落ちのストーリーが浮かぶことがあります。

以前、「津軽よされ節」の唄部分の伴奏が覚えられないと騒いでおりましたが、それは、「春は桜の弘前」というところ以外、脳内劇場が映像と音声を再生してくれなかったのです。
歌詞だけ、じっくり見ると、意味不明の囃子言葉(?)のほか、意味の分かる部分がまだあったのですね。
「杯片手に眺むれば、霞に浮かぶ津軽富士」とか…
杯っていうのは、お酒飲む時に使うんだよね?
そう思ったら、いつの間にか、一門のお酒の好きなドラゴン先生のお顔が浮かぶようになってしまいました(ごめんなさい…脳内劇場の出演ギャラはお支払いできません)。
ドラゴン先生が和服着た綺麗なお姉さんと料亭みたいなところで、障子を開けて津軽富士を眺めていたりします。
でも、最後の方は歌詞がなくて、「いぃ~」が続くので、映像も通信障害のように不鮮明になってしまい、伴奏も忘れます(^^;
この後、お姉さんが唄って踊って、ドラゴン先生が伴奏している映像でも流れてくれないかなぁ…と期待するところです。

ところで、「津軽音頭」の歌詞は、「鰺ヶ沢の茶屋の娘は蛇の姿」って唄っていますよね?
言葉を意識した途端、大蛇が浮かんでしまい、ちょっとキモかったので、映像を消去しようと頑張りました。
よくよく考えてみると、蛇って昔からよく人間に化けて物語に出てきますよね?
鰺ヶ沢の茶屋の娘さんは、人間が蛇になってしまったのか、蛇が人間になってしまったのか、どっちですか?
それとも、浮気した彼氏に怒り狂って、蛇のようにぎゅ~って締めあげて殺しちゃうような、そういう性格がコワイ女っていう意味なのでしょうか?
考えすぎと言われようがなんだろうが、私、勝手にこういう映像が浮かぶのを、なかなか止められないんです…ハイ。
中国には「白蛇伝」という、白蛇の化身である女性が、人間の男性と恋に落ち夫婦となるものの、正体が知られ退治されるという物語(数々の翻案作品有)があるけど、私は出来ればハッピーエンドを上映したいです。

京劇とか歌舞伎とかはもともとストーリーがあるから、それに付く伴奏音楽に自然に映像が付きますが、民謡って訳分からん歌詞が多くて…
その分、創作の幅も広がるのではありますが…(^^;

ただいま、脳内劇場の演目、多すぎで大忙しです。
ボランティア俳優さん随時歓迎…