視力あがった?

実は20歳まで視力は1.5ありました。
その後も二十いくつかまでは運転免許の更新、裸眼でOKでした。
実際のところ、左右の視力差がありまして、右目だけ悪くて左はそうでもないんですよね。
ただ、運転免許の更新というものは、両目で0.7だか見えないといけないんですよね?たぶん。
そして、記憶によると3回目の更新ぐらいから、メガネという条件が付きました。
日常生活に支障がないので、めったにメガネをかけることはありませんでした。
ちなみに、私の死んだ父は古い時代の人で

「女がメガネなんてかけた日には、嫁の貰い手がなくなるから、絶対ダメ。」

死んだ爺さんに至っては、

「女は見た目が大事だ。捨て犬だって可愛い犬から、貰われていくだろ?」

と幼いころから、現実を容赦なく教えてくれるような正直な人で、ビジュアルにはうるさかったな~

で、どうせ中国に帰ればメガネはあるので、今度はコンタクトにしようと思い、眼科へ行ったら、左目は0.9見えてますよと言われてしまいました。
確かに、仕事を辞めて専業学生になってからというもの、楽譜以外のものをあまり熱心に見なくなりました。
それまではPCを見ている時間の長いこと、長いこと。
お疲れ気味だったんでしょうね。
今じゃその楽譜ですら、あまり見てないし(笑)

そんなわけで、左目にコンタクト入れたら過剰矯正になるからしないほうがいいということになって、右目だけ、コンタクトを入れることにしました。
昔と違って、最近は1回使い捨てコンタクトってあるんですね…
わはは…昔からコンタクト使っている人からしたら常識なんだろうけど、こんなものまで、使い捨てできるんだ~ってなんかすごいと思いました。
そういや、私の三弦の先生はメガネかけてないので、聞いてみたところ、裸眼で思いっきりクリアに見えるそうです。
本人いわく

「勉強というものをしたことがないから、目は悪くなりようがない」

なるほど…
兄弟子先生方もメガネってかけてないけど、舞台に立つ者としてビジュアル重視でコンタクトなのか、
遺伝的に目がよいのか…
それともお勉強したことないから視力いいのか、どうなんだろう?

心弾かれる音楽?

本日のデート、東京都現代美術館「アートと音楽-新たな共感覚をもとめて」

展覧会概要

本展は総合アドバイザーに音楽家の坂本龍一を迎え、この二つの表現が交差、連動することで生まれてくる多様な作品の紹介を通して、「私たちの時代」における見ること、聴くことの本質的な意味を問いかけます。

長谷川祐子(本展企画者/東京都現代美術館チーフ・キュレーター)

アートと音楽は、二つの異なるジャンルということになっている。しかし音をもってするアート、あるいは視覚表現による音楽というものも、あるんじゃないか。また、アートとも音楽とも、どちらとも言えず、どちらとも言える表現というものもあるんじゃないか。アートと音楽による共感覚、またその境界領域を探ることで、ヒトの芸術表現の根源だけでなく、その未来も垣間見えるんじゃないか、そんな期待をこめてこの展覧会は催されます。

本展総合アドバイザー 坂本龍一

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/138

何かとよくわからない現代アートでありますが、芸術学研究科の院生として、一応、勉強のために見に行ってきました。
正直な感想を書きますが、やっぱり、現代アートってよく分からんわ~
n(ー_ー?)ン?

でも、入ってすぐの作品には理屈抜きで、心ひかれるものがありましたね。
セレスト・ブルシエ=ムジュノ|Céleste Boursier-Mougenotさんの作品なのですが、青い丸いプールに複数の白い陶器のお椀が浮いているのですが、それが流水に乗って動くために、お椀同士がぶつかるたびに、何とも言えない音が会場に響き渡ります。
それは、もう、リズムとか規則性は全くなくて、単なる偶然の音楽です。
陶器と陶器のぶつかる音、カツーンというか、コーンというか、ちょっとカタカナで言いにくい音ですが、すごく響くいい音。
まるで天国のオアシスだわ~
私には心と心が接触する音に聴こえました。
まさに、心弾かれる音楽というわけ。
↓参考URLです。
http://www.mot-art-museum.jp/music/celeste-boursier-mougenot.html

後の作品は、正直、よくわかんなかった。
教授の作品に至っては…こんなこと言っていいのかな…
一緒に観た隣の人も(全然知らない人です)
「これって…どこをどう感じたらいいんだろう?」
「これは何?って聞くのは、野暮ってものでしょうか…」と悩んでおりまして(笑)
凡人にはチョット分かりづらい表現でしたね。

あ、そうそう、ジョン・ケージの「4分33秒」(注:音楽は音を鳴らすものという常識を覆す、「無音の」音楽)の楽譜見ましたよ。
ピアノで演奏(?)されることの多い曲ですが、三味線や二胡でやった人、いないのかなぁ~
今度、自分がやってみよう(^^;

誰がために弦は鳴る


三味線と写真のお稲荷さんは、直接的には何ら関係ありません…

先日、お稲荷さんを二合分作りました。
ハイ、私の得意料理でもあります。(油揚げに詰めるだけじゃんと言わないで…)
でも、その辺で売っているお稲荷さんではありません。
油揚げは、かなり大きめ、薄味、しかもあまり甘くないです。
中は酢飯ではなく、ヒジキと人参の混ぜご飯だったりします。
つまるところ、これは旦那のリクエストに応えて作る旦那仕様のお稲荷さんなので、旦那以外の人が食べても美味しくないかもしれません。

ところで、ピアノなどの演奏家も、聴衆が誰かということによって、演奏処理を変えてくるということが分かっているそうです。
幼稚園のお誕生会での演奏と、コンサートのアンコールでとでは、同じ曲でも弾き方が異なるそうです。
幼稚園のお誕生会では、転調したときとかに音を強調したりすることによって、より分かりやすく、そして明るめに演奏し、コンサートのアンコール曲として弾く場合には、聴衆がある程度、知識を持っていることを踏まえて、曲の構造がより明確に浮き上がることを意識して弾くそうです。
(心理学の分野での実験によると、だいたいそのように言われてます)

プロは、聴衆の反応まで予測した上で計算して弾いてるんですね。
でも、計算違いしたら、きっと美味しくないんだろうね。

で、プロではない人は、誰が聴衆であることを想定して弾けばいいんでしょうね?
まぁ、毎回のレッスンは、先生が聴衆だけど、先生という人種は普通の聴衆として聴いているわけではないから、どんなに努力しても感動してくれるはずもなく…
間違えずに弾けばそれでいいわけですが、先生によっては「私に語りかえるように弾け」とか、かなりハイレベルの要求を出す方もいます。
でも、私の技術はまだ自動化されていないので、弾くたびに

音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った、音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った、音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った、音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った、音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った、音程狂った、リズム狂った、音色悪い、雑音入った…
と、頭の中がぐるぐる回っているだけで、語るものが入り込む余地が何もありません…

もちろん、世の中には自己陶酔しているだけで聴衆はしらっとしているというケースもあるかもしれませんが、これだって見方を変えれば、自分という聴衆に対して満足のいく音楽を提供しているわけですから、それはそれで立派です。

私は自分自身をも喜ばせられない。
ハイ、かなりスランプかもしれません(^^: