スクイは何のためにあるの?

それは、二胡のレッスン中に湧き上がった疑問でした。
「スクイ」って「救いようがないおバカ」のスクイじゃないですよ(^^;
いわゆる、弦をはじく楽器でいうところの、アップ・ピッキング’(上に向かってはじく)です。
え?なんで、二胡の弓を推したり、引いたりしてる時に、そんなこと考えてるのよって?
えーこういうことです。

人間って生理的には、弓をひくのはわりと自然に出来ますよね。
だから、拉弓(弓を右へひっぱる)から弾き始めるのは割とスムーズ。
でも、推弓(弓を左へおす)から始めるのって、やりにくいよね。
西洋音楽でいうところの二拍子なら、強弱だから、拉弓、推弓の順番で、それなりにリズムもあってる。
これを逆にしても、推弓できちんと強拍が出せるか…
で、練習のために、推拉推拉推拉推拉…とひいていた筈が、拉推拉推拉推…あれっ、どこで変わっちゃたんだい?ってなことが起こります。
弓を推そうが引こうが、できるだけ同じ音色、強さで弾けるようにしてみようという訓練しますよね。

中国の弾く系の楽器でも、弾(下へ向かってはじく、いわゆるダウン)、挑(上へ向かってはじく、いわゆるアップ)をやると、ダウンは重力があるので、誰でも結構、スムーズに大きな音が出ちゃいます。
それが、アップになると、ふにゃらとなる。
特に琵琶や三弦という、ピックを使わず指の爪で弾く楽器になると、初心者は顕著にアップが弱い。
というのも、アップは親指を外側に動かすことで、弦を下からはじくので(つまり手を握る時と逆の動きを速く行う)、これは日常生活では使わない筋肉を動かす必要があるため、まず動かし方が分からない。
で、器用に動かせたとしても、指の力のない人は、大きな音出ません。
それを解決するために、何をするか、挑弾挑弾…つまりアップ、ダウン、アップ、ダウンの順ではじく練習するんです。
そして、親指と人差し指の力を同等になるように鍛え上げ、なるべく同じ音色、音量で弾けるようにします。

ところが…三味線にはそういう概念ないみたいなのよね。
そもそも、ゆっくりめの曲なら、打ってばかり(ダウンばっかり)、アップが必要なところはわざわざ「スクイ」と表記してあって、それ以外は糸をスクウ必要がない…
だいたい、打つときとスクウときでは、音色が違って当たり前なんだから、音量や音色を均一にする必要もないので、そんな訓練をわざわざしない。
津軽なら、打つ時(ダウン)は皮まで叩いて、タンと抜けるような音、あるいは前の方で打つ時のッという音を出すけど(そうでない時もある)、アップ(撥で弦をすくいあげる)は、そもそも皮に触れようがないので皮を叩く音は聴こえない。
スクウときの音にもいろいろあるけど、いずれにしても、アップをダウンと同じ音色目指すなんてことは、ないこともないが主流ではない。
ううむ、それが独特の味わいになってるんだなぁ…と思ったりして。
まぁ、撥の角度によっては、ギターみたいに普通にタタタタ…と均一にトレモロできてしまうけど(ピックと同じように動かせないこともない)、それはここ最近の洋楽、現代曲を意識した話でしょう?
中国人には、でかい撥でタタタタ…と弾くのは、信じられないらしく…よほど熟達した先生でないとできないと思ってる人も多いけど、意外とそうでもないので、師匠よりはずいぶん遅いスピードだけど、スクってみせると、器用だねと言われる…いや、私が器用というより、日本人全般がわりと器用なのでは???

「別に均一じゃなくたって、これがいいんだよ」という三味線のスクイって何か面白い。

もっとも、中国三弦のアップも、民間曲なんかでは、わざわざ4回連続挑(アップ)なんていう表記がしてあったりします(本来、何も指定がなければ、人差し指のダウン、親指のアップという順で交互に弾くお約束です)。
この変な指定の意図は何かと先生に聞いたら、これだけ遅いスピードなら別に4回連続の人差し指の弾(ダウン)でも同じ効果出せると思うけど、要するに弱めで揺れる音を楽に出せるから、そういう指定したか、そうでなければ、視覚上の問題だろうね、との回答でした。

あぁ、日本語ってなんてムズカシイ言語なんだろう

日経ビジネスオンラインの記事を読んでいて、あーこれ、分かる、分かる、英語だけじゃなくて、中国語でもそうだよと思いました。

High Contextは、以心伝心、あうんの呼吸が通じる文化。それに対してLow Contextは、きちんと言葉で説明しないと通じない文化ということになります。
グローバルプロジェクトではいろいろな国や文化の人が参加していますので、Low Contextに合わせることをお勧めいたします。誰がいつまでに具体的に何をするのかということを伝えないと、「このようなことを期待しているのだろう な……」などと気を回してくれないので、おそらく仕事は出来上がってこないでしょう。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20130607/249352/?mlt

【これで乗り切れ! 「英語」で初仕事】英語で「がんばります」は要注意?
「お先です」「お疲れさま」も英訳不能―岡田秀雄

私がかつて通っていた大学は中国研究では知られた大学だったので、中国人留学生や中国留学帰りの先生、生徒が異常に多かったわけですが、当時、K先生はことあるごとに我々におっしゃってました。

「アジア人は見た目が同じだから、うっかり、相手も自分と同じように考えているに違いないと思ってしまうけど、これは大きな間違い。西洋人といるんだぐらいの気持ちで接しなさい」

そういえば、日本人のメールの出だし、「お疲れ様です」が多いですね。
枕詞のようなものだと私は思ってます。
夫も学生(といっても、法科大学院生なので、様々な年代の方がおられます)から来るメールに「お疲れ様」って書いてあると「疲れてねーよ(笑)」と心の中で呟くのだとか。

私の三味線の師匠も、前はよくメールの出だしがこうでした。
多分、どっぷりと日本社会の文化の中にいらっしゃるからなのかもしれません。
師匠の親戚には中国の方がいらっしゃるので、以前、私は師匠に「師匠は中国語できるの?」と聞いたことがあります。
「いや、できない。でも、“お疲れさまでした”ってなんていうの?って教えてもらったよ、“辛苦了”っていうんだっけ?」っておっしゃてました。

中国人同士なら、まず言わないな~。
確かに間違ってないと思うし、師匠ぐらいの社会的な立場の人が私にそう言うなら問題ないだろうけど、私は師匠に“辛苦了”なんて言えないよ~
確かに“辛苦了”は、直訳すれば「あなたは疲れている」という意味なんだけど、「あなたすごく大変だったわねぇ、ものすごく頑張ったのね」っていうニュアンスだと思うんですよ。

「いつもお世話になっております」とかもね、日本人相手に仕事をしている中国人なら、そういう言い回しの中国語を無理に使うだろうけど、中国人同士なら、ない、ない。

日本語が堪能な中国人でも、私に日本語のアドバイスを求めてくる時は、往々にして「こういう趣旨のことを言いたいんだけど、ハッキリ言うとショックかもしれないので、はっきり『NO』という意思が相手に伝わるけど、言葉的にはやんわり言う方法はないか」と言うもの。
うん、なんか分かるよ。
中国語をそのまま日本語に翻訳して日本人に伝えたらショックな言い回しって結構あるもの(笑)。

実は、私が今一番、理解に時間がかかるのが日本語だったりして…
本当に空気読むのが難しい言語だと思います。

関係者の皆様、私に話しかけるときは、「こいつ、宇宙人だったな」ぐらいの気持ちで、具体的におっしゃっていただけると助かります。

二胡LESSON97

えっと、前回からちょっと間が空いております。
それは6月12日の端午節の休暇のために、先日の土日が月火の振り替えになって、中国では土日出勤、月火水と休みとなるために、ナナ先生の予定も狂いまくったからです。
火曜日の4時半においでと言われていたのが、午後になって「ごめん、オケのリハーサルが終わりそうにもないので、水曜日じゃダメかな?」とメールが入り、水曜日の午前中にレッスンとなりました。

久しぶりにナナ先生の前で音階を弾きました。
音程が低い高いという注意ではなく、
「上にのぼっている感じがするから、もっと、地面に向かって弾けないかな」とワケの分からない注意を受けました。
ううむ…上へ行くのではなく、下に行けと…
「下に水が流れているか、砂地に立っているような気分でひいてみて」と、なんともまぁ、音楽家の言う例えは奇妙ですなぁ。
つまるところ緊張して弾いてる感じがするということなので、落ちついて弾いてみたらOKでした。

最近、気付いたんですが、私、人前で弾くと、呼吸が不自然なんですよね。
どこで、息吸っていいか分らないというか、息を吸うタイミングが変と言うか、50Mの全力疾走のときみたいに多分、息吸ってないのよね。
酸欠甚だしく…
それが分かっているので、練習中はなるべく息を吸ったり吐いたりするリズムと手のリズムを合わせてみたりするんだけどね。
そう言ったら、ナナ先生は「私だって、家で一人で弾いている時と、オケで弾いている時は多少違うわよ。口が渇くもの」とおっしゃってました。
おバカでない限り、それは当り前の生理反応だから、気にすれば気にするほど、苦しくなるから気にしないのが一番よとも言われました。
ううむ…

相変わらずの課題曲「賽馬」
ナナ先生の感想は「ほんと、なんというか、相変わらずドラマのない弾き方するのよね」
ごもっともでやんす。
息苦しいので、「早く終われ~」と思いながら弾いてます。
ドラマチックじゃないという弾き方は、要するに演劇で言うところの棒読みです。
科学的に言えば、音の強弱とか、弓の使い方の長短、アクセントの付き方等、対比すべき部分がきちんと極端に使い分けられていないということです。
「京劇とかだと、もっと明確に、強調させたい部分の前にタメがあったりして、次の音がはっきり強調されたりするでしょう?メリハリちゃんとつけなさい」と言われました。
おっしゃるとおりだと思います。

昔、私も、三味線の師匠にこう言ったことがあります。
「師匠が弾くと、“駆け落ちして、波乱万丈の人生送ってます” みたいにドキドキするけど、某さんが弾くと“真面目な公務員と結婚して平凡で幸せな日々を送ってます”って感じがするんですよね。」
前者はお芝居の脚本になりますが、後者はならないですよね。
まぁ、自分も人のを聴いてる時は、そういうことが大切って分かってるんですけど、自分が奏者になると、とたんに弾けないんです。

本日のナナ先生の迷言↓
「演奏とは無いものを有るかのごとく人に感じさせることです」
私の解釈↓
「演奏家って…ずいぶんヤバい人じゃん」

さて、ずいぶん前に「葡萄熟了」の前半をちょっとやってみようと言われてた話は書いたと思いますが、結局、私が「もう、弾きたくない」と言って流すことにしました。
無理だよ、あんなに綺麗な曲は、まだ…
自分が好きな曲だと、がんばって弾けるようになって、自信をつける人も多いんだろうけど、私なんかは、理想が高過ぎるので、だんだん嫌気がさしてくるのよね。
世にも美しい曲が、自分の腕にかかったせいでどんどん地に落ちて行くのが、耐えきれないというか。
そういう意味では、賽馬も、世間では人気があるみたいだけど、私は何とも思っていないので、続いているのでしょう。
そういうことで、「喜送公糧」やってみようということになりました。
全然、思い入れのない曲だけに、こっちの方がやりやすいです。