器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ

「器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ」

というのは、中央音大の周海宏先生の先生が言った言葉だそう。
どこの医者が患者に向かって「何でお前病気なんだよ」と怒鳴るだろうか。
往々にして先生というのは、生徒が出来ないのは、生徒がおバカだからとか、才能ないからだとか、練習怠けてるに違いないだろうと疑うけど、
世の中におバカな生徒はいない、いるのは教えられないおバカな先生だけなんだよって。

もちろん、これは理想であって、現実には不器用な生徒もいるんだけどね、って周先生も付け足したけど…
医者にどうしても治せない病があるように、先生にだって、どうしても上手く弾けるようにしてあげられない子はいるかもしれない。
でも、最初から見捨てる医者がいていいわけがないだろう、って。

中央音大って音楽の最高学府だからね。
生徒の資質がよすぎちゃって、教えなくたって、出来る人は出来るわけで…
いい先生になろうと思ったら、不器用な生徒をいっぱい見なさい、というのが周先生の提案だったりします。

資質がよすぎちゃう人が往々にして先生になるわけだから、出来ない人の気持ちが本当に分かる先生って、ある意味、極めて少ないと思う。
上手く弾けない人は、弾けない人の気持ちがよく分かっても、上手く弾けない先生に習いたい生徒がいないのも事実で…天賦の才能なんてなく、かつて上手く弾けなかったけど、何らかのきっかけで、そこそこ上手く弾けるようになった先生、というのが、ちまたのお稽古ごとの先生に本当に向いているのだと思うけど、そんな人、ほとんどいないだろうね…

ちなみに、周先生はもともとピアノ専攻で、本人曰く、腕が大したことなかったから作曲に転向して(本人大したことないって言っても音大附属出てますからね(笑い))、それも創造力に限界感じて、最終的に理論学問(音楽心理学など)に転向したそうです。
自分が身体的に恵まれていて(手が大きくて、器用だった)、日頃、音楽的感性がないわけでもなく、日々練習をきちんとして、ちゃんと弾けるのにもかかわらず、いったん、通してピアノを弾き始めると本当に面白くない演奏しかできないのは何故だろうと、ずっと思っていたことから、実際の手の動作と心理動作の関係を深く知りたいと思うに至ったのだとか。

卵焼きに始まり卵焼きに終わる

「料理は、卵焼きに始まり、卵焼きに終わる」そうですが、演奏は脱力に始まり脱力に終わると感じた一日でした。
この度、訳あって中国三弦の弾き方を根底から変えることにしました。
(まぁ、了解を得て別の先生に教えてもらったんです)
楽器の持ち方から、左手、右手のフォームまですべて、今までの癖を捨てることにしました。
楽器の持ち方って本当に大事ですよね。
実は、私、楽器を持つ段階からすでに脱力できてなかったんです。
その状態で弦を押さえたり、ポジション移動してたわけですから、身体にかかる負担は重いでしょう。
苦労している割に下手だったから、本当に苦しかった…
いや、今までの方法を完全否定している訳ではなく、それで脱力できる人はそれでいいんですよ、ただ、万人にそれが向いているとは思えないってことです。

楽器の持ち方や弾き方が自分にとって合理的じゃないと、結局、上手にはなれないし、無理やり続けると身体壊します…
もっとも、趣味程度なら、無理やりのフォームでも弾けてしまうし、弾ける曲数が増えればそれでいいというなら、どんな弾きかたしたっていいわけです。
また、ほんの遊びなら練習時間も大したことないので、身体壊すに至りませんが、練習時間が多い人は、超初心者の頃から、気をつけるべきですよね。

弾き方の習慣を変えるのは、それを続けた期間の倍はかかると言います。
私はしばらく何も弾けないでしょうねぇ。
楽器を持つだけのレッスン一時間経過…
普通の人なら、飽きちゃうでしょうね。
弾き方を変えて、今までより綺麗な音が楽に出せるようになった人を知ってるから、自分も変える踏ん切りがついたんだけどね。
いつか、身体と楽器が一体化してると感じられるように弾けたなら、時間とお金は費やした意味があるんだけどなぁ。

ちなみに、私は三味線も二胡もガチガチの状態で淡々と弾いてます。
楽器が歌っている、喋っていると感じたことは一度もないんですよ。
頭と手と心がバラバラ状態。
ただ弾いてるだけと、演奏しているというのは、根本的に違うと思うんです。
人前で弾いた時は、いつもの十倍、ガチガチだから、手が棹を滑ってくれなくて、終わると、いつも一晩、眠れないでいます。

私のレッスン前は、よく知っている人のレッスンでしたが、舞台でのあがりについて先生と雑談していました。
舞台上ではどんな上手い人でも、いくらか場数踏んだ人でも、ある程度、緊張して、いつもより手のコントロールがきかなくなるものです。
(ちなみに、まったく緊張しない人もいますが、それはそれで大失敗…例えば、リラックスしすぎて、コンクールで時間オーバーする等、やらかすので、よくないわけですが…)
でも、普段、本当に自由自在に弾けているのであれば、舞台上で多少、手が不自由になっても、まだコントロールが及ぶと言うか、何とかなるものだそうです。
あがるのは、練習が足りないからだと、人のこと何も知らない人に言われムカついたり、心の問題が大きいかとも思ってましたが、初めて一理あると思いました。
思うに、舞台の下で私が普通に上手く弾ける状態って、先生方が多少緊張して舞台上で弾いてるような状態だったわけですよ。
そんな私が舞台に上がったら(レッスンで先生の前で弾くことも含まれます)、ド素人同然にガチガチで手がいうこときくわけないじゃないねぇ…加えて、心理的な焦りが追い討ちかけるわけだし。
舞台下で正しい練習してこなかった、そういうことですね。

生まれて初めて、弦が軽いと思いましたよ。
そして、棹の上をこんなに速く手が楽に滑るもんだというのも、一瞬でしたが感じました。
その自由な軽い感覚が、一秒以上、できるだけ長く続くように、これから練習すればいいわけよね。
最低300秒連続で続けば、一曲が弾けるわけよ。
津軽三味線とかなら、一曲が短いから、その軽く感じた一瞬が連続180秒ぐらいでいいわけよね。

結局、すぐ上達する人や才能あふれる人は、「慣れれば、脱力できる」とか何とかぬかすけど、凡人は脱力できる前に、身体壊すんじゃなかろうか…
あるいは、上達しない自分に嫌気がさす。
で、泣く泣くやめざるを得ない…
二胡が広く普及するのも、楽器本体が軽いせいと、弓も軽いせいで、どんなにガチガチで弾いても、身体壊すに至らないから、根気のある人やお友達が多い人は長続きして、そのうち、ちまたで天才肌の先生が言うように「慣れれば、脱力できる」に至るのではなかろうか、と思わなくもないんですよね。
大きい或いは重い楽器は、不器用な人が無理すると、身体壊す…
私が相当ひどい状態だったにもかかわらず、完全に身体壊す前に何とかここまで毎日、長時間弾いていたのも、単に身体的に恵まれていただけなんだなぁと、思う次第です。

もし、将来、自分が教えることがあったら、本気で上手くなりたい人には、傍から見てそこそこ弾けていても、本当に本人が無理してないかどうか、気にしてあげたいです。

お調子者だけど憎めない秋田荷方節

自分が弾いている楽器が人の声に似ていると言う演奏家は少なくないですよね。
多分、そのくらい上手い人になると、人と楽器が一体化してしまうので、自分の言いたい事を、自身の声ではなく、自身の楽器に喋らせることができるからなんだと思います…。

そういえば、「秋田荷方節」みたいな速度が速くて独特のリズムがあるものは、上手い人が弾くと、なんか、調子のいい男に口説かれているような気がするのは私だけ?
思いつく限りの言葉で、たたみかけるように「大好きだ~」と言われているような気がするわ。
「調子いいんだから、もぉ~」と思いながらも、気付いたら、いつの間にか付き合うことになっていた…みたいなね(私には経験ありませんが^^;)。

譜面どおりに弾いているけど、独特のリズムに欠ける弾き方をされると、
「私はXX大学出て、YY会社に勤めていて、年収がこれだけですが、結婚を前提にお付き合いしてください」と言われているような気がします(もちろん、こういう無難なのが好きという女性も多かろうが…(笑))

ちなみに、私が弾くと、せいぜい師匠の速度*0.8ぐらいの速度でしか弾けません。
私の弾き方を例えるなら「明らかに嫌われているのに、空気よめずに、しつこく付きまとうウザい男」…問題外ですね。

せめて、速度が遅くてもいいから、誠心誠意、自分の言葉で「あなたが好きなんです」と伝えられる好青年になりたいなぁ。

あぁ、「秋田荷方節」弾きながら、そんなこと思っているのは、私だけ?