イマジナリーフレンド

海外の映画やドラマに、幼い子がImaginary Friend (想像上の友人)を持っているという話がよく出てきます。
傍から見たら存在しない子に話しかけているとか、押し入れに友達が住んでいるとか言いだすやつですね。
成長とともに消えるみたいです。
作家とか、芸術家の中には、大人になっても、いる人にはいるらしいですが…
自分の中に別人格があって、別人格の出現中は記憶がないとか、別人格に主導権を握られるとかいう話になってくると解離性同一性障害(俗にいう多重人格)、誰かに命令される声が聴こえるとかいう話になってくると統合失調症の疑いがあると思うんですが、以下、そういう話じゃないので、よろしくです。

私は、授業中、よく先生の話を聞かずに、ニコニコしながら窓の外を見ていた子だったそうです…。
まぁ、これは、先生の話があまりつまらないので、実際の出来事を思い返して、思い出し笑いをしていたとか、自分でお話を勝手に想像、展開して遊んでいたものと思われます(実は、今でも、ツマラナイ講義やシンポジウムに参加している時など、よくやっていることだったりします…)

私には、はっきりと姿かたちが見えるイマジナリーフレンドがいたことはないと思うのですが、どうも空想上の話相手がおりまして(ひかないでね…)、大学院生になった頃、それは「先生」だったのですよね。
実際の論文の指導などは、研究所の指導教官(本当に存在する私の先生)にするわけですが、それ以前の議論は、想像上の先生にず~っと話しかけているという状態なわけです。
だから、中国に来る前は、全然、中国語が話せなかったのに(もちろん、文法の基礎はありましたが、聴力と会話能力が非常に劣っていたわけです)、数か月経過する頃から、懐いている人にはひたすら喋りまくるという現象が起きて、周囲は首をかしげていました。
(だって、毎日、中国語で頭の中で会話し続けているんだから、当然でしょう…)
もちろん、本人もリアルの先生に話したことと、空想上の先生に話したことの区別はついているので、先生に「この前、こう言ったのに覚えてないんですか」みたいな文句を言ったりすることはありません。
法学の院生をやめてから、出現回数は減りました。

仕事しながら、趣味として楽器をやっているときは、出現しなかったのですが…仕事辞めて毎日が音楽三昧という生活に入ってから、当然のごとく、音楽系の先生、先輩が話相手になりました。
もちろん、技術的に困った時の質問はリアルの先生にしますが…
くだらない質問までリアルの先生に聞くわけにいかないので、この世に存在しない架空の友人と遊ぶようになりました(^^;

あぁ、もう私、ヤバい人なのかな。
まぁ、作家が自分の設定したキャラが頭の中で勝手に歩きだしている状態っていうのが近いのかなと思います。
子供の発達と同じように考えるのなら、成長するにつれてリアルの友人関係が密になってくるとイマジナリーフレンドは消えるわけですから、私に音楽友達ができれば、いつか消えてなくなるんでしょうかねぇ。
でも、それは、難しいと思うな…私の音楽知識も技術も中途半端だから、技術は余り向上しなくてもいいから楽しむことに比重が重い人とは話に限界があるし、かといって完璧なプロと同等に話せるわけもないから。
おまけに人みしりだし…

ちなみに、このイマジナリーフレンドは「奏」君、読み方はカナデといいまして、お母さんが筝の先生をしています。
ピアノと筝と三味線が弾けますが、左手の小指が怪我のせいで動かないそうで、とても個性的な演奏をされます(笑)。

う~ん、不健全なのかどうか分かりませんが、架空の先生とリアルの先生が混同しちゃうと困るので(そういう病気ではないので大丈夫だとは思うけど、分けているのが面倒くさい)、もう、架空のお友達がいてくれないと困るんですよね…
ちなみに、私はブログを書くという行為も、頭で話すことの延長で、ただ、ネット上の誰かに向かって書くと言う行為は責任を伴うし、なにより文字を打つということ自体が時間を食うんですよね…
だから、やっぱり、イマジナリーフレンド、必要なんです。

卒業=失業

現在の私の周囲には芸術関係の学生さん多いですが、卒業=失業…です。
卒業後、別の学部に入り直したり、大学院行ったりするのは、よくあることで、これが経済的、能力的に無理だと、もう後は適当に何でもありの職業に就て、今までの人生捨てる、これもよくあることのよう。
しかしながら、誰でもなりふり構わなければ、何らかの職に就けるというわけではなく、いわゆるツブシのきかない子は、どうしようもないわけですね。
先日は、法学部に入り直したいという板胡専攻の子に、「あなたって、以前、法学の院生だったんでしょう?法律って就職先どうなのかな」って聞かれました。
先日も三弦専攻の先輩がどこぞのショッピングモールで、ネイル塗ってたという話を聞きました。
苦労して音大行って、お金も随分かかったのに、中卒、高卒でもできるネイリストかよって、言われちゃうわけですが、本人が幸せなら、それもいいんでしょう。

学部の学生さんの悩みというか、愚痴を聞いてるとたまに、「あなたは悩みなくていいね」って言われます…
ひど…私だって、若い頃は、胃も心もボロボロだったのよ。
三度ほど、前の人生捨てたかな。
他人が「この道、30年、40年やってますが…」とか、「勤続年数50年表彰」とかって聞くと、本当にすごいと思います。
「とても運がいいんですね」と言いそうになるのを、やっとの思いで呑みこみます…ごめんなさい。
今、私が何の悩みもないように見えるのは、オバサンには何の選択肢もないから悩んでもどうにもならないから、笑うしかないだけです。

そういう私も近頃、心の調子がよくないデス。
すごく虚しい…
もう、頑張らない、一生懸命何かをしないと決めたのに、気づくと、くそ真面目に一生懸命になってる…
でも、一生懸命何かをしても、最終的に運がなければ、結果なんて何にもないから、心にぽっかり穴が空いたまま埋まらない…
(ちなみに運も実力のうちと言いますから、別に天を恨んでもいません)

病まない人は、結果でなく過程を楽しめる人なのでしょうね。
でも、現代社会では、過程なんてどうでもよくて、数字や結果が全て、これが現実。
若い人に、「無駄なことなんてないよ」と口ではいいながら、
自分が一番、それを信じていないという矛盾(・_・;

ちなみに、職業適性検査などをやってみると、私はクリエーター分野だけ異常なほどポイント高くて、後はボロボロ…
接客とルーティンワークの事務業が一番向いていないと出る…そんな分野の適性だけ高くても、超人並みの才能や技術がなければ、ビジネスとして成り立たないので廃人になるしかないではないの…苦笑。

二胡LESSON104

さて、今回のレッスンは30分くらい、長弓と音階を弾いていたでしょうか。
あはは、私ぐらいの年月習っていて、ある程度簡単な曲は弾ける人がこればかりやるって、日本の教室ではあまりないことかもしれないですね。
いや、中国でも、中央音大のXX先生はこんな簡単なことばかり何度もやらせて、時間の無駄だったというような話はあるようです。
じゃあ、無駄なことしてたの?先生が手を抜いてたの?
むしろ、逆ですよね。

今回のポイントは触角…ちゃうちゃう、「触覚」です。
人間って、いちいち沢山のことに注意を払えないんですよね。
音階を弾く時、私は通常、音程に気を取られて、他の大事なことに注意を払っていません。

子どもの頃、よく騙されませんでしたか?
「バスに3人乗りました。次の駅で2人降りました。次の駅で5人乗りました…」
ときたら、普通考えられる質問は「今、バスに何人いる?」ですが、「バス停何個あった?」とやられると、誰も気にしていなかったので、「あれれ?騙されたよ~」となります。

「スカート穿いてる通行人を数えていてね」と子どもに言えば、普通はちゃんと数えていますが、後で「どんな色が多かった?」「どんな柄が多かった?」と聞いたって、特にお洒落に興味ない子は覚えちゃいないですヨ。こういうことは、予告しておかないと、誰も注意を向けません。

同じですね。素人が音階弾く時、普通は音程の狂いに最大限の注意を払っていますから、誰もそれぞれの音の「振動」「共鳴」が同じかに注意払ってますでしょうか…

言われちゃいました。
私が何気に音階弾くと、それぞれの音の共鳴に、ばらつきがあるのです。
音程はだいたい合っていますから、普通はハイ、OKで過ぎちゃうところですが、盲点ですよね。
どうやって、均一にするか。
それはもう、耳(音量や音質みたいなもの)と指が感じる「振動」の感覚なのですヨ。
心をまっさらにして、音程なんてだいたい合ってりゃいいからというつもりで、指だけに集中すると、弦ってこんなに震えてたんだなぁ、ということに気付かされます。
もっと言えば、楽器って全体が震えてますからねぇ。

ナナ先生の提案は、「夜に真っ暗な部屋で、音階弾きなさい」
まぁ、日頃、目をつぶってても同じことですが、出来れば静かな方がいいからでしょうね。
ちなみに、私は三弦系の楽器を弾く時は、つい棹を見ることがあるので、真っ暗は怖いかもしれないです。棹を見るのもよし悪しで、この前なんてぼけ~っと弾いてたら、高音域で師匠と全然音が合わない。
あれ、押さえてるところはそんなにズレてないと思うけどなぁと思ってたら、糸そのものが緩んでたという…途中で、聴覚で気付いて糸まけよって感じですね(汗)

二胡になりますと、そもそも弦を見たって、そんな音程の微妙な距離なんて視覚でコントロールできる範囲じゃないですから、全然、見ません。
別に暗かろうが、明るかろうが、よそ見してても、第三ポジションくらいまでなら、音程狂わず弾けますよね、普通。
そういう視覚OFF状態であるにもかかわらず、耳は音の高さだけに集中していたので、弦が最大限に振動しているかなんて気にとめていなかったのです。
人差し指で押さえる時、中指で押さえる時、薬指で押さえる時、その弦の振動している感じにばらつきがあるので、綺麗な音が均一に出ていないのです。
例えば、D調なら、暗闇で、薬指でファの音を出して、その振動感覚と同じにように鳴るように、同じ音を今度は人差し指で弾いてみる。
同じ音を違う指で弾いていって、均一かどうかに注意を払ってみる。
そういう練習を一回5時間ぐらいしたら、1日くらい練習せずほったらかして、1日後にまた楽器をさわってみると、あら、前より指の感度が良くなったような気がするよ…
ということがあったりするのだそうです。

まるで少女漫画「ガラスの仮面」の北島マヤがヘレンケラーを演じる前の特訓みたい…
(余談ですが、あれ、まだ終わってないんですね…70年代から連載!?…実写ドラマでマヤを安達祐実さんが演じておられたのがついこの間のような気が…そんな彼女も今は立派な大人…)

目の見えない音楽家の聴覚もさることながら、触覚というものも、目の見える人とは比べ物にならないくらい敏感なのだと思います。
そもそも、目の見える演奏者にとって、目って、譜面を見るということと演出効果以外に何ら役に立ちませんから、練習する時なんて、そもそも目を開けている必要なかったんだよね(笑)。