譜面に現れないけど、何かがそこにあるのは間違いないもの

先日、盆踊り踊りたいなぁ~というブログ記事を書いてから、子供のころに聴いたあの曲はなんという曲なのか、とかが気になって、だいたいの察しをつけて動画サイトで確認したりして遊んでいました。
曲名知らないだけで、実は聞き覚えのある曲ってあったりするものなんですね(^^;

三つ子の魂百までではありませんが、そういう身体で覚えている曲というのは、間のとり方が楽だということに気づきました。
だって、自分が何となくでも踊れる曲は、その動作の初めから終わりに必要な時間を理屈ではなくて、身体が分かっているということですから。

こういう曲って、四分の二拍子とかそういう理屈ではありませんしね…

先日の津軽三味線のお稽古での会話
師匠「こういうリズムをキープしてれば、だいたい何とか形になるものだから」
私「それが、一番難しいんじゃないんですか~(笑)。先生は子供のころから聴いてるから、いいけど、私には、何の縁もゆかりもありませんから」

そう、私は師匠の音に恋してなければ、絶対に弾かなかったと思うよ、津軽民謡。
だって、何を言っているか、意味分からないもの。
(もちろん、調べたり、本読んだりするから、なんとなく歌詞の意味は知っていますが、一字一句、説明できないし、その曲にまつわる思い出があるわけでもない。)

師匠が、自分が教えるのは一つのパターンにすぎないので、いろんな人のを聴いてみたらいいよとおっしゃったので、聴いてみると、本当にいろんな伴奏があるし、いろんな唄い方があるわけで、知れば、知るほど、自分との間に溝がありすぎて、正直、いやになってきました。
曲が、単に譜面通りに弾けたからって、何かいいことあるわけでもない。
そんなの、ある程度、何らかの器楽の勉強をしたことがある人なら、できて当たり前だから、嬉しくも楽しくもなんともない。
ましてや、誰かが聴いてくれて、喜んでくれるものでも有り得ない。

本当に手に入れたいものは、もっと先のものなわけで…
でも、三味線まともに構えられず、きちんと撥が振り下ろせないのに、そんなこと言ってもねぇ、ってことなんですが…(いじいじ…)
もちろん、楽器のド素人の人から見たら、私は普通に三味線構えて、普通に弾いているように見えるかもしれないけど…正直、私は、ある日、突然、言語機能を失った人みたいな気分で弾いてます。
思ったように喋れないのに、喋ろうとして、他人が分かってくれない寂しさを当り散らしている感じ?

科学的に分析すれば、私が弾くじょんから新節の前弾きは、師匠のいうように
「きちんと撥付ができていないから、例えば前撥に行くときの距離、滞空時間が短くて、それが結果的に、妙にせわしなく聴こえる」原因になっているのかもということなんだろうし、感覚的に分析すれば、私が楽しいとも面白いとも思わず、ただ、ミスりませんように~、撥をひっかけませんように、とだけ気を遣いながら弾くので、ただ曲がせわしなく過ぎていくだけ、ということなのかもしれない。

こういう、譜面には表せないものが、何年かやってれば身につくものなのか、不毛の努力なのか…正直、分からない。
もちろん、自分に何の縁もゆかりもない曲でも、再現不可能ってことはない(と思いたい)。
努力すれば何とかなる(かもしれないと思いたい)。
そうでなかったら、どんな国、どんな地方の民謡も地元の人以外は弾いちゃダメってことになるし、日本人がバイオリンでヨーロッパの古い曲を弾くとか、二胡で中国音楽を弾くとか、逆に外国人が三味線弾くのが無駄な努力であり、無意味ってことですしね。