二胡LESSON124

maruko
今学期最後のレッスン〜。
私に欠けているものは「自如」。
あえて日本語に訳せば、「自在」とか「思いのまま」。
どんな名曲でも、私の手にかかると、もれなくこの世で一番味気ない「どツマラナイ」演奏になります(^^;;
笑いごとでは済まされない問題ですが、もう、笑うしかないじゃん。
淡々と音符を拾ってるだけなんですよね。
「それは音符の羅列であって、音楽じゃない」とよく言われます。

技術的な原因はいろいろありますが…それ以外も深刻かも。
何かを伝えたいと思って弾いてないしな…
そもそも、誰も私の音楽なんて必要としてないのに、誰に何を語ったらいいのって感じ(^^;;
多くの趣味の人はそれでも、自己満足だけは得ようと努力するのかもしれないけど、私は、上手く弾けなければ、ちっとも楽しくない…。

幼い頃から芸術畑で生きてきた人、親兄弟が芸で飯を食ってる人とは住む世界が違うんでしょうね。
往々にして、子供の頃から弾いている人は、少なくとも自分の身近な人は自分を肯定してくれたと思います。
身近な誰かが喜んでくれるのを見るのが楽しいから、あるいは舞台に立ってお客さんの笑顔が見たいからと、弾いてきたという人もいると思います。
「私」を殺さないと生きられないと長いこと思ってきた自分とは、考え方や自分の存在価値の認識の違いがあると思うな。

おそらく、どんな楽器にせよ、先生が趣味の人間相手に教える場合、往々にして、ある一曲が弾けるようになったら、次の曲、その次は、別の曲、いろいろ弾いたけど、結局のところ、生徒はいつまでも根本的には上手くならないって感じも多いかと思います。
でも、趣味なんだから、続くこと、楽しいと思えることが大事じゃん、ってことなんだと思います。

それとは真逆を行く「曲を教える」んじゃなくて「本事を教える」というのが、私の二胡や三弦の先生のスタンスです。
中国語の「本事」ってなんと訳せばいいのか迷うところですが、辞書を引けば「能力」とか「技能」と書いてあります。
つまり、一ヶ月でど素人に「賽馬」をとりあえず弾けるようにさせてあげるみたいなやり方だと、やり方次第では「賽馬」は誰でも一ヶ月で弾けるようになると思いますが、別の曲弾いてみろというと、全然弾けないというか…自分の頭使って別の曲に応用できないというか、そういう状態になると思うんですね。
いつか、先生の手を離れて、未知の曲の譜面をポンと渡されても、ちゃんと自分で考えて弾けるように育ててあげる、そういうのが「本事を教える」という風に私は理解してます。

でも、芸で飯を食わない(或いは食えない)人が「本事」を学ぶ場合、どこを目標にして歩けばいいんでしょうね?

私は上手くなりたいので(上手く弾けなければ、楽しいとは思えません)、一生懸命弾いてきたけど、最近ますます苦痛が増してきました。
それは手先の技術の進歩が遅くて、身体的な限界があるのに対して、耳や脳や知識の蓄積は年齢に関係なく、早く進歩して、二者のギャップがありすぎるせいかとも思うのです。

かなりウツ入ってるので、しばらく(再開未定)、レッスン日記はお休みします。
レッスンには行くけどね。
写真は私のお友達「丸子」、ナナ先生の愛犬です。
どんなにツマラナイ演奏でも、耳を塞がず聴いてくれます(^^;;
名前の由来は「ちびまる子ちゃん」。