何でも字面どおり真に受ける私

先日、三弦の先生にひたすら構え方と両手の基本的な使い方を教えていただきました。
先生曰く「私、9月は大学の雑用で忙しいから、次のレッスンは何日の何時って、今はっきり、約束してあげられない。なんか、ちょっと感覚つかめたなぁと思ったら、電話してきなさい、その時に約束しましょう」

で、ず~っと、「なんか、感覚つかめたなぁ」とこれっぽっちも感じなかったので、一週間連絡しませんでした。
私としては、ちょっとぐらい何か感じてからでないと、連絡したら叱られるかと思っちゃって…

そしたら、姉弟子に叱られてしまいましたわ…
「おバカねぇ、先生は忙しいからそう言うだろうけど、一週間も自分だけで閉じこもってたら、もっと感覚なんてつかめないよ~積極的に付きまとうぐらいでもいいのよ」とのこと。

昔からね、私、人の言っている真意って、よく分からないんですヨ。
どうやら、先生的には、「2,3日後に、連絡してきなさいよ、2,3日、今までとは違うフォームで触ってれば、多少なりとも前とは違和感を感じるだろうから」程度の意味だったんですね。
じゃあ、そう言ってほしい(^^;
これは決して言語上の問題じゃないんですよね。
私の中国語能力、そんなに低くないですもん。
私のコミュニケーション能力の問題。

子どもの頃から、私の感覚と視点は大多数の人とズレているらしいんです。

XXの棚の脇から○○とって来なさいと言われて、XXの棚の脇には○○はなく、ぐずぐずその場をうろうろしていたら、しびれを切らした先生に「ここにあるでしょ」と棚の奥を指さされて殴られました。
当時の私の気持ちを再現すると「先生のような絶対的権力を持つ人がXXの脇と言ってるんだから、XXの脇に○○がないわけがない、でも現実にはないよ~、うわぁ、どうしよう!パニック」となって時間だけがおそらく何十分も経っていた(本人は多分、数分としか感じていない)というだけのことなんですが…
今なら、学習したので、いちおう棚は見ると思うんですがね(^^;

小学校の国語のテストで「反対の言葉を書きなさい」
「たかい」→「いたか」
「おおきい」→「いきおお」
どうしてこんな簡単な問題出すのかなぁと思いながら(むしろ、何でこの問題を出すのか?の方をずっと考えていて、自分の理解が間違っていることに気付いてなかった)、真面目に書きました。
もちろん受け狙いでも反抗でもないですよ(^^;
「反対の意味の言葉を書け」にしてほしかった…

中学の時、友人に
「XX先輩(いわゆる不良で有名な先輩の名前でしたが、知り合いではなかった)があんたのこと呼んでたよ」と言われ
本当に呼ばれていると思って、何で知り合いでもないのに会いたいのかなぁ、理由を聞こうかなぁと思いながら、その先輩に会いに行こうとして止められました。
友人的には、怖がってもらって「冗談だよ!」チャンチャン、か「そんなわけないじゃん!」と一掃してほしかったらしい。

今でも、私はたまに、人の冗談など、高度なネタや若者の今時のネタに気付かないことがあって申し訳ない…
だから、簡単なダジャレや親父ギャグの方が、私にとって嬉しい~

ちなみに、以下は私の三味線の師匠がよく使う言葉なんですが…
「もたれるように弾いて」「弾むように弾いて」
本当に師匠によっかかったり、飛び跳ねて弾いたりはしませんけどね(^^)
いちおう、大人なんで学習してます。
でも、私が子どもだったら、本当に、跳ねちゃうと思うンです(真面目に)。

器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ

「器楽の先生と生徒は、医者と患者のようであるべきだ」

というのは、中央音大の周海宏先生の先生が言った言葉だそう。
どこの医者が患者に向かって「何でお前病気なんだよ」と怒鳴るだろうか。
往々にして先生というのは、生徒が出来ないのは、生徒がおバカだからとか、才能ないからだとか、練習怠けてるに違いないだろうと疑うけど、
世の中におバカな生徒はいない、いるのは教えられないおバカな先生だけなんだよって。

もちろん、これは理想であって、現実には不器用な生徒もいるんだけどね、って周先生も付け足したけど…
医者にどうしても治せない病があるように、先生にだって、どうしても上手く弾けるようにしてあげられない子はいるかもしれない。
でも、最初から見捨てる医者がいていいわけがないだろう、って。

中央音大って音楽の最高学府だからね。
生徒の資質がよすぎちゃって、教えなくたって、出来る人は出来るわけで…
いい先生になろうと思ったら、不器用な生徒をいっぱい見なさい、というのが周先生の提案だったりします。

資質がよすぎちゃう人が往々にして先生になるわけだから、出来ない人の気持ちが本当に分かる先生って、ある意味、極めて少ないと思う。
上手く弾けない人は、弾けない人の気持ちがよく分かっても、上手く弾けない先生に習いたい生徒がいないのも事実で…天賦の才能なんてなく、かつて上手く弾けなかったけど、何らかのきっかけで、そこそこ上手く弾けるようになった先生、というのが、ちまたのお稽古ごとの先生に本当に向いているのだと思うけど、そんな人、ほとんどいないだろうね…

ちなみに、周先生はもともとピアノ専攻で、本人曰く、腕が大したことなかったから作曲に転向して(本人大したことないって言っても音大附属出てますからね(笑い))、それも創造力に限界感じて、最終的に理論学問(音楽心理学など)に転向したそうです。
自分が身体的に恵まれていて(手が大きくて、器用だった)、日頃、音楽的感性がないわけでもなく、日々練習をきちんとして、ちゃんと弾けるのにもかかわらず、いったん、通してピアノを弾き始めると本当に面白くない演奏しかできないのは何故だろうと、ずっと思っていたことから、実際の手の動作と心理動作の関係を深く知りたいと思うに至ったのだとか。

譜面に現れないけど、何かがそこにあるのは間違いないもの

先日、盆踊り踊りたいなぁ~というブログ記事を書いてから、子供のころに聴いたあの曲はなんという曲なのか、とかが気になって、だいたいの察しをつけて動画サイトで確認したりして遊んでいました。
曲名知らないだけで、実は聞き覚えのある曲ってあったりするものなんですね(^^;

三つ子の魂百までではありませんが、そういう身体で覚えている曲というのは、間のとり方が楽だということに気づきました。
だって、自分が何となくでも踊れる曲は、その動作の初めから終わりに必要な時間を理屈ではなくて、身体が分かっているということですから。

こういう曲って、四分の二拍子とかそういう理屈ではありませんしね…

先日の津軽三味線のお稽古での会話
師匠「こういうリズムをキープしてれば、だいたい何とか形になるものだから」
私「それが、一番難しいんじゃないんですか~(笑)。先生は子供のころから聴いてるから、いいけど、私には、何の縁もゆかりもありませんから」

そう、私は師匠の音に恋してなければ、絶対に弾かなかったと思うよ、津軽民謡。
だって、何を言っているか、意味分からないもの。
(もちろん、調べたり、本読んだりするから、なんとなく歌詞の意味は知っていますが、一字一句、説明できないし、その曲にまつわる思い出があるわけでもない。)

師匠が、自分が教えるのは一つのパターンにすぎないので、いろんな人のを聴いてみたらいいよとおっしゃったので、聴いてみると、本当にいろんな伴奏があるし、いろんな唄い方があるわけで、知れば、知るほど、自分との間に溝がありすぎて、正直、いやになってきました。
曲が、単に譜面通りに弾けたからって、何かいいことあるわけでもない。
そんなの、ある程度、何らかの器楽の勉強をしたことがある人なら、できて当たり前だから、嬉しくも楽しくもなんともない。
ましてや、誰かが聴いてくれて、喜んでくれるものでも有り得ない。

本当に手に入れたいものは、もっと先のものなわけで…
でも、三味線まともに構えられず、きちんと撥が振り下ろせないのに、そんなこと言ってもねぇ、ってことなんですが…(いじいじ…)
もちろん、楽器のド素人の人から見たら、私は普通に三味線構えて、普通に弾いているように見えるかもしれないけど…正直、私は、ある日、突然、言語機能を失った人みたいな気分で弾いてます。
思ったように喋れないのに、喋ろうとして、他人が分かってくれない寂しさを当り散らしている感じ?

科学的に分析すれば、私が弾くじょんから新節の前弾きは、師匠のいうように
「きちんと撥付ができていないから、例えば前撥に行くときの距離、滞空時間が短くて、それが結果的に、妙にせわしなく聴こえる」原因になっているのかもということなんだろうし、感覚的に分析すれば、私が楽しいとも面白いとも思わず、ただ、ミスりませんように~、撥をひっかけませんように、とだけ気を遣いながら弾くので、ただ曲がせわしなく過ぎていくだけ、ということなのかもしれない。

こういう、譜面には表せないものが、何年かやってれば身につくものなのか、不毛の努力なのか…正直、分からない。
もちろん、自分に何の縁もゆかりもない曲でも、再現不可能ってことはない(と思いたい)。
努力すれば何とかなる(かもしれないと思いたい)。
そうでなかったら、どんな国、どんな地方の民謡も地元の人以外は弾いちゃダメってことになるし、日本人がバイオリンでヨーロッパの古い曲を弾くとか、二胡で中国音楽を弾くとか、逆に外国人が三味線弾くのが無駄な努力であり、無意味ってことですしね。