二胡LESSON99

さて、相変わらず何カ月も弾き続けている賽馬です。
とりあえず譜面に指定されているとおりの音の強弱を、大げさなくらい表現してみましたら、「ドラマがない」から「物語を教えてくれてはいるけど、物語を話しているようには聴こえない」という評価に変わりました。
これは、一応、一歩ぐらいは前進したと思っていいのかな?
いずれにしても、自分の言葉で相手に語りかけていないのですよ。
難しいですね。
私はわりと先生と一緒に弾くとシンクロする方なので、ナナ先生はついに自分の二胡を取り出し一緒に弾いてくださいました。
まぁ、二胡は棹なんて見ても、音程の助けにも何にもなりゃあしないので(一ミリ違いで大違いなので視覚に頼りようがない)、私は割と真正面を見て弾くのですが、ナナ先生が鏡の中の私であるという状態になるように弾いてみました。
「この状態のまま、練習続けなさい」と言われました。
結局のところ、私は弓の速度をどれだけ速くしたり遅くしたりすることで、どれだけの音量をコントロールできるかということを把握しきれていないのですよね。

さて、心理的障害について。
性格が内向的、ネガティブな人って、いわゆる舞台向きじゃないんですよね。
演奏というのは、自分の感性をさらけ出してなんぼの行為をするわけだから、これを職業にしている人にとっては何でもないことかもしれないけど、素人には難しい場合もあります。
でも、人前で弾く必要がある人は、明るく前向き、外交的な性格に変えないとこの先、やっていけないでしょう。

私も、聴衆が100人いたら100人ともに好きッて言われないと不安だとしたら、そりゃ無理な話だと分かっています。
99人が好きッて言ってくれても、残りの1人がケッって思ったら、その1人の方が気になっちゃうタイプの人は、人前で演奏するのに向いてないんだよね。
プロ、大先生でも、この人の弾き方は嫌いってのはあるんだから、1人にケッって思われても、気にする必要ないのにね。
ちなみに私は趙寒陽先生のエッセイは好きだけど、演奏も超真面目すぎて好きじゃないです(恋愛で、真面目な人よりちょっと危ういぐらいの人がモテるというのと似ているかもしれませんね)。
世間では于紅梅先生、人気あるけど、あの甘ったるい弾き方が嫌いだという人は少なくないし、かつて某有名指揮者が若かりし頃の紅梅先生に「なにそれ?」って言ったとか言わないとか…
(紅梅先生の生演奏聴いた時、私はバイセクシャルではないけど、変な気持になって、抱きしめたくなっちゃいましたからねぇ。好きな人は好きだし、嫌いな人は相当嫌いでしょうね)
もちろん素人の演奏にはリズムが違う、音程がヒドイとかいう基本的な問題があって、耳触りであるという問題がまずあるわけだけど、それをクリアしてある程度弾ける人、プロの人でも「あの人の演奏ってイヤ」って思われることあるのよね…
なんか、本当に演奏家って、本当にスゴイ神経してるよね。

私は1人にケッて思われただけで、99人も本当はそう思ってるんじゃないかって思ってしまうようなネガティブな人間なんです。
そしてケッて思われたら、この先、誰も私と一緒に弾いてくれないよね…と落ち込むんです。
ナナ先生には、「たとえ100人ともにケッて思われても気にすることない(技術的な問題なら、この先もっと練習すりゃいいだけで、表現上の問題ならそれは仕方のないこと)、笑いたきゃ笑え」と思ってなきゃダメよ言われました。
そして、「結局のところ、あなたと弾くと楽しいな~と思う人は、多少ミスっても共演者としてやっぱりあなたを捜すだろうし、あなたが、たとえどんなに上手に弾ける人であったとしても、あなたを必要とするかどうかは別問題なので、いわゆる上手下手とは因果関係がない」んだそうです…
そんなこと考える暇あったら、その思考に使うエネルギーを自分の音楽の上にさきなさいとも言われました。
はい…だいたいちゃんと弾けてないのに、頭の中にネガティブな思考する余裕がまだあるのなら、その脳の領域は音楽のために使うべきですよね。

文化人の三弦音楽

aixinjueluo
日曜日の昼に携帯に電話がかかって来て、「午後時間あったら、三弦のコンサート聴きにおいでよ」とのことで中央音大に行ってきました。シンポジウムの前に、関係のある3曲を演奏するというスタイルでした。そのタイトルは「弦索遺韻 神彩永存 愛新覚羅・毓峘三弦伝譜学術検討会」
タイトル見たら、ピンと来ますよね。
そうなんです。
「愛新覚羅」といえば、清朝の皇族の家系ですね。
三弦という楽器は、市井人の唄の伴奏楽器の代表みたいに思われていますが、実は文化人の室内楽というジャンルもあったりするのです。
弦索備考という、器楽合奏の工尺譜は残っていますが、実際にどうやって弾くのかあまり知られておらず、中央音大の談建龍先生が弾ける人、愛新覚羅・毓峘さん(恭王府の家系)を捜しあてて、直接レッスンしてもらって20年ほど前に再現したという経緯があります。
ぞして、談先生は今も、研究を続けられておりまして、談先生のお弟子さんがよく修士論文などで取り上げたり、コンサートでお弾きになってます。
再現してみたと言っても、実は、愛新覚羅・毓峘さんは画家で、音楽の方は子どもの頃に教えてもらったけど、永い間、これを弾く機会もなかったので、ところどころ、次の手はどうやって弾くんだっけ?みたいに忘れちゃったところとかありまして、そんな簡単にすぐには再現できなかったみたいですけどね。
もちろん、民謡なんかもそうですが、必ずこうやって弾かねばならないというものがあるわけではなく、おそらく幾つかのバージョンが存在して、譜面があってもそれぞれ誰が演奏したか、誰が受け継いだかによって、どうやって弾くかに差があります。だから、これはあくまでも愛新覚羅・毓峘の演奏譜という感じなのだと思います。
談先生はそのうち、またこの演奏譜を出版する予定なのだそうです。
もっとも、演奏譜の第一弾は、何年も前に出版して、コンサートも何回も開かれておられますが、この何十年かの間に当時は気付かなかったこと等いろいろ手をお加えになっているのでしょう。
愛新覚羅・毓峘さんは、お亡くなりになってますが、奥様がいらっしゃってました。
ちゃっかり写真一緒に撮ってもらった~

さて、演奏の方は、中央音大修士の高芸真さんが、「合歓令」「普庵咒」「海清」を弾いてくださいました。
「合歓令」は、わりと知られた曲なので、独奏でいろんなところで聴く機会がある楽曲ですが、今回は二胡との合奏でした。
ううむ、いつか私も二胡と一緒に弾いてみたいです。
ぶっちゃけ、こういう曲は、知識のない人が聴いても眠いと思います。
だから、普通の場所で、普通の観客に対しては弾けない曲でしょうね。
学者か同業者でないと聴いていられない曲に価値があるのか、ううむ、どうでしょうか。
よく学生さんが、旋律感がないので暗譜しづらい、という感想を漏らすのも、やはり現代人にはなじみのないフレーズの集合体だからでしょうね。
でも、これを後世に残さなくていいのか、という使命がありますからね、彼らは。
後世に残す、世間に広めるには、譜面は必要不可欠です。
でも、昔の曲は、譜面に書き表せないことっていっぱいあるのよね。
今は、録音や録画技術が発達しているので、是非、映像資料も作って欲しいと皆言ってました。

演奏者の高さんは見た目も可愛らしい人ですが、弾く姿もそりゃあ美しかったです。
彼女の妹弟子にあたる学生が言うには、一門の中でもとりわけ音に透明感のある人、だそうです。よく名前負けしちゃう人いますけど、高芸真…名前の通りですね(^^;
余談だけど、そういう意味で、邦楽系は名取になるとき、あんまり綺麗な名前もらって、自分の芸風に合ってなかったら、哀しいかも…いや、芸風に合うように自分が変わればいいって考えもあるな。

猫の手も借りたい先生

本日は三弦の授業(レッスン)の日。
しかしながら、最近、トシミネ先生は大学の雑用に追われて忙しく、結構、時間を頻繁に調整しております。
そのため、いつもどおりに行ったら、前の子がまだ終わっていない。
そんでもって、自分の番になった時間には、後ろの子がやって来てしまい、その子は中阮のレッスンなので、隣の部屋を借りて、トシミネ先生、右の部屋に行ったり左の部屋に行ったりしながら同時にレッスンしてしまった(笑)
で、私の次は、三弦専攻の大学一年生が二人同時に出現(ちょうど同じ曲をやっているらしく、二人まとめてやろうということらしい…)
私は彼らがやっている曲「万年歓」という曲が大好きなので、自分のレッスンが終わっても人のレッスン見てから帰るつもりで、ず~っと部屋に残っていました。
私のレッスン時にはすでにお昼の12時になっていまして(私はこんなことになるだろうと予測していて10時半に軽くお煎餅を食べて、本来11時に始まる自分のレッスンに備えていて正解でした)、トシミネ先生お腹すいてヘロヘロ。
本当は、レッスン室って飲食禁止なんだけど、ヘロヘロの先生を、餓死させてしまってはレッスンしてもらえなくなるので(笑)、学生さんがお弁当買いに行って、こっそり持って帰って来ました。
で、先生が隣の部屋で食べている間、我々3人の三弦専攻者の井戸端会議が始まったわけです…
私以外は、18歳の男の子と女の子ね(若っ!)
「長時間弾いてると、この辺りが痛くなるのは普通かな?」とか、「爪のここがすり減るのって、やっぱ弾き方が悪いのかな」とか、しばらく同業者のお悩み告白?座談会になりました。

「お姉ちゃん、手が大きいよね~」とトモ君(仮名)が言うので、
「いや、君だって大きいじゃん」と手を見せあいっこ。
三弦専攻者の手は往々にしてでかい(汗)
ちなみに、ここで「お姉ちゃん」と呼ぶ言葉の原文は「師姐」。
先輩とでも訳せばいいのかな、同じ師の下で学ぶ上の人をそう呼びます(私の方が学習年数は短いけど学年は上なので)。私が男性なら師兄になります。
「いや、お姉ちゃんは指が長いと思う」
「そうかなぁ」と無邪気に、手と手を合わせっこしてしまいました。
「三弦やってる場合じゃないよ、ピアノがいいよ、ピアノやれば?」と言われてしまいました。

後で気づいたけど、18にもなれば、男の子っていうより、一応、男だったんですよね…あはは…手触っちゃったよ、ゴメン。
でも、内輪では、口で言っても分からないことは、結構、相手の手を触るから、小学生の頃フォークダンスを踊る時のようには、意識してなかった(笑)
だって、我々、トシミネ先生の手の大きさ、形、柔軟性とか、手がいつもすごく温かいとか知ってるしねぇ…。
トシミネ先生だって、自分の先生の右手の親指の長さ、大きさがどうこう、ってよく覚えてるよ。
こっちも、見てもあんまり分かんないときは、我慢できずに触っちゃうしなぁ…(これって世間では痴女?)

そして我々が、練習せずに雑談し、話がだんだん三弦から脱線し始めたとき…そういう時に限って、仁王トシミネ先生、予告なく、突如、帰って来るんだよね。
「游鯉!おバカと一緒に遊んでないで、自分の練習せんか~」と叱られてしまった。
「あはは~センセイ、おバカはひどいよぉ」と大学一年生たち。

大学一年生と一緒にいて良かったこと。
大学一年生があまりにもおバカなので、つられていっぱい笑った。
若い子は、本当に、鉛筆転がっただけでも可笑しいんだね(笑)。

自分のレッスンがボロボロで「もう、三弦やめたい」と思ってたんだけど、彼らのレッスンを見ていたら、結構、彼らですら同じことを言われてるのね(笑)。
技術的な注意点も私と似たりよったり(もちろん、程度に差はある…)。
私が子どもの頃からやってないからとか、運動神経もしくは頭悪すぎで、トシミネ先生にぼろくそ言われてるのかと思ってたけど、そうでもなかったらしい。
トシミネ先生は誰にでもわけ隔てなく、間違った音出した時は「あぁぁぁぁ?今のはなんなんだ?」って嫌らしく聴き返してくるのね(笑)。

「もうすぐ、試験だろ?オレが焦ってどうする、お前らが焦れよ!」と先生。
トモ君「だって、こういう昔の曲は旋律感がなくって暗譜出来ないよ。何か方法ないの?」
トシミネ先生「覚えようとして覚えるんじゃなくて、何回も弾けば自然に覚えるんだよ!お前ら練習が足りないだけ!」
みっちゃん「(ボソっと)間違えたって、トシミネ先生以外の先生は、この曲自体、知らないだろうから、大丈夫だよ」
游鯉「(我慢できずに)あははははは…」
トシミネ「・・・・・」

ところで、若い子がよく言うセリフ、昔の曲には「旋律感がない」。
んー、音楽心理学かなにかの実験で、西洋楽器しかやったことない音大生に、邦楽聴かせると、区切りというか塊が分からなくて、暗譜しにくいという実験結果があるみたいね。
中国民族楽器でも同じだと思う。
彼らだって、お家が特殊でない限り、洋楽の方に親しみすぎちゃってるわけだから、間が上手くとれない。
私は理屈で覚えられないから、模範演奏をひたすら聴いて覚えます。
五線譜なら明らかに休符が入るところ、こういう曲の譜面には休符指定も何もないけど、ちゃんと「間」を入れないと叱られる…四分の二拍子って書いてあるけど、実際はそうではなくて、変なところにアクセントが付く。
天哪(OH!MY GOD!)
だから、たくさん聴いて、たくさん弾くより仕方ないんだよね。

お知らせ…週末は、大学の情報処理センター設備の移転のため、LANが全館ダウンするので、アクセスできません。うちの大学はど僻地にあるため、近所に無線通信できるようなスタバとかお洒落なレストランもありません。更新がないとか、レスがないとか心配しないでね(^^)