演奏者のプロフィールを見ると、たまに「ここまで盛る?」みたいな人がいたりします。
確かにどこの大学を出て、誰に師事したかっていうのは、分かりやすい基準だから、書けることは書くみたいなの分かりますけど、あまりに師事した先生に有名な先生方がたくさん並んでいたりすると、「この人、よほど自分に自信ないんだね」と思っちゃうのは私だけじゃないと思います。
コンクールとかだったら、師事した(接触した?)先生の名前は全部書いて、審査員から外れてもらわなきゃってあるのかな???
…それなら、数回会っただけでも「師事した」って言うのは分かるけど(^^;
でも、それ見て
「ほお~すごい、ぜひ聴きたい」
って思う人もいるんだろうなぁ…
院生の世界でも、今はさほどでもないと思うけど、結局、誰それ教授に指導を受けたことがあるっていうのは、ついてまわる。
そして、それは自分の「信用」となることもあれば、派閥争いで被害を被ったりもすることもあるらしい(笑)
プロフィールなんて、卒業大学と最後に師事した先生ぐらいでいいんでないかい?
実際、それなりの人は子どもの頃からあまり先生を変えてない(変えずに済んでいる)と思うけどな。
でも、プロフィール盛らなくちゃいけない人の気持ち、分からなくもない。
よく、恋人の選択基準で「顔じゃない、心だ」とか言うけど、あれは嘘だってみんな知っているわけで、やはり外見的に良くないとそもそも、心を知ってもらうまでに距離が縮まない。
超能力者でもないかぎり、心は外から見えないんだもの。
仕事を頼む人、教えてほしい人からしてみたら、最低これくらいのレベルは保証できるという「信用」の基準になっているのも事実。
実力が飛びぬけてある人、神的に人を惹きつける能力を持ってる人は、そもそも、何処の大学出て、誰に師事したかなんて、どうでもええもんなぁ。
どこからが「師事したことがある」の範疇に入るのかなぁ。
どっかの大学に正式に入学して(最終的に学位なり修了証のようなものが発行される)そのレッスンを受けたのなら、師事したんだろうね。
でも、どっかの大学に行かなくても、師事することはあるわけで…
それに年齢的なことや期間的なこともあって、正式な学位を受けられないクラスにいて師事した人でも、ちゃんと指導受けたなら、何とか大の誰先生に師事したって書いてるよね。
現に中国の音大留学の人なんかは、(今はそうでもないけど)子どもの頃から英才教育を受けている訳ではないので、普通に大学に入学している人の方がかなり珍しいと思うし。
私の友人の中には、感受性が強すぎる人もいて、以前、こんなことを言ってました。
「心から尊敬できる人じゃないと「先生」って呼べない。」
確かに以前、堅気のお仕事をしているとき、ご年配の方がこう言ってることを思い出し、ほぉ~とも思いました。
表面的に弁護士を「先生」と呼んでいるけど、長年同じ業界で法務なんかをしている人になると、会社的に「先生」のご意見が欲しいだけで、本当は意見もなにも求めてないこともあったりして…
そこに大したことない意見書なんかを出せば、なんでこんな若い奴を「先生」って呼ばなきゃいけないのかねぇみたいに、彼らは実は思っていたりするわけで、若い弁護士さんはちゃんと勉強しないといけないわけで。
私は今のところ、人から先生と呼ばれることはないけど(歳が歳なので、大学にいると「先生」と呼びかけられることはある(汗))、うわ~「先生」って呼びかけてくる人が口先だけでそう言ってるんだなぁって感じちゃったら、もう立っていられないなぁ。
邦楽系だと、名取さんなら誰先生に「師事した」って言うんだろうね。
…っていうか名乗ること自体、名前から誰が先生なのかバレバレになっているわけだし。
私は幸い、どの分野にせよ好きな人しか先生にしてこなかったので、心から「先生」と呼んでます。
先生が好きだから、「先生の音のここが好き、あそこが好き~」って言うのを無邪気に人に話すのであれば、私もそういうところあるから理解できるけどけど、そうじゃなくて自分の先生の業績の自慢(?)をされても、「ほぉ、で、あなたとどういう関係があるの?」と思っちゃうなぁ。
先輩方の中には様々な理由で先生のことが嫌になったり決裂したりする人もいるわけで…
やっぱり、私は、出来る限り先生というものは変える必要なく(たまにXXという曲だけ、作曲者本人に教わったとかいうのは別にして)、一人前になりたいものだと思います。
でも、歳が歳だから、何を以て「一人前」と呼ぶかによっては、もう一人前になれないかぁ(笑)