脳内劇場、ただいま繁忙期

思考する時、大多数の人は言語を介して思考するものらしいですが、世の中には映像により思考をするマイノリティが存在するらしいです。
そういう人達は、まず、映像が浮かんで、後から、その映像を言語に変換しているのだそうです。
私は多分、大多数の人と同じで普段は言語で思考しているのだと思うのですが…
思考の源は五感の「感覚」だと思います。
実は、思考の方法というのは、十人十色なのだそうですね。

多くの留学生は母語で文章を書いてから、外国語に翻訳するみたいだけど、私にはその方法が理解できません。
後で他人に翻訳してもらったりすると、私にとって感覚のずれがかなり生ずるので、非常に気持ち悪いことですし、だいたい、自分で書いたものを自分で翻訳する場合でも、翻訳する時に、原始状態の「感覚」に戻って翻訳することになるので、二度手間というか、最初から「感覚」を外国語で表現して、後でネイティブに文法チェックしてもらう方がとても楽です。
もっとも、思考のスピードに言語が追いつかず、後で、「なんじゃこりゃ」って言う文章を書いていることもありますが…

言葉に対応して、何らかの感覚と映像はセットになっているような気がしますが、皆さんも程度の差こそあれ、脳内劇場をお持ちですよね?

私の場合は、歌詞のある曲などで、歌詞を気にして聴くと、映像と感情がかなりリアルにくっついてくることがあります。
ちょうど、カラオケの歌詞を映す映像みたいなやつが脳内劇場でリアルに再現されます。
(ここ十年ほどカラオケなんて行ってないけど、昔はよく歌詞に関係するショートストリーみたいな映像が流れたりしたなぁ…)

お待たせしました、ここからが、本題です(^^;
「津軽小原節」は、私の脳内劇場では、歌詞の内容に沿って、師匠と奥様が盆踊りをしています。
「虎女さま」では、芸子さんと旦那さんのラブストーリーが展開されます。ちょっとだけ師匠に内容を話して呆れられました(^^;
「タント節」とかは、鹿さんが泣くので(歌詞の本当の意味は「泣く」と「鳴く」が掛かっているのかもと思うけど…)、私も哀しくて、哀しくて…「あぁ、撃たないで…」と思いながら弾いています。
「津軽じょんから節」はスピード感が強いせいか、何故か、歌詞に関係なく駆け落ちのストーリーが浮かぶことがあります。

以前、「津軽よされ節」の唄部分の伴奏が覚えられないと騒いでおりましたが、それは、「春は桜の弘前」というところ以外、脳内劇場が映像と音声を再生してくれなかったのです。
歌詞だけ、じっくり見ると、意味不明の囃子言葉(?)のほか、意味の分かる部分がまだあったのですね。
「杯片手に眺むれば、霞に浮かぶ津軽富士」とか…
杯っていうのは、お酒飲む時に使うんだよね?
そう思ったら、いつの間にか、一門のお酒の好きなドラゴン先生のお顔が浮かぶようになってしまいました(ごめんなさい…脳内劇場の出演ギャラはお支払いできません)。
ドラゴン先生が和服着た綺麗なお姉さんと料亭みたいなところで、障子を開けて津軽富士を眺めていたりします。
でも、最後の方は歌詞がなくて、「いぃ~」が続くので、映像も通信障害のように不鮮明になってしまい、伴奏も忘れます(^^;
この後、お姉さんが唄って踊って、ドラゴン先生が伴奏している映像でも流れてくれないかなぁ…と期待するところです。

ところで、「津軽音頭」の歌詞は、「鰺ヶ沢の茶屋の娘は蛇の姿」って唄っていますよね?
言葉を意識した途端、大蛇が浮かんでしまい、ちょっとキモかったので、映像を消去しようと頑張りました。
よくよく考えてみると、蛇って昔からよく人間に化けて物語に出てきますよね?
鰺ヶ沢の茶屋の娘さんは、人間が蛇になってしまったのか、蛇が人間になってしまったのか、どっちですか?
それとも、浮気した彼氏に怒り狂って、蛇のようにぎゅ~って締めあげて殺しちゃうような、そういう性格がコワイ女っていう意味なのでしょうか?
考えすぎと言われようがなんだろうが、私、勝手にこういう映像が浮かぶのを、なかなか止められないんです…ハイ。
中国には「白蛇伝」という、白蛇の化身である女性が、人間の男性と恋に落ち夫婦となるものの、正体が知られ退治されるという物語(数々の翻案作品有)があるけど、私は出来ればハッピーエンドを上映したいです。

京劇とか歌舞伎とかはもともとストーリーがあるから、それに付く伴奏音楽に自然に映像が付きますが、民謡って訳分からん歌詞が多くて…
その分、創作の幅も広がるのではありますが…(^^;

ただいま、脳内劇場の演目、多すぎで大忙しです。
ボランティア俳優さん随時歓迎…

「慣れ」だけでは脱力できない私

今、三弦で、腕の重量だけを利用して弾くことを練習しています。
具体的には、トレモロ弾く時に、力の源はすべて腕の重量だけ、その運動の開始と方向は指先が主導して、手首と腕は、指先につられて動くのみで、主導して動くなということをやっています。
上手くできると、本当に速く動くし、身体の何処も傷めないので、便利ですが、その技術を安定させることができません。
だってさ、身体を動かそうと思うと、指先以外、特に手首に力入っちゃうんだよね…
だって、神経の一番先っぽだけに力が残ってて、後は力を抜くなんて、そんな器用なこと、不器用な人間にはむずかしすぎ~。
ただ、先天的に器用な人や、訓練してきた人は、いとも簡単に部分的に脱力できるのですよね。
確か、藝大出身の人が何かに書いてたけど、指、手、手首、腕と順番にだんだん力を抜いていくような体操があるんだとかないんだとか。
誰でも、楽器を初めて間もない頃と言えば、力入っちゃうと思うのですが、だんだん抜けてくるものですよね…
大多数の先生は、それは「慣れ」とおっしゃると思いますが、確かに凡人でも大多数の人は慣れで何とかなるのでしょうが、私は最近、それじゃ、永久に上手く力が抜けるようにはならないマイノリティな人々が存在すると思ってます。

例を挙げれば、子供の頃によく転んだ、運動音痴だった、姿勢がかなり悪かった、目をつぶると自分の身体の位置が分かりづらい、目をつぶって片足立ちが10秒も持たないような平衡感覚の悪い人…
そういう傾向のある人は、多分、楽器弾く以前に、姿勢を保つだけのために、おかしなところに力入れる癖が、子供の頃から知らない間についちゃってるんですよ(汗)
だから、まぁ、私みたいなマイノリティな人は、大多数の人と同じように、慣れたらそのうちよくなるなんて、思わない方がいいんじゃないかと思うのでした。

私は子供の頃、一時間の授業中に姿勢を保っていられなかった…いつも机に突っ伏して寝ちゃうとかして怒られてた。
字を書く時にやたら目を近付けるので、先生は私の視力を疑ったけど、実は視力の問題じゃなくて、姿勢保っていられなかっただけという…
背が高いせいだろうとか、部活動大変なんじゃないかとか、当時はいろいろ理由が付けられたけど、大人になってから実際はそれだけじゃなかったんだろうと分かったんですが…(笑)
まぁ、私の原因は深く突っ込まないでください。
私が知ってるのは、身体疾患、精神疾患など様々な理由によって、こういう症状を出す人が少なからずいるらしく、理由は人によりけりです。

そういう身体の機能的な問題のほか、人前だとものすごく固まるタイプの人も、自宅で練習している時以外は、先生の前でのレッスンも含めて力を抜きようがないですよね。
私にもその傾向があります。
小・中学生ころまでは、私も思ったことを普通に言って、のびのび生きていましたが、大人の世界は、そういうわけにはいかない。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言いますが、別に男性じゃなくても、そう思いますよね(笑)
社会では、外バージョンで生きないといけない。
本当の自分の考え方がいつも世間大多数の人の考え方に一致するので、そもそも、外バージョンを演ずるシーンが少ない人は、ラッキーな人(!?)。
ほどほどに、本当の自分と外バージョンを両立させられるのが大多数の人。
外バージョンを演じなくてもいいのは、そうとう才能のある変人。
中途半端にしか外バージョンを演じられない人はトラブル続き~
本当は変人だけど、外バージョンを演じることに納得がいかない人は引きこもらざるを得ない。
何とも、辛いですな。
こういうのは、技術の問題ではなく、心の問題、ひいては生き方の問題なので、調子悪い時は弾かない方がいいかもしれない。
弾く前に、生き辛さを解消する方法を身につけるべくカウンセリングへ行くべきかも。

えっと…
そういう「慣れたらそのうち、なんとかなりそう」にもないマイノリティな私ですが、とりあえず、いい先生に出会えて、自分がいかに余分な力を無意識に入れてたかということが分かりました。
天才と呼ばれた人の対極で努力して頑張ってきた人、身体を痛めたけど復活したような人は、身体の使い方そのものを研究しておられるような気がします。
大多数の人が普通に「慣れ」で身につけてしまうことを、ある程度、言語化してくれます。
もっとも、言語化したものをすぐに自分のものにできるなら、世の中、先生は要らないというかビデオ教材や、先生のブログ読めば済んじゃいますよね。
だから、レッスン料払って叱られに行くわけです(^^;

あと、同性だと気兼ねなく、「先生の手、触っていい?」って言えますが、異性だとそうもいかないかな。
…っていうか、あんまり私が言われた通りにできないと、私の先生は日本人男性である三味線の先生を除き、ほとんどの方が、私の手を触ってみろといいましたけど、普通はそうはいかないんですよね。
盲人のレッスンじゃあるまいし…
私も自分が先生の立場だったら、中学生以上の男性に触ってみろとは言えないわな…

自分がいかに無駄な力を使っていたのか分かっても、それを意識して抜けるかどうかは別問題…
多分、私はまともに三弦を弾けるようにはならないかもしれない…
あと40年生きられるとしたって、老化していくだけだしなぁ。
でも、おかげさまで、二胡のような物質的に軽い楽器を弾くときに、以前よりは楽に弾けるようになりました。
才能ある方は「慣れ」なんておっしゃいますが、身体的、心理的なハンデのある方は、自分の力の無駄遣いを「意識」した方がいいと私は思います。

二胡LESSON110

110回目のレッスンという意味で二胡LESSON110と書いているのに、「110」ってイメージとして「110番」→「たすけて~」→「おっしゃ、二胡の技術向上に困っているあなたへ何かアドバイスしましょう」って感じに見えて、一人で笑ってしまいました(^^;

「賽馬」ですが、速く弾くところの難関は、やっぱりここでしょうね。
96、97小節目の
ドレレミソラドラソミソミレドミラ~

難点はミの推弓、速く弾こうと思えば思うほど、弓を短くしか使えず、音が短く(あるいは弱く)かすりがち。
このミの立ち位置ですが、アクセントが付いたっておかしくないところなので、ナナ先生曰く「気持的に恐れず、これでもかというぐらい誇張するつもりで弾いて、他の音と同じちょうどいいバランス」なのだそう。
メトロノーム持ってきて、ゆっくり目のスピードから、とにかくミが他の音に埋もれないようにということを心がけて練習するしかないようです。
ゆっくりなら、ミの音ちゃんと出るんですけどね…
実際、このフレーズ、プロだってスピードで誤魔化して、適当に弾いている人多いですからね…(ライブはノリとかよければ、お客さんも気付かないかもしれないけど、媒体に固定された音楽などは再生すると、素人だって結構気付くと思うのですが…)
例えるなら、パチンコ玉と落石の違いかも。
上手い人は、パチンコ玉がじゃらじゃら~んって出てくる感じかもなぁ(私はパチンコしないけど、子供の頃、亡き父に連れられて行ったことがある。耳が痛くなる最悪の環境…)。どんなに沢山の玉が豪快に降っても、音の粒そのものはそろってますよね。私の場合は、山の上から不揃いの石が転がって来て、バラバラバラ~、あぶねぇよ(^^;

「春詩」の方はというと、まぁ、練習不足。
これの嫌らしいところは、指使いが変則的なので、普通に、第一、第二、第三ポジションへの規則的な移動とはいかなくて、音を捜しに行く時の距離がつかみにくい。
救いなのは、滑音を多用している曲なので、あ、音程ヤバいかもと思ったら、指を滑らせて音を正しい位置にもどしても、不自然さがないというところか(^^;

【余談】
先日、ナナ先生は子供中心に教えていて、成人に教えているのは少ないかもという話をしました。
でも、前は結構、頼まれて、教えていたんですって。
カルチャーセンターみたいなところで、大人向けのレッスン頼まれた時は、大人は2,3回ですぐに来なくなるから、もうあまり引き受けたくないんだとか。
時間とお金の無駄の繰り返しが信じられないと言ってました。
すっぽかされると、ナナ先生は自分の時間を無駄にされるので、耐えきれないとも…。それと、前回言った注意を、大人は思いっきり忘れられちゃうのが哀しいとも言ってましたね。
大人は上達しないとすぐに諦めちゃいますからね…
私は自分が不器用ですぐに上手くならない人なので、そういう大人の気持ちはよく分かるんだけどねぇ。
ついでにいうと、大人は本業あるから、儲けにならないことに夢中になって練習するわけにいかないじゃない?
周囲が許してくれないよ、普通。

ナナ先生が言うには、日本人は基本的に真面目に通ってくるっていうイメージがあるんだそうです(私以外の日本人社会人に教えていた時期もある)。
私も日本の二胡学習者のことよく知らないけど、多分、1:1でひたすら技術向上のために通い続ける人はもちろん、長く通い続けるのでしょうね。
そうでなくて、もう少し進歩は遅くてもいいから皆と楽しくやりたいというタイプの人も、グループレッスンとか、先生のところがサロンみたいになっていて社交の場として、通うのが楽しいって感じで、長続きするのかなぁ?
中国人は、わりと個人プレーだから、大人がグループで楽しくという発想はあり得ないのでしょうね。
私は日本人だけど、私も趣味のグループで楽しくという発想はちょっと自分に向いていないです。

「天賦の才能ないというか、むしろ人より劣っているのに、ものすごく努力できるって、ある意味、すごい才能ね、私ならとっくに止めている」って感じの内容のこと、ナナ先生に言われて感心されちゃった~。こうして思い出して書いてみると、結構、残酷なことを言われているわけだけど…自分でももともと自覚していることだから、今更、さほど悲観はしません。
三味線の師匠にも、「オレだったらそんなに練習できない」みたいなこと言われたことあるしね。

私が才能ないくせに練習できるのは、子供の頃に、練習の方法が分からなくて、結局、何も弾けないまま、大人になっちゃって、死ぬ前に一度でいいから、ちゃんと弾いてみたいという執念があるからです。
むしろ、才能ある先生方には、一生分からない気持ちかもしれません。
前にも書いたけど、弾くことは、私にとってそもそも「趣味」じゃないんです。
「えぇ?じゃあ、その歳で、プレーヤー或いは教学のプロ目指してるの?イタイ~」
というのとも違いますね。
私が「人に教えてみたい」と口にすることがありますが、それは嘘ではないけど、ある意味、「不器用な私でも出来たよ」という人様のお役に立ちたい願望に加えて、儲けられる儲けられないにかかわらず、そういう実態があれば、自分が下手でも、弾いていてもいいんだ、死ぬまで弾き続けられる、弾くことを世間に許してもらえるというメリットがあるからです。

私と同じような心の葛藤を抱えている方でないとお分かりにならないかもしれないけど、そうしないと死んじゃうほどの強い欲求があるのです。

そんなことを考えていたら、たまたま岡本太郎さんの30年前の「芸術と人生」という公演記録をYOUTUBEで見つけて、感動しちゃいました。

http://youtu.be/Twg-glN6cPI

芸術は人生で、人生は芸術なのです。
才能ある人だけが文学やったり、音楽やったり、絵を描いたりできるのが今の世の中だけど、そういうのは嫌だなぁっていう話です。
人は物心ついたときから、相対的に生きるようになりますが、世間のなかにある様々な条件に合わせる、枠にとらわれることなく、絶対的に、無条件で生きようよというようなお話でした。

う~ん、太郎さんは才能あるからそれでいいんだけどね…
一番厄介なのは、太郎さんみたいに、自分が納得できないことは、本当はしたくないというよく似た思考回路の持ち主が、才能ない凡人である場合、居場所がないという…(笑いたいけど、笑えない現実)