無感動

最近、音楽や芝居の公演やライブで、感動してないな~と思う。

あの人、上手いね、と思う事はあっても、手放しで「楽しかった~」という経験はここ数年ないかも。
(社交辞令で楽しかったと言うことはあると思うけど、この楽しかったは、プロとして、さすがですねと言う意味で、ワクワクしました、鳥肌立ちました、ドキドキしました的な感覚とは無縁)

大部分は、あそこミスったね、なんでミスったのに受けてるんだろうねとか、容姿が綺麗だとミスっても可愛いから、羨ましいなぁとか、非常に冷めて見ている。

そもそも、「感動」って何だろう?

感動する脳のメカニズムは解明されていない…
私は、演ずる側の技術の上手下手には、ハッキリ言って関係ないと思う。
なぜなら、その道のプロが目の前で、一生懸命何かしてくれても「ふーん」としか思わないこともあるから。
受け手のコンディションによって、演者とコミュニケーションが取れている、共感できた、演者との距離が近いと錯覚した時、感動というものに近づくのではないかなとも思ったりする。

私自身、精神的に、金銭的に余裕がないんでしょうね。
何かを見たり聴いたりしても、そのお金と時間に見合った(と世間が認めてくれる)何かを自分のものに出来なければ、すごい無駄なお金と時間を費やしたと人様に思われるんだろうなと思うだけで、私自身、演者や作品自体を見てあげていないというか…
簡単な例を挙げれば、この作品を観たっていう「価値」は、後でレポートや話のネタになるかどうかという実質的な利益の損得勘定。
そんな眼で他人や他人の作品を見ているから、裏を返せば、自分が舞台の上に上がったとき、「どうせ、相手は私を見ていないし、聞いていない」と思わざるを得ず、淡々と義務を果たすだけになる…(もちろん、私みたいに心を閉ざした意地の悪い観客ばかりではないだろうけど)
そして、そういう投げやりな気持ちで無表情で舞台に立った場合、技術が未熟なだけに、結果として、ロボットにも劣るんだよねと思うわけで…

生まれつき、そのままの自分でも多くの人に受け入れられていると感じられる人がうらやましい。
一部の人は、生まれつき世間から浮いていると感じているものの、それを乗り越えて自己を表現することで、アーティストとして一部の人に認めてもらえて、うらやましい。
大多数の技術的に未熟な人でも、楽しく仲間と何かを共有できることで、満足感を得ていて、すごくうらやましい。

本日のブログ内容は、努力しても技術が追いつかず、大勢多数の人と感覚がズレてて、感覚を共有できる仲間もいない私の愚痴。
…というか、多分、心理学的には「感動できない私ってこんなに不幸」と酔うことで、自分を特別視し、この気持ちを松葉づえ代わりにして生きているのかもしれない…(この感覚が分かる人は多分、ちょっと、心を病んだご経験ありかも…)

間接的自己肯定

NHK教育に「ハートネットTV」というのがある。
どういう番組かというと、番組ホームページから、引用すると…

障害や病のある人、悩んでいる人、支える家族や共感する人。現代社会には、さまざまな「生きづらさ」と向き合っている人がいます。そんな「生きづらさ」を抱える全ての方々のために、ハートネットTVはスタートしました。“当事者の目線”を大切に、ほかのメディアやニュースとは違う視点で「生きづらさ」を掘り下げ、シリーズ化して放送しています。

昨日、大森靖子(おおもり せいこ)が出ていたので見てみた。
彼女は学生時代、周囲から浮きまくっていたらしい…
話を聞いていると、そりゃ、あんた、浮いて当然やわと思う…
私自身、全然知らない人だったし、若くもない私にとって別に音楽的に共感できそうなシンガーソングライターでもないんだけど、以前、夫が「私が好きそうな子」だと教えてくれた人。
時々、夫は新聞や深夜ラジオで、ちょっと変わった音楽や美術、舞踊の人が出てくると、後で、なぜか「私の好きそうな人」だよと教えてくれる(笑)。

大森靖子の音楽はよくわからないけど、一点、ものすごーく共感できたことがある。
彼女は、いつもクマのぬいぐるみナナちゃんを持ち歩いている。
絶対的に自分を肯定してくれる「誰か」がナナちゃんらしい。
人間には「絶対的に自分を肯定してくれる誰か」を期待できないわけで、「絶対的に自分を肯定してくれる誰か」を自分で作り上げなきゃ生きていけない人いるんだよ。
(多分、大多数の人は自分で自分を直接的に肯定できるので、間接的に肯定するというまどろっこしいことはしない)
その気持ち、よく分かる。

なんども死にたいって思ったらしいけど、自殺は殺されるのと同じだから、悔しいからしなかったそうだ(^_^;)
↑ここは私と違う…私はオバさんなので、放っておいてもあと数年で死ねるので、あえて死のうと思わなくなった…歳とるとだんだん、いい加減になる(笑)

しかし、生きづらさを抱えていない人はいないと思うんだよね。
ただ、大多数の人が感じる生きづらさとは違う生きづらさを抱えている少数派がいるわけで、そういう人たちの中で才能ある人がアーティストと呼ばれるようになっていくような気がする。
少数派の生きづらさを感じていても、大多数の人の感性や常識に無理して迎合できる人や、才能ない凡人の少数派は、どうやって生きてったらいいんでしょうねぇと、私なんかはよく思うのである。

私の最近のお気に入りは、ウサギの奏(カナ)ちゃん。
kana

不健全な動機と現実的な目標

なんか、最近、三味線弾くの楽しくない。
私はぶっちゃけ、もともと、動機が不健全なのだ。
趣味として人と楽しく弾きたいという欲求はほとんどなく…
単に先生みたいな音を手に入れたいというマニアックな欲求…
もしも先生がギタリストだったら、ギター弾いてただろうし、ピアニストだったらピアノ弾いてたと思う(^_^;)
先生が津軽三味線弾きだったから津軽を勉強しただけ。
(念のために付け加えると、先生の音に科学的興味があるのであって、先生自身に情緒的興味があるのとは全く違う…)

だんだん分かってきたのは、私のような人は居場所というか、目指せる現実的な場所(目標)がないかもということだ。
自分が小学生なら単純に「将来は先生みたいになる〜」と言って(親に財力があれば)頑張ればよい。
私が10代20代なら、とりあえず速く弾けたら、かっこいい今時の曲が弾けるので、大学のサークルとか、若い人と楽しくやれるし、聞いてくれる若い人もいるだろう。
私が60過ぎだったら、めちゃくちゃ速く弾けなくても、民謡など味があるねと言ってもらえるかもしれないし、お年寄りで聞いてくれる人もいるだろうな。

うちの家族は、誰も歌謡曲、演歌を歌わないし、子供の頃から歌謡番組ってモノを見たことがない。
紅白ぐいなら見るけど…
私が母のお腹の中で最初に聞いた音楽はベートーベンだし(笑)

そういう人がキチンと民謡を勉強するには、それだけの財力ないし環境もない。
私は基本的に譜面を見るのが苦手で、家で練習するときは、音源と一緒に弾くことで、譜面を見ているのと同じ効果を得ているため、今まで通算何百回も譜本の音源(当然、唄や太鼓も全部入ってる)を再生していることになる。
だから、門前の小僧が念仏を覚えるのと同じで、意味わからなくても鼻歌は歌えるけど、人前で唄えるかというのは別問題。

この先、人に褒めてもらえる、喜んでもらえることは、もう無いんだ、理想の音は死んでも手に入らないと分かってしまうと、何もやる気がわかないのは当たり前だよね。
「やってるうちに、見えてくるものがあるかもしれないし、教えて欲しいという人が現れるかもよ」ということをおっしゃってくださった人もいる。
真剣にうまくなりたい人は、最初からまともな人に手ほどきを受けるし、気楽に趣味で楽しく弾きたい人も、私のような歌謡曲分かんない人に用は無かろう…

この先、誰からも必要とされなくても、やっぱり、先生みたいな音に未練があれば、やめずに弾き続けるべきだろうし、もう、理想の音を追い続ける自分がイタイ、可哀想、耐えられないと思えば、やめるしかない。
この二者択一を回避するために、第三の道、現実的な目標が見つかれば、楽しく弾けるのかもと思う。

でも、もともと民謡が身近にある環境で育たなかった素人の中年で、別に大勢でやる合奏に興味のない人が津軽三味線やり続けるに適切な目標なんてあるんだろうか?

P.S
もちろん、所属している会の方々にはどこで会っても親切にしてもらっているので、ありがたいなと思ってますし、感謝しています。
発表会等の合奏は、会員である以上、これからもちゃんと弾くつもりです。
発表会と青民の合奏にしか現れない幽霊みたいな会員だけど…。